著者 :
  • KADOKAWA(メディアファクトリー)
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  • Amazon.co.jp ・本 (212ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784840100274

作品紹介・あらすじ

わたしの経験からいうと、性欲とキスをしたいと思う気持ちはまったくべつものだ。柳美里・初の性小説。

感想・レビュー・書評

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  • 帯には「柳美里・初の性小説」と書いてありますが、小説というよりは、エッセイだと思いました。
    ある編集者に「ポルノを書いてみないか」と持ちかけられた作者が、純粋に身体のパーツ(へのこだわり、愛着?)から始まる、男女の性愛を書いてみようと、各パーツにまつわる自身の体験と、ある男女の性愛シーンを書いた短い文章で構成されています。

    さてまず、この作品を読んで「私が」驚いたのは、柳美里さんの恋愛経験?性体験の多さでした( ̄▽ ̄;)。
    いや~、世の中には、こんなにいろんな経験をしている方もいるのですね~
    いや、いるんでしょうけど、つらつらと描かれると圧倒されます。
    ただ、エピソードは様々あれど、柳美里さん一人の体験なので似通ったものが多いです。あ、同じ人のことを何回も違うパーツのエピソードとして出している可能性もありますが、それはわかりません、悪しからず。

    柳美里さんの何人かいる男のタイプが、妻子持ちや他に彼女がいる男。
    そして、なかなかにぐちゃぐちゃな別れ方をする。
    柳美里さん自身は、セックスというのもを、自傷行為というふうに位置付けていて、自分を汚す行為なのだけど、汚したいという欲望から、過剰に求めてしまうところがあるということなので、相手の男も、自分を汚すタイプになってしまうのかもな~なんて思いました。
    もう一つ面白いのが、柳美里さんは手紙をよく書くということ。会いたい気持ちをつづったり、別れの手紙を速達で出したり。
    多分、書かずにはいられないのだろうなぁ。
    このフェイドアウトをしないという彼女の向き合い方は、男との行為を自傷行為としながらも、人間としては、男ときちんと向き合っている証拠なのかな?なんて思います。

    なんだかおかしな話なのですが、この作品の設定そっちのけで、柳美里さん自身について興味がとてもわいてきます。
    私は、とてもかわいいなぁ~なんて思いながら読みました。
    しかし、もともと柳美里さんのファンでないと、読んでも「だから何?」となってしまうかも( ̄▽ ̄;)

    最後に。
    「肩」という題材で、木村拓哉さんのことを書いているのだけど、彼に『太陽がいっぱい』の主人公よりもさらに復讐心と憎悪を抱いた役を与えたら面白いのではないかと書いてあって、これは私もそうだな!と思いました。
    キムタク、そろそろ悪役やってもいいのでは?あはは(≧▽≦)。

  • 嫌いな人は嫌いだと思いますが
    「男」という、見た目は似ていても全くもって不可解な生き物を、体の部位を題にして絶望的に語っていく本。

    柳美里の作品は、「愛しているが故に絶望的」であるため
    どれだけ嫌な思い出であっても、そこには愛がこもっている。
    本当に悲観的でどうしようもない人だし、そういった話しかないけれど。
    幸せで、道理の通った恋愛しかしていない人には共感してもらえないと思うけれど
    そうじゃない人にとっては、本当に共感できる本。

  • ずいぶん前に購入して本棚で時を過ごさせてしまった。なぜかその時は読めなかったのだ。少し読んで、今読むのはやばいと思ったのではなかったか?多分、その頃に苦しく辛い恋でもしていたのかもしれない。
     今回書棚を整理していてこの本が出てきたので読んでみた。どこまでエッセイ、男遍歴暴露本?それとも中身は小説、フィクションなの?ノンフィクションならこんなに赤裸々に体験を暴露できるなんてすごいな!と。
     エロよりもトゲを感じる。攻撃的というか、男に対して、あるいは何かに対して復讐をしているかのような。
     2日で読んで、不倫はしてはいけないのじゃなくて、してもいいんじゃないかと何度か思ったことは収穫だった。のかな?

  • 今は「立読みご遠慮を」という時期なのですが、少しだけと立ち読みのため開けた2ページを読んで引き込まれました。
    引き込まれ、切ない気持ちになりました。
    著者の代表作の1つなのかな?と思ったんですが、そうでもないみたいですね。

  • そのまま、って感じ。

  • 男性の肉体のパーツをテーマにして、性行為について著者の体験談風に書かれたエッセイ。
    月曜トークの山中さんからの課題図書。草食系男子の増殖による地方公共団体の婚活支援事業の隆盛とその失敗を見かねられた氏は、福岡市立青年センターで行われる芸術イベント「くうきプロジェクト」の朗読会に本書を取り上げて、青年の性欲増進に資することはできないか?という提案をされたのである。

    本書の中で私が性的興奮を覚えた箇所は、著者の柳美里さんが仰る通俗すぎる三文小説のような描写の部分ばかりで、私のイメージする性行為の通俗さが情けない。同じ女性作家でも田口ランディさんは、性行為の描写を自分で書いていて濡れてくるので、オナニーしてしまうとか…アッケラカンと書かれていたのを何処かで読んだけれども、なんとなく柳美里さんの性行為に対する向き合い方は、田口さんのようなおおらかなものを含んでいない気がする。

    柳美里さんの場合、どちらかと言うと書くことのほうが先にあるような…書くために、性行為をやったり、やられたりされてるような印象をもった。おそらく書くことによって、柳美里さんは自分を一つの人間としてなんとか取りまとめておられるのだろう。書く力が備わっているから、カラダやココロがバラバラになりそうな気持ちになるのか、カラダやココロがバラバラになりそうだから書かずにはいられないのかは、今となってはもうどちらが卵で鶏かもわからないし、わからなくても柳美里さんは作家として成功しておられるから、今更大きなお世話でもある。

    心配なのは彼女がベストセラー作家で、多くの女性や男性が彼女の書くものに共感を覚えているであろうという事実である。批判的に読んでくれていればいいが…おそらく柳美里さんの読者は彼女の書く物語の主人公に自分や付き合った彼女を見出すのであろうから、これはなかなか悲惨な状況である。なぜなら、まず、現代日本には柳美里さんの描くような心身乖離的な状況が実際に現出しているということであり、また、たとえ彼女の物語に共感しても、ちっとも楽しくなれそうではなく、まったくもって悲惨な状況のままであるしかないからだ。

    しかも、想像するに柳美里さんの物語は、鋭い刃物のように研ぎ澄まされた言葉によって語られ、ストーリーは練り上げたことがわからないほどに純粋に見える透明な悪意に満ちていて、読む者のココロとカラダがズタズタに切り刻まれてしまいそうだ。私など、ちょとしたシーンが散りばめられたこのエッセイを読んだだけで十二指腸潰瘍が再発したくらいだ。

    しかし、それは彼女が「書ける」ということによって招き寄せた極限的な情景だということに恐らく熱心な読者は気づかない。むしろ敢えて気付こうとしないといってもいいかもしれない。柳美里さんの描く暗くて深い性に関わる物語を読むことで、柳美里さんほどの痛みや苦しみや努力を支払わずとも、書籍代(お金)だけで、柳美里さん自身が血を流して紡いだ世界に、自分をやすやすと位置づけ、甘美な自己陶酔に浸ることができそうだからである。

    だが、実は書くことのできない凡人は、自分の力だけではこうまで深い痛みや苦しみを体験することはできない。そういう情景を自ら脳内に紡ぎだすことなどできるわけがないのだ。だって、思い描けないんだもの。美しい詩的な言葉も持たないし、純粋な悪意などそうは保ち続けられない。

    嘘だと思うなら自分の体験を書いてみればいい。柳美里さんのように克明に繊細に鋭く言葉に置き直すことなど凡人にはできない。書こうとすればするほどぼんやりしてきて、情景は曖昧になり、記憶はあやふやになる。一方で過剰な描写になって陳腐になるか、あまりにも書くことがなくてしょうもない話になってしまうのが、おちである。

    時々私は書いてみるのでこれは経験に基づく推測である。凡人は自分ではいかにも鋭いつもりでいても、実際は案外ボォ~っとしていて、曖昧な体験しかできないものである。人間って基本のところは、みんなそんなに変わんないでしょ?柳美里さんは、特別にも幸か不幸かそんな文章が書ける力を持っってしまった人なのである。

    悲惨な過去(もう既にここから想像が始まってる可能性も否定はできないが…)をそのまま未来に延長すれば、一層悲惨な未来しか描けない。悲惨な未来を回避したければ、この現在で、過去と未来を同時に新たに書き直さなければならないのだ。新たに書き直すんだから、これこそまさに想像ではなく創造でしょ?観念的な想像ではなく「生きる」という力による新しい物語を創り出す生産でなければならない。過去から未来への安易な連なりを飛び越える、なんらかの跳躍が必要なんじゃなかろうか?

    過去の記憶を下敷きにした観念的な想像では、過去から未来への直線的ニュートン物理学的絶対時間に基づくダラダラした延長にしかならない。どういうわけか、そんな思考方法を現代人は骨の髄まで染み込ませている。なんとかしてこの思考方法から抜けださなければ、どんなにものごとの変化を細やかに感じ取り、その帰結を詳細に予測できる想像力を持っていても、未来は悲惨である。いやむしろ想像力が豊かであるほど、より悲惨になる可能性の方が高い。

    さらに、柳美里さんは作家として書き続けなければならないから、この悲惨さを自ら招き寄せ、背負おうとされている。ご苦労なことである。気の毒でならない。がそれは柳美里さんの選ばれた道なので、とやかく言えるものではないのもまた至極当然のことである。しかしこれがまた売れたりするのだから、資本主義における悲惨さの増大という悪循環は止まらない。

    人間関係に悩み心と身体を引き裂かれた悲惨な体験を持つ作家が、心血を注いでその悲惨さを極限にまで推し進めた甘美な物語による世界を紡ぎだす。ありふれた人間関係に傷ついて嘆く自分の言葉を持たない凡庸な読者は、その物語に描かれた繊細で鮮やかな極度の悲惨さによって、それほどでもなかった自分の悲惨さをより深く暗いものとして固定化し美化することが可能となり、彼らが自力では到達することの出来なかったヒーロー・ヒロインの域にまで登りつめるような快楽を得る。

    これによって本が売れ、それがため作家はまた次の作品を生むべくさらなる悲惨を求めて、心と身体が引き裂かれる人間関係を重ねなければならないという状況を考えると、それはまるで作家と読者が絡まり合って、相互に作用しながら二重の螺旋階段をさらなる悲惨を求めて下へ下へと下降して行くような情景に見える。しかもそこには性行為が描かれている。

    そうなると、この本を読んで私が言えるのは、
    「えぇ~!?セックスってそんなにひどいもんなのぉ~~~!」
    「じゃぁ、そんなに無理してやんなくてもいいかな…」
    というようなことになる。

    でも、もしやるんだったら性愛の快楽は、もっと楽しくて気持ちいいものにしたいと思うぞ。

    なので、このテクストはくうきでの朗読には不適です。という結論になりました。山中さんごめんなさいね。

    Mahalo

  • この方の書く男達は面白い。

  • ずっとなぜか避けていた柳美里さんの本。
    まずこの「男」から読むことに。
    男性の体のパーツごとに語られる
    エロティックな自伝?ですね。 うん。
    なぜか男好きする女っていると思いますが
    彼女はそうなのでしょう。
    自分が求めなくとも。

    ちなみに私が見とれる男のパーツは「手」です。

  • 高校生の時に読みました。友達に「似てるね」と言われましたが、作中の人物にているのか、作中の作者に似ているのか、書き手としての作者に似ているのか未だに分かりません。

  • 言葉にできない感覚に陥る。

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著者プロフィール

柳美里(ゆう・みり) 小説家・劇作家。1968年、神奈川県出身。高校中退後、劇団「東京キッドブラザース」に入団。女優、演出助手を経て、1987年、演劇ユニット「青春五月党」を結成。1993年、『魚の祭』で、第37回岸田國士戯曲賞を受賞。1994年、初の小説作品「石に泳ぐ魚」を「新潮」に発表。1996年、『フルハウス』で、第18回野間文芸新人賞、第24回泉鏡花文学賞を受賞。1997年、「家族シネマ」で、第116回芥川賞を受賞。著書多数。2015年から福島県南相馬市に居住。2018年4月、南相馬市小高区の自宅で本屋「フルハウス」をオープン。同年9月には、自宅敷地内の「La MaMa ODAKA」で「青春五月党」の復活公演を実施。

「2020年 『南相馬メドレー』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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