マッカーサーと戦った日本軍―ニューギニア戦の記録

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  • ゆまに書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (649ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784843332290

作品紹介・あらすじ

「地獄の戦場」から生還した兵士たちが踏みしめた祖国には、仇敵マッカーサーが君臨していた。十八万人もの戦死者は何のために死んだのか。その新たな位置づけ。

感想・レビュー・書評

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  • 東2法経図・6F開架:391A/Ta84m//K

  • 戦史の専門家によるニューギニア戦の通史。太平洋戦争でのニューギニア戦は、戦史叢書により詳細に記述・出版されているが、戦史叢書は何冊かに分散して記述しているため1冊にまとまった詳細な通史としては初めてのものとなる。戦史叢書出版後にわかった事実、特に豪州の資料も蒐集分析しており、これらを加え再分析された客観的見地からの良書と思う。中央、特に大本営による戦争指導とニューギニア戦に従事する陸軍を支援しない海軍の姿勢を痛烈に批判している。
    誤字脱字が見受けられる。
    「(ニューギニアでの取材)日本人に比べ平均寿命が短いニューギニアで戦争体験を聞きだすのは難しいと思っていたが、(文字もないのに)将校の名前まできちんと伝承され、聞き取りの不自由がないことに驚かされた」p4
    「安達二十三中将に率いられた第18軍は、ニューギニア上陸時から補給不足に苦しみ、島嶼戦において不可欠な海軍艦艇の協力をほとんど受けられなかったにもかかわらず、マッカーサーの米豪軍と堂々と渡り合ってきた。負けたとはいえ、強大なアメリカを相手にして四年近い太平洋戦争を日本が戦ったことを、日本人の誇りとする人達もいるが、その多くを、ニューギニア戦における第18軍の頑張りに負っていることに気付く日本人は極めて少ない」p16
    「イギリス中心の資本主義経済も、ニューギニアやソロモンにはそっぽを向いていた。資本主義経済にとって魅力がなければ、関係国間の軍事的摩擦も生じないのが帝国主義の原理である。経済だけでなく軍事的にもまったく価値を有しないと判断されたのか、ニューギニアやソロモンに関する軍事情報の蒐集は見向きもされてこなかった」p23
    「日本側から見て、ニューギニアやソロモンを戦場にした原因は海軍にある。シンガポールから南方戦線を眺める陸軍には、遠すぎるこの地域は攻勢終末点の外であり、軍事的価値もないと思われた」p24
    「一人の指揮官の下に陸海軍を置く一元化が兵理だが、兵理が通用しない日本の陸海軍では、その都度、中央や現地で協定を結んで作戦の基本線を決め、協定に従って陸海軍が別々に作戦する方法をとった。二つの国家がそれぞれ派遣した軍のようなものである」p26
    「新しい飛行場の取得は新たな作戦へと発展する。整備が進んだ飛行場に航空隊が進出すると、敵の脅威を除去するという目的が設定され、新たな進攻作戦が生み出される」p29
    「(海軍の)本心は守勢に回ると不利になることをおそれ、開戦以来の攻勢を休まずに続け、オーストラリアであろうがどこであろうがどんどん進むべきというものであった。連続攻勢主義といわれる考え方である」p30
    「ラバウルまで伸ばした兵站線が国力に見合うものか否か、海軍には考慮する態度が著しく欠けていた。陸軍にしても大差なかったというのが一般的見方だが、南太平洋における戦いでは海軍が主導権を持っていただけに、海軍にこうした科学的認識がなかったことが、部隊を派遣した陸軍を大いに苦しめることにつながった。アメリカの国力を知らなかった陸軍が戦後批判されたように、日本の国力を無視した海軍も同じく批判されなくてはならない」p30
    「オーストラリアにとってニューギニアやソロモンはまさに生命線であり、この地域を守ることは国土を守ることであるとしている」p34
    「ニューギニア戦の特徴は、最初から最後まで制空権が取れない中で行われたことだが、ニューギニア戦が苦戦の連続であった理由は、こうした事情下で作戦が強行されたことにあった」p38
    「日本の指揮官は陸大や海大で教えられた以上のことができなかった。思考力を養い応用力を培う教育を受けてきた英米の指揮官には、思いもかけない着想や発想を打ち出す能力に優れていた」p46
    「陸海軍の主張が食い違いどちらも引き下がらないとき、一方を採用し他を落とす権限を持ったチェアマン不在の統帥権システムにおいては、両者の主張をそのままくっつけるか、実施に順番をつけるぐらいの解決法しかなかった」p54
    「3月4日の陸海軍局部長会議において陸軍側が「攻勢の限界については、篤と留意ありたい。軍事力及び国力の限界を超えた作戦の究極の運命は悲惨という外はない。陸軍は支那事変において、既にこの誤りを犯している」と自らの非を率直に認めた上で説得に努めた。この結果、海軍もついに折れ、オーストラリアに進攻する意志のないことを表明するほかなかった」p54
    「積極論と消極論が対立したとき、積極論に引きずられるのが歴史の通例」p55
    「象徴的な天皇の下で、参謀総長や軍令部総長がスタッフの域を出ようとしなければ、必要な時に必要な決断をする指導者がいないのと同じである。不利な二正面作戦(ソロモンとニューギニア)から抜け出すためには、方針の大転換を図る必要があったが、指導者が不在同然の体制では成り行きまかせになるほかなかった」p99
    「工業力と火力主義を結びつけて、短絡的には日本は火力主義がとれなかったという理屈は成立しない。日本軍は敗戦の瞬間まで突撃戦法、白兵主義を最高の戦法と信じて疑わず、仮に高い生産力や弾薬があっても火力主義戦法を取ることはなかったであろう」p107
    「日本軍では命令違反による解任劇が数例あったが、指揮能力を問われて解任されることなど皆無であった。ところが、米軍には、作戦指揮に関する能力、作戦に取り組む姿勢が駄目と判断されるだけでクビになる厳しさがあった」p109
    「ニューギニアの自然を味方につけた日本兵は、肉体の限界をはるかに越えた力を発揮し、皮膚が骨に張り付くまで米豪軍を相手に戦い続けた。生命を維持するエネルギーをとっくに使い切り、さながら精神の持つ力だけで戦い続けたように見える。大日本帝国が追及してきた精神主義は、日本兵をして地獄絵図の中で力を出すことにつながった」p115
    「(日米の違い)20年、30年前の戦訓にも価値があるが、1週間、1ヶ月前の戦訓の方がはるかに現実的な価値がある。したがって一回の戦闘終了後、数時間、数日間に大急ぎで戦訓を取りまとめ、これを上級司令部に報告する。報告を受けた司令部は隷下部隊に大至急回覧し、同じ轍を踏まないようにつとめることが次の勝利につながっていく。ときの勢い、その場の空気、人間関係で物事を決めることが多い日本社会では、この一連の努力の緊急性に対する認識が薄く、戦訓が活用されることはあまりない。(米軍の膨大な保管文書から明らか)」p135
    「同じ失敗を繰り返すのは、指導部あるいは指導者の問題であるとともに、戦訓もしくは教訓を共有できない組織の問題である。数ヶ月前とまったく同じ失敗を繰り返し、多くの将兵が命を落としたことは非難されるべきである。将兵にとって、こうした死こそ、犬死というべきであろう」p136
    「(ラエ攻防戦)上陸して日本軍と銃火・砲火を交えたのは主に豪軍で、米軍は主に航空機と艦船とによる航空援護と海上輸送のほか、砲兵の砲撃、工兵の土木作業を担当した。そうなると米軍人であるマッカーサーは、米兵を安全な後方任務に下げ、オーストラリア兵を危険な前面に出したなどといわれなき非難を受けそうな微妙な立場にいたといえる」p180
    「(ATIS資料)国内では極秘か軍機に相当する軍事情報が、捕虜によって洪水のように流出したことがわかる」p183
    「ニューギニア戦は日本の二倍もある戦場での戦いであり、敵の手から逃れる余地がたくさん残されていた。これが何百キロ、千キロ以上も西へ西へと後退し続けるニューギニア戦の特色になるのである。しかし補給なしで後退し続ける日本兵を待ち構えていたのは、ひどい飢餓であり熱帯病であり、これによる戦病死であった」p192
    「四千メートルを越す高峰を、七千三百名以上もの大軍が踏破した例は世界戦史上に例がない」p206
    「(サラワケット越え)不屈の日本軍のシンボル的存在として、51師団は戦史上に名を留めているが、真の評価は、それが作戦にどう生かされたかにかかっている」p207
    「戦況が苦しくなればなるほど、相手の兵力を度外視して作戦計画を立てる傾向がある。戦機を逃さず、相手がどれほどの大軍でも撃って出る、戦いのほんの一瞬の中に勝機を見つけ出すのが日本軍の作戦の真髄であったが、戦況の進展につれて賭けに近くなっていった」p223
    「戦後、日本の生産力が低いため、消耗戦ができなかったことが敗北につながったという解釈が定着しているが、それは明らかに間違っている。消耗戦を否定し、質素倹約の道徳律を正しいと信じてきた日本軍人にとって、南太平洋において米豪軍の消耗戦がまさり、日本軍の質素倹約の戦い方が敗北したというのが、正しい意味でなくてはならない。二十世紀になっても、中世の美徳である質素倹約を守り続けようとした姿勢は別の意味で高く評価できるが、やはり歴史の趨勢に背を向けたのである」p230
    「体制維持の上から、どうしても質素倹約を金科玉条とする倫理道徳を変えられない日本社会にあって、倫理道徳の指導役でもあった軍人は、これを否定する戦闘様式の導入に踏み切れなかった。また「軍人勅諭」の書き換えが不可欠であったが、天皇が下した規範を変更するなど、あまりに畏れ多く、誰も口に出せなかった」p231
    「18年7月9日の陸軍限りの研究会で、参謀本部から様々な報告が出された。その一項目に「海上作戦」があるが、報告は極めて簡単に「手も足も出ない」であった。陸軍側が、海軍の戦闘力を見限っていたことがわかる。陸軍の方がむしろ海上戦闘の潮流を客観的に眺めていた側面がある」p235
    「漁業機帆船は、静岡県の各漁港からはるばると最前線のニューギニアに駆けつけ、船舶工作隊の一翼を担って危険な輸送作業に従事していたもので、一隻も故国に帰還できなかった」p236
    「(フィンシュハーフェンの林田支隊)退却を余儀なくされたとき、退路を切り開くためにわずか十数名の手勢を率いて突入したのが、陸軍士官学校入校を蹴って南方戦線に志願した韓国出身の雀慶禄であった。彼は重傷を負ったが奇跡的に生還し、戦後韓国陸軍の将軍となり、駐日大使までつとめている」p243
    「どこまでも退却を続けられるニューギニアでは、突撃(玉砕)しなくてもすむ代わりに、精神力、気力による戦局打開と、飢餓とマラリアに苦しむ道とが残っていたのである」p248
    「フィンシュハーヘンの戦いが終わり、戦線がさらに西方に動こうというとき、大本営はビルマのインパール作戦の実施を承認した。ウィンゲートの英印軍に日本本土を狙う能力があればまだしも、ビルマへの脅威の排除を目指したに過ぎない英印軍の撃破を急ぐ必要はまったくなかった。兵力のバラまき行政をやってきた大本営は、戦局が劣勢へと変わり兵力の集中が必要になったときですら、屋上屋を重ねるかのようにさらなる兵力のバラまきを認可した。その結果、ビルマの西部に多くの兵力と貴重な戦争資源が投入されることとなった。日本人の口癖である敵の圧倒的戦力に負けたという説明には、日本軍自身が兵力を広く薄くバラまいたために、どこでも敵に対して兵力が不足する事態になったとする認識が欠けている。兵力を薄く広くバラまいた日本軍中央の戦争指導に対する指摘が抜け落ちている」p259
    「米豪軍は、日本人が最も大切にする元旦に激しい空爆を加えてきた。文化の違いは戦争にも現れる一例である。三回目のクリスマスでも、戦況が最終段階に差しかかっていたにもかかわらず攻勢がやんだ。あと一歩にまで追い込まれていた20師団は、クリスマスのおかげでどうにか窮地を脱し、川の北岸に移動した」p262
    「マッカーサー軍の動きは包囲網の圧迫というより槍を突き刺してフィリピンに向かう形へと変貌し、これを阻止するには、「絶対国防圏」といった円形勢力圏を守るより、突き出された槍の前に楯をかざす方が効果的であったと考えられる。戦争に対するイメージと現実とに共通点があり、イメージに合理性がなければ、「絶対国防圏」も机上プラン、絵に描いた餅と同じである」p269
    「(マッカーサー軍の西進を阻止する対応策を指示しなかった)日本人特有の根幹が見えないまま枝葉末節に拘泥する性癖が、日本の命運がかかった非常時にも発揮された」p275
    「戦艦や戦闘機の改良だけに心血を注いだ日本軍と違い、輸送に使用するトラック、舟艇、輸送機等の近代化にも(米軍は)手を抜いていない。これらを動員して行う準備期間は短くなるだけでなく、集積量も非常に多くなるから、一旦作戦がはじまったときの破壊力は日本軍の比ではなかった」p299
    「歴史上、戦争の展開が開戦前の予想どおりであったことはほとんどない。戦争は相手があってはじめて成り立つものであり、相手が死にものぐるいで知恵と戦力の限りを搾り出してくるのに対して、こちらもあらん限りの知恵と戦力を尽くして対抗するため、予想しないことが起こるのである。戦闘が始まり、時間が経過すればするほど予想外の展開が増え、短時間の決着を目指していた指導者たちを慌てさせ、ますます思いがけない方向へと展開していくのが歴史の常である」p305
    「(マッカーサーの立体戦)飛行機や地上部隊、水上・水中艦艇が緊密に連携しながら行うのが立体戦である。これを円滑に行うためには、競合関係にある陸軍と海軍が一元指揮、統合作戦に協力することが不可欠で、どこの国家でも実現が難しかった。大統領の命令に従わねばならないアメリカでも困難な課題であったが、偶然の悪戯かマッカーサーの南太平洋軍だけはこれをいち早く実現した」p310
    「3年近いニューギニア戦中、日本軍がいつも戦力的に劣勢であったわけではない。飛行機の配備数において日本軍の方が上回っていたとみられる時期もあった。しかし米豪軍側の積極的航空機運用と、飛行場が最前線に近いことが相俟って、実際に最前線を飛び回る飛行機は米豪軍の方がずっと多かった」p335
    「戦後の日本人の口癖であるアメリカの圧倒的生産力に負けたという解釈は、日本が抱える重大な問題点への関心を他に振り向け、自己責任を回避する言い訳のように映る。強大なアメリカを相手にしながら、それでも軍令と軍政を分離しつづけ、人も資源も陸軍と海軍に機械的に分け続け、戦力を集中できない体制のままで、どうしてアメリカの国力、生産力の前に屈したなどと安直なことがいえるのだろうか。アメリカと対決するために、陸軍と海軍の総力を結集する一元的体制をつくりもしないで「一億火の玉」「一億玉砕」などと矛盾した言葉を弄ぶ戦争指導部に、総力戦、消耗戦への道筋を定める決意もなかったし、対米戦を遂行する資格もなかった」p337
    「(大本営陸軍部参謀)井本熊男は建設部隊に機械力をつけよと、軽々しく提言しているが、日本のように軍事面ばかりに特化してアンバランスな近代化をしてきた国家は、戦闘機のエンジンができても満足な自動車のエンジンさえできず、馬力のある輸送トラックも製造できなかった」p345
    「飛行場建設がどれほど重い課題であったか、航空関係者も予想外であった。土木建設分野の実力、更新性が戦況に直結することを、陸軍、おそらく海軍もいやというほど見せつけられた。おそらく陸大や海大で高度と思われる戦術を学んできたエリート達は、どうして土木事業の能力と戦況が関係するのか理解に苦しんだにちがいない」p348
    「海軍がモノカルチャー的性格であったことは、艦隊決戦以外の海戦に対する海軍の対応力を著しく弱め、行動範囲を狭めるものであった。モノカルチャー的戦力が危険なのは、対応できなくなったときに打つべき選択肢がなくなることで、どのような状態でも、いくつかの選択肢を残すのが指導者の責任であった」p383
    「(魚雷艇など小型船舶の開発)ドイツだけが製造の難しいディーゼルエンジンを採用し、米英伊等はガソリンエンジンを使った。開戦前の日本は、幾らか製造が容易な水冷式船舶用ガソリンエンジンを手掛けたが、日本の製造技術では設計通りの能力を有するエンジンができなかった。いくら設計図を入手しても、工場の製造能力が低くてはできないのである。製造能力は、長い間の設備投資による工作機械の刷新、技術者の教育、熟練工の養成、原材料や部品の調達体制の発達等によってはじめて実現できるもので、産業界にも目先の利益だけでなく、長期的視野に立った先行投資が不可欠であった」p384
    「連合艦隊司令長官古賀峯一は内地に直行し、19年2月15日に横須賀に上陸して、その足で東京の軍令部を訪れ、トラック島の防備強化を要請した。古賀がどのような意図でトラック島強化を要請したか不明だが、日本で最強の集団であったはずの連合艦隊が守りきれないものを、一体だれが守れるというのであろうか。米海軍を撃破できるのは連合艦隊しかいないと誇っていたのは、連合艦隊自身であったはずである」p399
    「(全ラバウル航空隊のトラック移転)戦況を詳細に分析して見れば、昭和17年夏から始まったポートモレスビー攻略戦とガ島戦から、戦況の推移に直結しているのはラバウルであり、トラックでないことは明白である。したがってトラック島の戦力が壊滅しても戦況に大きな変動はないが、ラバウルの戦力が消滅すると、ニューギニア戦やブーゲンビル戦に大きな支障が出ることには疑問の余地がなかった。そしてもっとも重大な影響は、マッカーサー軍の西進に対する歯止めを失い、フィリピンに至る道がいつでも開けられる状態になったことである。古賀の出した命令は、過去一年半以上ものラバウル、ニューギニア、ソロモンの戦闘の意義を台無しにするもので、いままでに陸軍や海軍の将兵が払ってきた夥しい犠牲が、何の価値も持たなくなったことを意味した」p402
    「(戦後GHQからのラバウル撤退の調査)米側にとっても、ラバウルの全機が他所に移動することは、どのような理由を考えても説明がつかず、戦後いち早くこの謎を解くために日本側に説明を求めてきたのである」p404
    「日本軍にとってアドミラルティー諸島喪失は、ビスマルク海の喪失、西部ニューギニアの瀕死、ラバウルの無力化を意味するものであり、マッカーサーにとってニューギニアでの勝利をほぼ手中にし、フィリピン進攻路の確保を意味した。太平洋における日米の戦いが、フィリピンにおいて決まるというのは両国ともに感じ取っていたいたところで、それだけに防戦側の日本は、フィリピンに戦線が後退するのを遅らせるためにニューギニアで抗戦を続けているはずであったが、アドミラルティーを落としては、その企図もあきらめざるをえない。他方、マッカーサー軍は、19年2月でもまだ三N線を突破できないでいたが、連合艦隊が三N線の門を開いてくれたおかげで、やっとビスマルク海に進出しアドミラルティー諸島という絶好の要地を取得できた。ニューギニアに展開する米豪軍は、ビスマルク海側から日本軍機に攻撃される不安が一掃されるとともに、この海を使って思いのままに上陸地点を選び、部隊を上陸させることが可能になった」p410
    「アドミラルティー諸島の失陥は、ニューギニア戦だけでなく太平洋戦争にとって、最も重大な転換点であった。これを境にマッカーサーの率いる米豪軍の北上が急に早まり、1ヵ月後にホーランディア、2ヵ月後ビアク島、7ヵ月後モロタイ島、8ヵ月後にフィリピン・レイテ島へと進攻し、日本を敗戦へと追い込んでいった。アドミラルティー諸島陥落後の情勢は、日本軍に雪崩現象が発生したことを物語っている」p411
    「ニューギニアで負けたらフィリピンが危うくなる、フィリピンが落ちれば日本の負けが確実になるという理屈について、大本営は薄々わかっていたらしいが、フィリピン進攻軍はニューギニアからやって来るという極めて自然な現象を、大本営や参謀本部は理解できなかった。だからこそ第18軍に対して特別な措置を講ずることもなければ、他戦線を縮小または解消して同軍を強化しようともしなかったのであろう」p413
    「自らの戦略思想、作戦計画を参謀達に示し、前線にもよく姿を見せて積極果敢な指揮官ぶりを示したマッカーサーに比べ、自らの思想も作戦方針も示さなかった南方軍総司令官 寺内寿一は、大本営の代行者・メッセンジャーボーイといったイメージしか描けない」p420
    「淡白な日本兵とは違い、米兵は敵の状況などに関係なく機銃掃射を行った。かつてダンピール海峡を航行中、米豪軍爆撃隊のために多数の日本の輸送船が撃沈されたが、その後、海面上を漂っている日本兵に対して、米豪軍機は徹底した銃撃を加えている。武士文化が浸透し、戦いは正々堂々とやるべきであると考えた日本兵ならば、海面に浮かぶ弱い立場の人間など決して銃撃など加えなかった。ところが欧米人は執念深く、むしろ残酷である。日本兵の戦い方が封建時代のマナーで、こうした米豪兵のやり方が近代的というものだろうか」p429
    「東部ニューギニアは、太平洋戦争において陸軍が組織した兵站機構が機能した数少ない戦場であった(輸送船・大発→トラック→馬→荷車→人と、できなくなれば次の手段で行った。島が大きいからできた)」p449
    「(第18軍所属 北薗部隊)第36師団司令部からは「敗軍」と罵倒され、日本兵扱いされなかったから、これまでの戦訓を語っても聞く耳を持たなかった。元来、日本軍の「歴史に学べ」、「戦訓に学べ」というのは、多分にお題目に過ぎないところがあり、本気で思っている軍人はいくらもいなかったであろう。「戦訓」は戦争という歴史から得られた貴重な教訓だが、これをまじめに学んでいれば、同じ失敗を何度も繰り返さずに済んだに違いない。日露戦争後、勝ち戦ばかりの戦記物が広く読まれ、こうした士気高揚か景気づけの作品をいくら読んでも、いいことしか書いてないから戦訓など学べない。素人が戦記物で有頂天になるのは致し方ないとして、プロの軍人までが同じ現象を起こしては何をか云わんやである」p465
    「おびただしい数の餓死といういわば犬死にも等しい死者を多数出したのは、日本軍の恥であった。将兵を犬死させた戦争指導に関する真相解明の手は、まだいくらも入っていない。すべてを米軍中心の連合軍の圧倒的物量や科学技術力のせいにして、その先にある真の原因に踏み込むのを避けてきた」p471
    「(マッカーサー)日本軍の兵員の素質は依然として最高水準にある。しかし、日本軍の将校は上級ほど素質が落ちる。日本の息子たちは心身ともにたくましいが、指導者に欠けている」p491
    「アイタペ決戦で見せた日本兵のすさまじい戦いぶり、国家のための犠牲心は、日本人として大いなる誇りであると同時に、永く記録に留めねばならない民族の叙事詩である。これほど正々堂々と、ねばり強く戦い抜く将兵が、昭和19年7月から8月になっても「地獄のニューギニア」に存在したことを是非知ってほしい」p500
    「太平洋戦争において劣勢になった日本軍にとって、後方の防御体制を固めるために、最前線の部隊ができる限りの時間稼ぎをしてくれることが何より緊要であったが、ニューギニアの第18軍はこの要請を実現した模範的前線部隊であった。残念ながら後方であるフィリピンでも本土でも防御体制強化がほとんど進められなかったため、マッカーサー軍を2年間も食い止めた比類ない戦績は水泡に近いものとなってしまった。「玉砕」した部隊以上に、飢餓、病魔、自然障碍を乗り越え、軍本来の任務を全うしたこうした部隊は、戦績にふさわしい高い評価を受けなければならない」p544
    「補給が遮断され、棄軍の境遇になった現地軍にとって、こうした状態が長期化すれば、本国の命令を無視するのが自然な動きである。だが日本軍の場合、こうした気配は全くなかった。遺棄されても見放されても、本国に対する忠誠心は微塵も揺り動かなかった。ニューギニアにおいても、天皇、本国に対する忠誠心には全く翳りがなかった」p546
    「太平洋戦争における敗因の一つは、時代錯誤の白兵主義に固執した軍指導者の頭脳にあったというべきである。物量が決して豊かでなかった豪軍や英軍も火力集中主義で日本軍に打ち勝ったように、その国家に生産力があるがゆえに、弾薬を大量に消耗する火力戦を行うのだという戦後の日本人の解釈は不適切である。明治時代から続いた白兵主義を変えず、火力戦が世界の常識になったことを知りながら、あくまで質素倹約の精神を正しいとかたくなに信じ続け、世界の趨勢に背を向けて精神主義及びそれに基づく戦法を兵士達に押し付けた軍の指導者、その機構に問題があった。言い換えると、軍の指導者たちが世界の趨勢、常識を知りながら、軍の組織制度、戦術思想にも一切手をつけないまま太平洋戦争に突入し、事前にわかっていた連合軍の火力戦、物量戦にはね返されたことが問題なのである」p565
    「勝敗を抜きにして、日本人が好きな「よく戦った」ことを基準にするならば、安達が最高の評価を受けるにふさわしい。歴史のいたずらというより、太平洋戦争を海軍中心に描くようにした大きな力が、安達から名誉を剥奪したままに今日に至っているが、早急に見直す必要がある」p586
    「ラバウルで驚かされるのは、紙、マッチ、インク、鉛筆、衣服、電池といった日用品まで生産されていたことで、南太平洋地域における補給センターとして修理修繕施設と、多種多様な機材・原料を持ち、持ち前の工夫と器用さによって現地生産を実現した。規模の大きな製材所や工作所、通信所や地下施設が必要とする電力を供給する発電所もあり、ニューギニアやソロモンの戦いからラバウルに立ち寄ってみると、大都会に来たようだったという元兵士の回想も誇張ではなかった」p592
    「(ラバウル)いち早く開墾に着手した陸軍は、補給が滞り始めた昭和18年半ばには、2500haもの農耕地を造り上げ、その年の末には、自給率がおよそ50%に達した。この時期はまだ備蓄食料が豊富にあったころで、自給食料を加えれば、2、3年先までは必要な食料を確保できそうな状況であった。19年から20年になると自給率はもっと高くなり、南太平洋戦域で最大規模の兵力をかかえながら、飢餓の心配をしないですむ希有な境遇となったのである」p593
    「人の上に立つには人格者であることも大切だが、それだけではつとまらない。陸海軍は戦争を遂行するための人事よりも、軍を治めることに重点を置いた人事をしていたとしか思えて仕方がない」p627
    「日本の場合、歴史に学ぶ姿勢が弱い上に、教典・教科書至上主義が常識的な科学主義や合理主義を踏みにじった。日本軍は呆れるほど同じ轍を踏み、同じ結果を重ねた」p633

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著者プロフィール

1943年、長野県生まれ。1974年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程満期退学。現在、防衛大学校名誉教授。 ※2021年11月現在
【主要著書】『東郷平八郎』(筑摩書房、1999年)、『秋山真之』(吉川弘文館、2004年)、『山本五十六』(吉川弘文館、2010年)、『消されたマッカーサーの戦い』(吉川弘文館、2014年)

「2021年 『小笠原長生と天皇制軍国思想』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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