- Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
- / ISBN・EAN: 9784822250461
作品紹介・あらすじ
複式簿記が先か?
資本主義が先か?
14世紀のヴェネツィアで広まった複式簿記は、「富を測定したい」という人間の欲望を実現し、資本主義の飛躍的な膨張をもたらした――。気鋭のジャーナリストが切り拓く、資本論の新境地。
感想・レビュー・書評
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前半の複式簿記の発祥と歴史に関するところは面白く読ませてもらったが、後半のGDPや会計不祥事、グリーン経済のくだりはいかにもちょっと調べて書きましたといった感じで牽強付会にも見えてしまい蛇足気味。しかし原著刊行が2011年で、アカウンタントがグリーン経済への転換において中心的な役割を果たすことができると言っているのは、2023年現在の状況と照らし合わせると時代の流れを正しく読んでいた。
いまやすっかり電子化された複式簿記だが、もともと紙の帳簿に手で記帳する技術として開発されたことに改めて思いを馳せた。また、アカウンティングとはすなわちアカウンタビリティとも。もともとは神様というか教会・世間向けの利益追求の言い訳(?)的な説明だったとは。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
バランスシートでも世界経済誌でもなく、ルカ・パチョーリによる複式簿記の紹介から始まる、会計史の本。
いかにも洋書っぽいスタイル(偉人の言葉とかの人文教養で殴っていくあの形)で、複式簿記がどれだけ頑強な方式なのかを説明している。なので、多分財務会計の知識がそんなになくても、読むだけで面白い。
最後の1章は急に環境保護の話になって面食らうけど、「環境に対する負荷を財務諸表に計上する方法が無いからフリーライドになっているので、それを開発する必要がある」という話は、この手の話題で初めて納得が行くものだった。 -
ややタイトル詐欺、バランシートそのものはあまり出てこないし歴史と言われるとちょっと。
会計から考える資本主義のこれからといった内容。
構成としては簿記(会計)が発生した発端ともいえる人物の活動に焦点を当てる前半と、会計では解決しない現代経済の問題提起の二つに大きく分かれていて、
前半部分は会計制度の根本部分は大昔から変わらずに今でも使用できている凄いモノだって話の補強でしかないのだけれど、後半部分は会計史が書かれたモノの中でより経済(学)について軸足が置かれてるのがこの本の特徴だと思う。
経済指標などと言ったものは会計の知識が強く影響して生まれ利用されるようになったと思われる としながらも、経済指標は経済を正確に表していないので問題があるって話なのだが、現代の会計は会計が生まれた時とは違った形になっていることには触れられず、現代も昔も変わらず会計不祥事は続いてるとだけしか記述が無かったりと、なぜ?に応えるでもなく、流れを解説してるでもないので、そのあたりは他の書籍を参考にする必要があるのがちょっともったいないなと感じた。 -
複式簿記が中世のイタリアから広まったということは経済学の授業で習ったが、その詳細については聞かなかったので副題の「ヴェニスの商人はいかにして資本主義を発明したのか?」に期待して選びました。
請求記号:336.91/G49 -
歴史
経済 -
この題名はちょっと大げさでは?
『バランスシート(複式簿記)が与えた資本主義への影響』とでもした方が適当ではないかな。
細川護煕に代表される「脱成長」の人たちって、「GDPやGNPといった会計以外にも"豊かさ"を図る指標があっていいんじゃない?」ってことを言いたいのだろうけれど、そもそもそういった指標がどう生まれたかを明確に把握してないのと、それは資本主義をやめるということにもつながってくるので頓珍漢に響くんだな......と本書を読んで改めて思った。
資本主義が行き着くとこまでいってしまっているので、メンテンナンスが必要なんだけれど、大きくなりすぎてしまったし、それがデキる人たちにとってはメンテンナンスの必要がないので放ったらかしに鳴っているということなのだと思う。
いずれにせよ、資本主義と付き合っていきざるをえないわけで。資本主義をサバイブしていく武器は複式簿記であり、それは数字だからといって科学的なものとは限らず、恣意的なモノにもなるうる(数字自体は嘘はつかないが人は数字を作って嘘をつく)のだな。
ドイツの経済学者=ヴェルナー・ゾンバルトは『近世資本主義』(1902年)において「資本主義の出現と13世紀に芽生えた複式簿記には深い関係があり、複式簿記のない資本主義はありえない。両者はちょうど型と中身のようなものである。」とし「資本主義が複式簿記のなかに自らを促進させる要素を見出したのか、複式簿記がその特性から資本主義経済を貼っっ制させたのかはわからない」と述べた。
更にゾンバルトは資本主義をこう定義する。
<blockquote>取引体制として認識される、ある特定の経済システムであり、常に協調体制にある2つの層から成り立っている。一方は、生産手段を笑友・管理する者で、他方は資産を持たないために市場で働くしかない労働者である、ここに富の想像と経済的合理性という2つの本質がある。」(P.159)
</blockquote>
<blockquote>会計の世界は数字を扱っているため、科学的で正確なものだと思われがちだが、その中心にあるのは不確実性だ。実際、会計というのは、accountという言葉の持つもう一つの意味(物語る)が示すように主観的で偏ったものなのである。たとえば、「ソールズベリーのハロルドが新しい牛を購入するために金を借りる」という話は、「2ポンド10シリングの夫妻」に変換される。そこでは、ハロルドの人生における出来事が、その次代と場所から切り離されて、「資本」「賃金」「収入」という名目のもとに数字に置き換えられる。しかも、物語が数字に変わったからといって、人生につきもののランダム性や不確実性が消滅するわけではない。(P.211〜212)
</blockquote>
<b>価値を図る従来の方法は、すでに時代遅れになっている。 ――アル・ゴア(2006年)
</b>
『多くの経済学者がすでに指摘しているように、GNP(GDP)の最大の弱みは、資本的資産の償却が考慮されていない点にある。』
『GDPは経済の主なフロー ―生産、消費、貯蓄、投資―を反映したものであり、生産する元となる「資本」(建物や設備など人間が作ったものだけではなく、社会、人間、天然資源を含む)を測定していない、フローに注目することで、セチ作担当者はGDPから間違ったシグナルを受け取ってしまう、とサー・パーサー・ダスブタ教授(ケンブリッジ大学)は指摘する。
<blockquote> 地球上の限りある資源の価値を評価する――あるいは評価しない――方法である複式簿記は、この地球上の生命を存続させるかもしれないし、終わらせるかもしれない。環境の利用はコストがかからないとして、国や企業の決算書に含めず、地球をこさし続ける道もある。自然を会計に含めることで、豊かな自然を取り戻す道もある。数字や貨幣がこのグローバル資本主義経済において唯一の胸中言語であるならば、それを使うべきであろう。赤右端とはエコ・アカウンタントとして、この転換のなかで中心的な役割を果たすことができる、2010年にジョナサン・ワッツ(英ガーディアン紙)がアカウンタントを『地球上の最後の希望の星』と表現しtなおはこれが理由だ(P.241)</blockquote>
<blockquote>豊かさが富なしでは語れなくなり、企業や政府、金融機関の欠落がグローバルな規模で明らかになったいま、私たちは会計の規則に恣意性があるということをはっきりと認識する必要がある。(P.248) </blockquote> -
歴史が好きなので面白く読めた。
特に興味深いのが、最初期の帳簿には十字架が記されていたということ。これはクリスチャンである彼らからすると神に誓って不正はしないということである。つまり会計をするものにとって重要な要素は誠実であることだったのだ。
僕も会計を生業とするものの1人として大事にしたい。 -
題名が違う。会計の歴史。が正しい。
インドやアラビアに起源を持つ会計(複式簿記)、数学がベネチアで再発見されてヨーロッパに広まり、それが株式市場や製造業の発展共に精緻化された。
一方エンロンやワールドコムにある不正会計のいたちごっこはつづく。
GDPはケインズなどが戦時の国家統制のために作ったものがその後も使われ続けている。
最後に自然環境はオンバランスされず、使用された時のみGDPに計上される。つまり減耗すればするほどGDPは上がるが、長期的な生産能力は下がっていると思われるため、自然環境、教育、家庭内労働の再生産コストを考慮した指標が求められる。 -
歴史を扱っている部分は面白い。終盤の会計スキャンダルや世界をよくするために会計にできることは何かを問う、みたいな部分は退屈だった。
ルカパチョーリとダビンチのつながり、複式簿記とウェッジウッドとダーウィンのつながり