チベットのモーツァルト

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著者 : 中沢新一
  • せりか書房 (1983年11月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (321ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784796701365

チベットのモーツァルトの感想・レビュー・書評

  • あちこちに書いた記事をまとめたもので
    中でもおもしろく読めたのは《極楽論》
    例えばダンテにとって地上が書物の飛散するところならば
    地獄は部分を全体と取り違え他物質性の牢獄で束縛の場所
    天空は相手との関係性を通して自分を知る所であるといい
    又アーメンが言語の限界にあり
    愛の発語は文章構造の限界にあるともいう
    そして「夢見の技法》では
    キルトンステュアートの書いた論文《マラヤの夢理論》
    (チャールズタートの意識の変容した状態に治められている)
    に書かれているという夢の分析や意味の追求で読み取ること以上に
    そこから発展して自分の夢をコントロールし続きを見ることや
    セノイ族が作り上げた心理学であり心理療法である
    《夢表現》という集団でトランスに落ち込み読み取ることであり
    もう一方では夢解釈というサイコセラピーで子供の教育に関わる
    過程で行こなわれる教育で毎朝子供の見た夢を聞き
    その内容を鋳直し夢のゆづきを見たりすることで
    方向付けを与えていく《夢見の技法》
    あるいは《ヌーベルブッディスト》や
    更に《漠の資本論》も面白かった

    読みながら思ったことを連ねてみると

    循環には回転運動と往復運動があるけれども
    片流れでは呼吸がなく駄々漏れになるか
    過呼吸状態となる

    メビウスの輪は2次元の平面だからこそ
    裏表もなく循環運動を可能にし
    無限にまんべんなく浸透し尽くすこともできる

    しかし3次元の立体環境となって
    石をくりぬいたようなクラインの壺においての
    見掛けの全てに浸透することなど不可能なのだ
    厚みのある構造体に入り込む事もできないし
    もっとも肝心な《中心》を体験することがない

    にも関わらず
    部分と全体からなる有機的な人間という生命体において
    自主的に選択しながら生きていれば
    その肉体の隅々まで意識を届ける事ができそうである
    それどころか往復運動によるリンパや血液を通して
    エネルギーや意志を持ち込むこともできていそうではないか

    都市化を必要とせざるを得ない過去と未来に依存することに
    執着して冒険という労働である生命活動自体を嫌悪して
    片肺でしかない依存搾取を手段とする資本主義を選べば
    プロセスである中心や目指す目的を必要とせず
    目の前の結果のみを頼りに我が身を食いつぶしていくしか無い

    どんなに未来に夢をはせても今現在に届くことすら叶わず
    無限の相対性時空間を切り取った過去という一部分で
    足踏みをしていることに気付くこともできず
    閉ざされた輪に乗って最も得な近道と思える直線を走り続け
    依存先を食いつぶした時点で突然に足場を無くし
    平面的に描いた地球の端から流れ落ちる滝とともに
    この世から吐き出されることになるだろう

  • 「ちがう。おまえの見ていたのはただの幻にすぎん。そこが終着点だなどと思ったら大間違いだ。それにおまえはすぐ自分の体験に名前を与えて理解のおもちゃ箱にほうりこんで安心しようとする。おまえの体験していたものは空性なんかではまるでない。ただの幻を見ていたにすぎないのさ」
    …カスタネダの文体に似た中沢新一の出世作。

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