サブタイトルは「民を救った天下の副将軍」。しかし、副将軍という身分は江戸時代にはない。どうやら德川光圀を意識してのことのようだ。ただし、德川光圀が「副将軍」と呼ばれているのは、あくまで「水戸黄門」のドラマの中の話である。
保科正之は第2代将軍德川秀忠の落胤。第3代将軍家光(異母兄)、第4代将軍家綱の2代に亘って幕府の輔弼役を務めた。この間に正之が関わった主な政策として、「末期養子の禁の緩和」「殉死の禁止」そして「大名証人制度の廃止」があり、これらは家綱政権の「三大美事」ともいわれている。その他、江戸の人口増大による水不足の解消のために玉川上水の開削したり、明暦の大火時には機敏に対応し、江戸の復興に向けて見事なリーダーシップを発揮したことなどでも知られている。
一方、正之は会津藩主でもあり、藩政においても、殉死の禁止、減税、酷刑の廃止、孝子梶原伝九郎の採用の他、社倉制度によって領内に飢饉や餓死者を発生させなかったことや、90歳以上の者に老養扶持(今でいう「老齢年金」。但し、掛け金なし)を与えたことなどから、「福祉制度の父」ともいわれる。家康、秀忠、家光が武断政治を行ってきた時代から、文治政治(平和)への切り替えの基礎を見事に築いたといえる。
正之の政治で徹底していることは、思いつきで政策を打ち出すのではなく、きちんと理論的に裏打ちされた政策であること、決して、幕府・諸大名・旗本・御家人の幸福ではなく、その下にいる「民」の幸福の実現に向けられていたことだ。それを、無欲恬淡な性格、優れたバランス感覚そして卓越した判断力で実行した。しかしもう一点重要なことは、正之がリーダーシップを発揮できたのは、確かに彼の資質・素質によるところも大きいが、それだけではない。将軍家綱との信頼関係、民・領民との信頼関係があってのことである。良い政治のためには、正之のようなぬくもりや思いやりのあるリーダーも必要だが、決して一人の優秀な人物の存在だけで実現するものでないことを改めて実感するのである。