- Amazon.co.jp ・本 (448ページ)
- / ISBN・EAN: 9784797670561
感想・レビュー・書評
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以前から、イスラム教、イスラム教徒の考え方が理解できなかったが、少し理解が進むと同時に全く無知であったことを思い知った。
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イスラム教を理解することは、キリスト教を理解することに繋がる。キリスト教を理解できれば、近代社会を理解できるようになる。
歴史的に見ると、イスラム世界の方が、キリスト世界よりも優秀である期間が長かった。というよりも、世界のなかでも、イスラム世界が最も優秀だったのだ。生活水準も知的水準も高いイスラム世界。しかし、近代化ができなかったために、今のところキリスト教世界の後塵を拝することとなっている。
キリスト教は外的規範を一切要求しない。内面的規範つまり「心構え」だけでよいのだ。だが、キリスト教によれば、人間は原罪を負った存在である。ゆえに、自ら進んで内面的規範は満足させることはできない。仮に進んで善行ができるとしたら、それは神の導きによるものである。このように考えると、内面に一切の本人自身の意志(=自由意志)がないということになる。心の動きも、「すべて」神の導きによるものである。すべては神によって予定されたものである。これが「予定説」だ。
正しきキリスト教徒ならば、正しき行いをする。「予定説」に従えばそういうことになる。当然だ。神が「正しきキリスト教徒」の所作をすべてコントロールしているのだから。
このとき、正しきキリスト教徒は、隣人愛に基づいて行動する。さらに、先述のとおり、キリスト教には外的規範がない。ということで、隣人愛を実践するための行いを、より「合理的」に行おうとするのである。それは、労働の神聖化でもある。公正な市場取引の拡大でもある。契約の絶対視でもある。
イスラム教の場合は、近代化は不可能だ、と小室博士は言う。それは、イスラム教が「宿命論的予定説」をとっているからだという。これは、現世では「天命」に従い(すべてはアッラーの思し召し)、来世では、現世での行いに応じて(因果応報)裁きが決まる、というものだ。つまり、現世(現実)の生活は、アッラーがすべて御差配なさるものであって、人間がどうにかできるものではない。合理化という発想はでてこない、ということである。
また、ムハンマドが最後の預言者であるという点も重要である。なぜならこのことは、イスラム教が絶えず「原理主義者」を生み出すことを意味しているからだ。説明すると、「最後の預言者」ののちに、神が契約を更改なさることはない。ということは、ムスリムは最後の審判が訪れるまで、イスラームに則った行いをする他ないのである。もし、イスラームから逸脱しそうになったら、正道に戻そうとする保守派が登場する。それが西欧・アメリカ的に言うと、「原理主義者」なるものなのだ。
小室博士の著作は面白い、改めてそう思った。 -
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「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」律法を行なったからといって、それで人間は救われるわけではない。大切なのは行動なのではなく、心の中にある信仰なのだというわけである。このパウロの宣言によって、キリスト教は律法、すなわち規範と完全に訣別した。つまり、無規範宗教になった。では、いったい、なぜ、パウロは律法遵守を全否定したのか。その理論的根拠となったのは何か。それは「原罪」である。イエスの教えを理論化するにあたって、パウロが着目したのは旧約聖書の冒頭に記されたアダムとイブの物語である。(…)楽園追放の物語は旧約聖書の冒頭にある話だが、以後、旧約聖書のどこにも出てこない。実はユダヤ教においては、この物語はほとんど重きを置かれていなかった。(…)パウロによれば、人間はすべて神から与えられた現在を背負っている。つまり、不完全な存在であり、かならず悪いことをしてしまう生き物なのである。こんな人間に神が与えた律法を守れるはずがない。(…)いったいなぜ神は、守れるはずのない律法を人間に与えたのか。そこでパウロは、こう考えた。すなわち、律法を守れないことで、人は自分が原罪を持った存在であることを思い知る。いくら努力しても、自分の力だけでは救われることができないことを痛感する。だから、そこではじめて神を心の底から信じようと考える。神が律法を与えたのは、まさにそのためではないか……。このパウロの論理によって、もはや律法は完全に意味を失った。62
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日本人にとって、外面的行動を縛る規範は、言ってみればパンの耳のようなもので、堅いばかりでおいしくない。そんなやっかな部分はポイと捨て去って、おいしくて柔らかい白い部分だけをつまみ食いするのが、日本人の基本メンタリティなのである。114
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キリスト教は、まことに特異な宗教になった。異常と言ってもいい。ところが、たいていの日本人はこの異常さに気が付かない。(…)答えは「日本の仏教も戒律を廃止してしまっていたから」である。最澄による円戒の採用と、天台本覚論によって日本の仏教からは戒律が完全に消え去った。この結果、日本では「形より心」、つまり「戒律よりも信仰」という観念が常識になってしまった。(…)キリスト教がいかに異常きわまりない宗教であるか。それはヨーロッパのみが近代社会を作り出したという事実に端的に現れている。近代資本主義も近代デモクラシーも、キリスト教という異常な宗教があったからこそ生まれた。141
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慈悲深いアッラーは考えを変えて、人間を救うことにした。そこでコーランを与えてたというわけである。よって、キリスト教徒の考えるような原罪は存在しないというわけだ。これはまことに驚くべき後日談だが、たしかに道理は合っている。というのも、もし、人間が恐るべき罪を犯したというのであれば、神はそれっきり人間を放っておけばよかったわけで、その後、アブラハムやモーセ、あるいはイエスを通じて、たびたび人間に啓示を与えた理由がよく理解できない。だが、もし神が原罪を与えていないのだと考えれば、これですっきり話が通るというわけだ。351
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そもそもイスラムは都市から興った。イスラムは砂漠の宗教と言われるが、それは標語のようなものであって、真実ではない。モハメットが拠点としていたのは、すでに商業都市として栄えていたメッカやメディナであった。そのような「都市の宗教」が、経済活動を禁じたりするはずもない。何しろアッラーの神は「勘定高くおわします」。アッラー自身が商売上手を誇っているのだから、何をかいわんやである。399
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かつての王は、「同輩中の主席」という言葉が示すように、せいぜい封建領主の取りまとめ役みたいなもので、しかも伝統主義の縛りがあったから、大した権力を持っていなかった。ところが、力を持つようになった都市の商工業者が領主と対抗するために、王に肩入れをしたことから、王の権力は徐々に強くなっていき、ついには絶対王権なるものが生まれるに至った。(…)もし、イエスがカエサル(ローマ皇帝)のことを批判していたりすれば、王がこれほどまでの権威を持つことはできなかっただろう。しかし、イエスは皇帝のような権力者の存在を否定はしていないのだから、王が俗世でどんな権威を持とうとも関係ないのだ。(…)中世の王のように限られた権力しか持っていない王が相手であれば、いつまで経ってもデモクラシーなど生まれるはずもないのである。426
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イスラムでは、皇帝といえどもムスリムである以上、イスラム法を守らなければならない。イスラム法はすべてのイスラムに平等である。ヨーロッパの絶対王権がその頂点に達したとき、君主はすべての法や制度から自由であるとされた。まさに「朕は国家なり」であって、その権威は誰の掣肘も受けなかった。ルイ十四世とオスマン帝国のスルタンを比べたとき、その富や領土はスルタンのほうが圧倒的であったが、その権威を比べたとき、この関係は見事に逆転するのである。イスラムに近代デモクラシーが生まれなかった理由は、まさにここに存するのである。431
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イラン革命は、西洋流の市民革命ではない。本来のイスラム教では許されないはずの存在。シャー(イラン国王)を打倒し、イスラムの原点に戻った政治を行おうというのが、その趣旨であった。(…)ホメイニとは何者かといえば、イスラム法学者(ウラマー)である。ホメイニはしばしば「アヤトラ・ホメイニ」とも言われるが、アヤトラとはウラマーの中でも高位の学者の呼び名なのである。つまり、イラン革命はとはイランをふたたびイスラム法に基づく社会に作り替えようという、原点回帰の運動であったのだ。435
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聖書の中に書かれていることをストレートに信じるのがファンダメンタリストであって、ファンダメンタリスト独特の戒律があるわけではない。これに対して、イスラム教ではどこをどう振っても「コーランだけを信じればよい」というファンダメンタリズムが生まれてくる余地はない。コーランそのものが信者に対して、外面的行動、つまり規範を守ることを要求しているのだから、クリスチャンのようなファンダメンタリストなど生まれてくるわけがないのである。441
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世界の宗教がわかります。教養として必要です。
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世界宗教の知識が欲しくて数冊宗教に関する本を読んでいて、
そのうちの1冊がこの本でした。
世界史の知識がなんとなくの自分でも追いつけるほどわかりやすく、
また、イスラム教が美しいほど整然としている宗教であることから他宗教との比較がされており、
それによって他宗教の理解も同時にしやすくなっています。 -
筆者はかなりイスラムを贔屓目に書いている。すこし注意が必要だ。しかし、日本人になじみの薄いイスラムを、キリスト教と比較することで分かりやすく説明している。意外とキリスト教の勉強にもなる。非常に面白い。
読み終わると、アルカイダやジハードだけだったイスラムに対する先入観は、大きく変わっているだろう。 -
イスラムの友達が出来たのがきっかけで読んだのかな確か
わかりやすい。おすすめ -
宗教ってなんなんだろう、ということを考えるときに、
最近思うのは、
「広義の生活習慣としてとらえるのが一番はやいんじゃなかろうか」
ということです。
「何が正しいか正しくないか」という以前に、
「その生活習慣がその人にあっているか」
「非合理的であってもいったん身についた生活習慣が変えられるかどうか」
ということが、信仰においては重要なんじゃないか、と思うのです。
そして「何かを判断するときのものの考え方」も、実は生活習慣の一種なんじゃないか、と思うのです。
そういう考え方をするきっかけを与えてくれたのは、まちがいなく小室さんの一連の著作です。
小室さんの本はほんとうにわかりやすくて面白いです。 -
とても判りやすい記述で、宗教ってとっつきにくいなという先入観を取り払ってくれた小室氏に感謝。これほど判りやすく、そして論理的な「宗教」の論理の詳解は、小室氏で無ければ出来ないであろうと思う。民間学者として優れていると思う。■枝葉末節は、殆ど無く、何故イスラムに「資本主義」が根付かないのか歴史的論理的に明快かつわかりやすく論理を展開する。何故ジハードが、他の宗教には無く、イスラムに在るのかも良く理解できた。■イスラム信仰者のアラブ人の「約束を守らない」アラブ人と「習癖」は、その信仰にあったことも理解しやすく解説されている。イスラム教の信仰論理を知るには必携だろうとも思った。
以下引用
「ムスリムが「ありがとう」と言う相手は、神のみ
さて、こうした事実を踏まえてみれば、筆者が「イスラムにおいてはヨコの契約が存在しない」と指摘した意味もお分かりになるであろう。
たとえば、イスラム教徒と日本人が契約を結ぶとする。
その場合、日本人はそのイスラム教徒と直接・対等に契約を結んだと思っているわけだが、一方のイスラム教徒はそう思っていない。
イスラム教徒が何か約束をする場合、それはすべて「頚動脈よりも近くにいる」アッラーに対して約束をするわけである。
つまり、披は心の中でタテの契約を結んでいるのだ。
彼が「約束を守ります」と言った場合、その言葉は契約相手に対してではなく、神に対して言つていると思わなければならない。そこが分からないから、日本人も欧米人もイスラムとの取引に失敗してしまうのである。
こうしたイスラム教徒の心理をひじょうに分かりやすい形で証言しているのが、第三章でも紹介した、サウジアラビアのジャーナリスト、U・D・カーン・エスフザイ氏である。
氏は、日本人が「ムスリムはけっして『ありがとう』という言葉を言わない」と批判するのに対して、こう説明する。
「中東の因で買い物をする。日本で買い物をすると、売ったほうはお金を受け取ると、お客さんに対して『ありがとう』と言う。けれども、中東の人びとは、お客さんに対して『ありがとう』 と言わない。
ホテルでチップをあげても、あるいは道で子供にお金を恵んであげても、けっしてその相手に 『ありがとう』とは言わない。日本人にとってはこれが 『ありがとうも言わない!』ということになるが、これも習慣のひとつである」 (『私のアラブ・私の日本』CBS・ソニー出版)
では、なぜ彼らは 「ありがとう」と言わないのか。
その答えは、もう読者もお分かりであろう。
引用を続けよう。
「イスラムの人間は、その『ありがとう』 は神に言うのである。商売を成立させてくれたのは神である。理屈でいうと、売ったほうは商売が出来たのだし買ったほうは欲しいものを手に入れたのである。そうして、両者に喜びを与えてくれたのは神である。だから、お互いに 『神にありがとう』と言うのである」 (同書)
商取引も一種の契約である。
欧米の資本主義においては、売買契約はもちろんヨコの契約であって、人間同士が結ぶものと思っている。
だが、イスラム教徒にとっては商品を売り買いする場合であっても、そこには神と人間のタテ の契約しか存在しない。だから、それで儲けても相手(神より下等な人間)に感謝する必要を感じないというわけなのだ。
(中略)
すべてはアッラーの思し召し
イスラム教の世界においては、ありとあらゆる約束はタテの契約によって成立する。ムスリムたちは商売においても、神と契約を結ぶのである。
とすれば、欧米人よりもイスラムのほうが契約厳守になりそうなもの。
そう思ってしまうのだが、現実にはそうならない。彼らは契約を守ることができなくても平然としている。
これはいったいどうしてなのか。
神との約束するほうが重要に決まっている。
その理由もまた、宿命論的予定説にある。
イスラムでは、現世に起こることはすべて「天命(カダル)」であるとする。アッラーがすべてを決めているというわけだ。
アッラーの能力は計り知れない。どんなこともアッラーの思し召しによって動かされている。
ここがイスラムにおける契約を考える上で決定的に重要。
たとえば不測の事態が起こったり、何かミスが起きて、契約を守れない状況が発生したとする。
そのとき欧米人や日本人は、トラブルを何としてでも乗り越え契約を履行しようとするだろ う。あるいは、契約書に従って違約金を払うのを覚悟する。
これがヨコの契約に慣れた人間の感覚。
だが、タテの契約に取り巻かれたイスラム教徒はそう思わない。
何かトラブルが起きて、契約が守れなくなった。
このとき彼らは反射的に「これはアッラーの思し召しによるもの」と考える。なぜ、こんなことをなさるか、その理由は分からない。だが、アッラーにはアッラーのお考えがあって、こうなさるのだ。だったら、しかたがないではないか。こう思ってしまうわけである。
すべては「アッラーの思し召しのままに」−つまり、宿命である。
これをアラビア語で「インシャラー」と言う。イスラム教徒がしばしば口にする言葉だが、これは単なる挨拶ではない。
イスラム教徒はタテの契約である以上、どんな約束も一所懸命に守ろうとする。その精神に疑いの余地はない。その熱意はひょっとしたら、欧米人を上回るかもしれない。
だが、そこに神のご意志が入ってくる。すべては「インシャラー」である。こうなってしまえば、契約書のとおりにビジネスが進む保証はなくなるのである。しかし、それはけっして彼の責任ではないのだ。
そうした意味を込めて、彼らは「インシャラー」と言う。この言葉をけっして軽んじてはいけない。
エスフザイ氏もそれを強調する。
「何かを約束する。その約束は必ず守る。けれども、いつ、その約束を履行するかは、当然、努力はするけれども、インシャラーなのである」