隠された風景―死の現場を歩く

著者 :
  • 南方新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (228ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784861240317

感想・レビュー・書評

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  • 3.74/52
    『 全身全霊かけて 推薦する
        ――内橋克人(経済評論家)
    ●本書を推薦します

    「隠されたものを見る勇気」が日本を救う
     いまに生きる日本人は「見えないものは存在しない」と錯覚している。暗い現実、陰湿な人権無視、汚れた廃棄物など「見たくないもの」を隠し、人工の美と善で周囲を飾ろうとする。醜悪なる現実を直視する勇気をもたず、煙のような美と善に酔いしれているその「見えない隙間」に、社会悪、不誠実、偽善が毛細血管のように繁殖しているのだ。
     本書は「隠された現実」を直視する。人びとの視界から「隠蔽された真実」を求め、勇気をふるって裸の現実を示す。美しく装われたものの陰から苛烈な真実が姿を現す。気まぐれなペットブームの行き着く先、現代人の美食の陰に葬られる夥しい生命、そして人の死を総括する遺書。誠実な勇気と重い使命感に殉ずる思いで著者はここに書き尽くした。
    「現実逃避」の甘い思想に被われた現代への批評に賭けた本書を、全身全霊かけて推薦する。
    内橋克人(経済評論家)』
    (「南方新社」サイトより)


    冒頭
    『 一、「かわいい」の歓声いつまで
    まるで壁に向かってしゃべっているような気分だった。
    取材の目的を話しても、仕事について質問しても、返ってくるのは沈黙。あるいは「私たちのことは放っといてもらおうごたる」という言葉。』


    内容
    第一部 ペットの行方
    ・野犬捕獲員の声─感謝なき忌避に耐える
    ・保健所に持ち込まれる不要犬、不要猫
    ・こうして犬、猫は処分される──など
    第二部 肉をつくる
    ・屠畜場の現場に入る
    ・外国人労働者、高齢者が担う「よごれ仕事」
    ・女性獣医師の挑戦─解剖、動物実験、屠畜検査も──など
    第三部 遺書を読む
    ・自殺─いのちで負債返す悲惨
    ・病者追い込む「無価値感」
    ・「老い」を排除する社会
    ・あるホームレスの大学ノート──など


    『隠された風景―死の現場を歩く』
    著者:福岡 賢正(ふくおか けんせい)
    出版社 ‏: ‎南方新社
    単行本 ‏: ‎228ページ
    ISBN‏ : ‎9784861240317

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  • こういった本はもっと読まれてもよいはず。
    身近なものでありながら、知らずにいる事が多すぎる。
    現場で働く方々の努力と、苦悩。
    たくさんの方のおかげで、自分たちの生活が成り立っている事をもっと考えなくてはいけないですね。。。

  •  部落史研究の中で差別の淵源についてケガレ意識について云々されるようになってきたことは教育現場においてはよく知られるようになってきた。しかし、そのケガレ意識とはどういうものかについては体感した人はいない。なにしろ中世におけるケガレ意識なんて議論なのだから想像を超えているのである。それは手にウンコがついてしまったというものとはまた別のケガレ観なのであろうとは推測しつつも私たちは抽象的な観念としてしかケガレ意識を理解していないのではないか。そうすると学校で部落問題学習、ないしは部落史学習を行ったとしても観念的なものにとどまらざるをえなくなるし、汚れたら手を洗えばいいという程度のところにとどまり、差別の根拠となったケガレ意識には実は手が届いていないのである。
     さらに重要なことは部落史研究でケガレ意識が提起されたことによって近世政治起源説は追いやられたことである。これにより、短絡的な行政責任からより民衆の生き方そのものにかかわる差別問題の本質を克服することに今後の人権問題の課題を置くことができるようになったのである。このことは私たちの差別意識の根幹にあるものを解明しなければならないことを意味している。つまりはケガレ意識とは何なのかを具体的に問うことである。
     ケガレ意識が死穢(しにえ)と結びついていたことはよく言われることである。具体的に私たちの暮らしにそれを求めるならば葬儀の返しに塩の小袋を付して、これを撒くことでケガレを払うというようなしきたりが最近まではあった(近年はあまり見なくなった気がするのだが)。その程度のことはあまりに迷信じみていると新しい世代の人間ならば気にすることなく廃止していく習慣でしかない。しかし、死というものを遠ざけようという意識は克服されていないと思うのである。先般JR西日本の悲惨な事故があったが、テレビで遺族の不満を流している中に「開いたままの目を閉じてやってください」とJRの職員に訴えたところ、「それは葬儀屋の仕事です」と断られたことを非難している映像があった。そこに遺体の取り扱いに関する微妙な意識が見え隠れするのを感じてしまった。
     本書は毎日新聞社西武本社版に二〇〇〇年九月から二〇〇一年十月にかけての連載記事がもとになっていて、内容は三部に分かれている。
     第一部はペットの行方と題され、ペットとなるはずの犬や猫がさまざまな理由で不要となったときになされている「処分」のルポである。ペットとなるはずの犬や猫は人間によって不必要に増やされ、その数的なバランスを崩し、結果的に「処分」という処理をされなければ実は私たちの生活そのものがなりゆかなくなる。そのペットたちの「処分」にかかわる人たちは自らを「必要悪」であると自嘲的に言う。それを著者は「善」であるとしなければならないと当事者の方々に約束をしてこの記事を書いていった。安直な動物愛護精神では解決できない生と死の矛盾、それを解きほぐすことがどうして「善」ではないのか。私たちの多くはそうした矛盾からは視線をそらし、皮相的にペットたちの生と死をながめ、そらぞらしく「いのちの尊さ」について語る。著者はそのことを鋭く糾弾しているのである。
     さらに重要なことはペットの死にかかわる人々がその仕事を隠さざるを得ないほど社会の、すなわち私たちの差別の視線にさらされているということである。それは明らかに死にまつわる差別意識であると言える。職員たちはこの差別のまなざしをつよく感じながら、時に「必要悪」と自嘲しつつもっとも社会にとって重要な職務を遂行しているのである。また、記事の中に被差別部落出身の職員の方が登場する。それは何を意味しているのか。前近代的なケガレ意識は未だに社会的差別の根となっていることを意味してはいないか。そういうことも押し隠して私たちはペットを飼い、不要になると処分にまわし、処分にかかわる人々を差別する。その構図は日本社会の差別構造そのものだと言えよう。
     ペットのいのちを奪う仕事、「それは善なのだ」著者は言いたいのだが、どれだけの人間が直接そこにまみえたとき心から共感してくれるのか。それは日本社会に突きつけられた課題なのであろう。
     第二部は肉をつくる世界のルポである。思うに私たちは肉はもとより牛や豚や鳥を殺した後に解体してそれぞれのパーツに分け、適当な大きさに処理して店頭に並んでいることは頭の中では知ってはいる。しかし、実際には箸の先にぶら下がっている肉しか眼中にはない。仙台で「牛タン発祥の地」という幟を見たことがある。正確には「牛タン焼き発祥の地」なのだろうが、「牛タン発祥の地」という表現には牛タンというものが仙台市の郊外で育てられているような錯覚に陥ってしまう。そのくらい私たちは牛タン=牛の舌と牛の死とを遠いものとして見ているのではないだろうか。
     肉(タンにしてもモツにしても)はもとい一頭ないし一羽の生き物の命を奪うところから始まる。にもかかわらず私たちはそれを人任せにし、なおかつ命を奪う現場とは遠い距離を置いているのである。仙台の牛の舌がどこで切り取られたものか詮索はせず、仙台が発祥地であるというコピーを無自覚に受け取っているのだから。
     このルポに出てくる屠畜の現場にはたしかに凄まじい光景がある。しかし、生き物の命を奪い、私たちの命の糧としていくということはそれだけ重たいものなのだ。その過程を想像することもなく、多くの人々はただ商品として並べられた食品としての肉だけを楽しんでいるのである。そしてうまい肉をほおばりながら家畜の死と向き合う現場からは眼をそむけ、現場にかかわる人たちを忌避しようとする。
     ここでもやはり被差別部落出身者が登場してくる。何故なんだ。やはり死穢がここにもとりついていると思わざるを得ない。しかも家畜の血にまみれて重労働をしているがゆえに人々は現場から目をそらしたいにちがいない。
     第三部は自殺が主題となる。生き物の死をルポした著者が今度は人間の死についてルポをした。自殺した人間の書いた数多の遺書を読んでの死の風景である。ただし、第一部、第二部とは異なって第三部は人間の自分自身のいのちへの問いである。ほとんどの自殺者がいのちを惜しまないのではなく、いのちを惜しむが故に悩み、苦しみ、躊躇う姿が描かれている。しかし、ここで示される死は第一部、第二部とは本質的に異なっている。いずれも生と死について問うてはいるのだが、第三部は自分自身の生き方の問題であり、第一部、第二部は死そのものに対する私たちのまなざしが問題になっている。水を差すようだが本書には第三部はいらなかったと思う。第三部はまた機会を改めて世に問うていい内容だと思う。第三部をおくことで私たちは「殺す」ことの意味から目をそらすことになった。自殺も一つの殺人ではある。しかし、そこには「殺す」ことに対する忌避や差別の色は薄い。あったとしてもその人間の死で歓ぶ人は少ない。それに対してペットや家畜の死は多くの人間のために行われている行為であり、かつかわいい生き物を殺す役目を忌避し、差別するという構図になっているのである。そしてそこに私は歴史が繙いてきたケガレ意識というものの根っこを見てしまったのだ。
     学校で部落史学習や同和教育に取り組むとき、人権教育として「いのち」の問題を取り扱うときまずは本書を手にとるべきであろう。
     私たちが私たちが一片の肉を口にしようとするとき、飼い犬を「かわいい」と思うとき、そして死にたいなどと思ったときに本書を思い出してみよう。そうしたら私たちが歴史の中に抱えてきた差別意識の根源を発見し、同時にいのちをたいせつにするということの意味を考えさせてくれる、そういう本である。



    posted by ウィンズ at 14:09| 福岡 | Comment(0) | 人権問題 | |
    大森みゆき『私は障害者向けのデリヘル嬢』ブックマン社 一二三八円+税
     「きっついお仕事」にはいろいろあるだろうけれど、和田虫像氏が体験できなかったお仕事にデリヘル嬢がある。なにしろこれは女性にしかできない仕事なのね。この著者の大森みゆきという名前は仮名です。仮名であるところに風俗という世界へのこの世の偏見ちゅうものがあるのかもね。
     で、この著者、デザイナーとして働きはじめたところ、いろいろな壁にぶち当たっていわゆるソープ嬢になったんだって。その彼女がひょんなことで「障害者専用のデリバリーヘルス」という業界に入ってしまう。なにしろ、ソープ嬢を半年したというのが、このお仕事に就くまでの彼女の風俗と介護(こっちは経験ゼロ)のキャリアなのね。それではじめちゃったんだから、この業界もすごいよね。
     まず、謹厳実直な読者の方々にはデリバリーヘルス、略称デリヘルって何だか説明しないと、この本の意味からしてわかんないわよね。あたし?あたしだってわかってるわけないじゃない。ま、読んでみて推測するにデリバリーってのは出前ってことだから、店舗を持たない仕事なの。そしてヘルスって、べつに健康食品とかじゃなくて、性的なサービスをすることだと考えたらいいようね。性的なサービスといっても性交渉は売春だから、これは法律違反。そうならない範囲で顧客の性的欲求を処理する仕事と考えたらいいみたい。まあ、「きっついお仕事」の一つに入るといえそう。
     それで本書は大森みゆき(仮名)さんが障害者専用デリヘルというお仕事の体験を紹介してくれている本なの。でもキワモノではないよ。最初に書いたように世間ではいわゆる風俗っていう世界はやっぱり陰の世界なのね。例えば「同和」教育に熱心なセンセイがデリヘル嬢を呼んで遊んだ、なんて言うとみんなから顰蹙を買うことはまちがいない。例えば「風俗っていうのは性の売買で、性の売買は女性の尊厳を否定しているから人権・同和教育に携わる人がなんてことをするのだっ!」なんて批難する人がいるかもしれないし、「そもそもそれはジェンダーの問題でして、そのようにジェンダーを一方的に押しつけることが……」なんて理屈をたれる人もいるかもしれない。
     しかし、障害者が性欲を持たないはずはないし、性欲を満たしたいということも一つの自己実現じゃないのかなあ。ところが、障害を持っているがゆえにその性欲の処理は健常者のようにはいかないことって想像がつくでしょ。実際に自慰そのものがままならない人だっているんだと思うの。彼女はこのお仕事を通じていろんな障害者の方と出会う。そして、いろんな形で彼らの性欲の処理に貢献するんだけど、世間っていうのはきっとこういうお仕事についてはフツーの風俗産業以上に眉をひそめるんだろうな。逆に言えば障害者は性欲を持っちゃいけない、恋愛や結婚は許されても風俗産業で遊んじゃいけないって思ってんじゃないかな。ともかくそういう偏見を彼女はどんどん打破していくんだ。
     ところで、彼女は介護体験はまったくゼロでこのお仕事に就いたのね。で、お客様と出会うたびに少しずついろんな技術を体得していくんだけど、あるお客様の時に性器を清浄綿で拭こうとしたとき本人はデイサービスで入浴しているからきれいだと思っていたらしいんだけど、そこには垢が真っ白にこびりついていたんだと。介護というのはきっと「性」の部分から目をそらしてしまうものなんでしょうね。だから見えないそういう部分には手は触れないのでしょうね。それにそこまでていねいに洗うべきだとも言えないしぃ。何しろすごくプライベートな部分だものね。
     これは介護の問題ではないと思う。そうではなくて介護と人間の「生」(生きるほうだよ)との〈はざま〉みたいなものがあるような気がして、だからそこって介護には絶対手の届かないところなのかもしれない。障害者の「性」(りっしんべんだよ)に向き合うことになった彼女はそうした手の届かないところに手をさしのべることのできる存在だったのだろう。世間からは二重の偏見を浴びながら…。

    ★★★★ これでまた読者諸姉諸兄の職業リストにひとつ「きっついお仕事」が加わったんじゃないかな。大森さんはこのお仕事にある種の職業倫理みたいなものを持っていたような感じがする。このお仕事への誇りなのかもしれない。人権・同和教育を考える上で、「障害者問題」を考える上でも、「いのち」について考える上でも、「しごととくらし」について考える上でも、「女性と人権」について考える上でも貴重な一冊。




    posted by ウィンズ at 14:05| 福岡 | Comment(0) | 人権問題 | |
    松谷みよ子文・味戸ケイコ絵『わたしのいもうと』偕成社 一二〇〇円+税
     昨年、福岡県内で哀しいいじめによる自殺が起きた。福岡県内では今までに何度もマスコミを騒がせるいじめ自殺が起きている。ある地域では生徒の死を受け止めて二度といじめを起こさない教育に取り組む努力をしているとは聞いているけれど、多くの学校や地域では時間と共にできるだけ忘れてしまいたいことになってしまっているんじゃないだろうか。いじめ自殺なんていうのが大々的にマスコミを賑わせたのは東京の中学生が自殺した「葬式ごっこ」事件だったかな。中野富士見中学の鹿川裕史君が盛岡駅構内で自殺した事件だ。それが一九八六年二月。たぶん、「いじめ」という言葉が教育用語になったのはこの事件が最初だったんじゃないかなと思う。
     昨年の事件が起きたから騒ぎが再燃したようにはなっているけれど、現場ではずっといじめは課題としてついてまわっているよね。それは実感だよね。ということは自殺にいたるかどうかはともかく、いじめによって学校から切り捨てられた子どもってものすごく多いんじゃないだろうか。そんなことを思って思い出したのがこの絵本。本棚を探して久しぶりの対面をした。古くてもいい。いいものは紹介しなくっちゃ。
     この本は松谷みよ子という超ビッグな童話作家が作った絵本だ。初版が一九八七年十二月。鹿川君が亡くなった翌年だ。そして現在も出ている。私が買ったときは税込み一二〇〇円だったけど、今は税込みだと一二六〇円。内税から外税になっただけ、かな。偕成社の〈新編・絵本平和のために〉シリーズの五冊目に入っている。平和のための本なのだという。えっ?いじめと平和がなんで関係あるの?と思うかもしれないけどそれにはわけがある。松谷さんの『私のアンネ・フランク』(偕成社、一九七九年)という本を読んだ女性から手紙が来たそうな。本書はその手紙がもとになっている。その手紙には「差別こそが戦争への道を切り拓くのではないでしょうか…」とあったという。だから、いじめを見すごすことはアウシュビッツへの道なのだということで〈平和のために〉シリーズに入れてもらったんだと。
     本書は「この子は わたしのいもうと ……いもうとのはなし きいてください」というふうに、その女性からの手紙の形をとって語られていく。転校した先で出遭ったいじめ。そのいじめが淡々と語られる。そうあなたのクラスにもあるごくあたりまえの、そう、何でもないいじめ。ただのいじめ、ちょっとした遊び。でも、それが重なっていくと…味戸ケイコさんの絵がせつない。もともとが松谷さんに送られてきた手紙だから、いつわりのない説得力がある。
     私はもう何度この絵本を読んだかしれない。しばらくぶりでこの本を読んでみたけど涙がぽろぽろ出てきてとまらなくなる。でも前とは悲しさがちがうみたいだ。出会った子どもの数だけ悲しみが広くなる。抱きしめた子どもの数だけ悲しみが深くなる。最後の頁はほんとうにつらい。初めていもうと自身の言葉が出てくるのだから…。
     最初に紹介したように本書の初版は二十年近く前。でもいじめの本質は何にも変わっていない。だからこそ今、みんなに読んでもらいたい。

    ★★★★ いじめの残酷さにここまで迫った本ってそうないだろう。そして現場ではたくさんの「わたしのいもうと」を見すごしているのかもしれない。そして、それは戦争への道につながるものなのだ、と松谷さんは言う。たぶん読んだ人も多いだろうし、図書室にも置いてあるかもしれない。でも、教室に一冊ずつ置いて欲しいな。センセイが自腹切っても子どもたちに読ませてほしい。もちろんセンセイに読んでもらいたい。だっていじめを見すごしているのはセンセイなんだから。



    posted by ウィンズ at 14:03| 福岡 | Comment(0) | 文学・文芸・コミック | |
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  • 美味しいものや可愛いものの後ろではつねに「死」が隠されている。命について考えさせられる本です。

  • 重いテーマである。

    読み終わったあと、泣きたい気持ちになる本である。

    でも多くの中高校生に読んでもらいたいと思った。

    捨てられたペットの処分場、食肉加工処理場、そして自殺者の遺書。いずれも現在の日本人の目からは逃避させられているダークサイドである。

    毎日新聞の記者である著者がこれらの現場を訪問し、困難な取材を続けながら連載した。

    ペットブームが続く中、捨てられて処分される犬猫は年間100万匹近くにも上るという。ルポの中ではこうした犬猫が炭酸ガスが充満する部屋で殺され焼却炉に焼かれる様子がリアルに書かれている。

    「かわいそう」と思うだろう。自分は絶対にその処分はできないと言うだろう。処分せずに放置しておいたらどうなるか、本当は理解しているくせに「かわいそう」という。

    犬猫たちの死によって実現された快適さを享受しつつ「かわいそう」という言葉で自分を肯定しようとしている。

    著者は清潔でキレイな世の中で、人の目に触れないほど遠くに押しやられている多くの「死の現場」を真正面から見据えて、その「死」から繋がっている「命」の尊さを語る。

  • ズシーンと重い。しかしこの重さを避けてはとおれない。

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