話の終わり

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制作 : 岸本 佐知子 
  • 作品社 (2010年11月30日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784861823053

話の終わりの感想・レビュー・書評

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  • 何層もの「私」がいる。その別々で且つ同一の私が、入れ替わり立ち代わり頁の最表面へ現れては語りかけてくる。その語りかけは常に一定の口ぶりであるので、個々の私の境界はあいまいになりがちだ。しかし個々の「私」が存在する各層の間には明確な跳躍があり、語りの内容によって、ただの「私」と「メタな私」の差がきっちりと存在することは確認できる。その差異の、鮮明さと曖昧さの渾然に、めまいのような感覚をおぼえる。冗長な物語、果たしてそれを物語と呼んでしまってよいかどうかの判断は今一つつかないところがあるけれど、その内容と何層もの私の存在が相俟って、何か得体の知れない世界へ引きずり込まれてゆくような感覚が生まれる。

    冗長、と言ってしまったけれど、その正確な意味は、この小説の一番下層のレベルでは何か先を知りたくなるような話の展開がある訳ではない、という位の意味だ。あるいは、そこだけを取り出してしまえば、多少退屈な話、ということも出来るかも知れない。そのレベルでの興味は、ひょっとしたらこの逸話の元がリディア・デイヴィスの実体験にあるのかも知れないということ。であれば、この「彼」の一部はポール・オースターが投射されたものなのか、というミーハー的興味がつきまとうだけの読書になってもおかしくない。もちろん「彼」の年齢の設定などはオースターとは異なってはいるけれど。

    しかし有り体に言ってしまえば、一人の女が一人の男と別れた、というだけのことを、口悪しく言えば「ぐちぐちと」思い返しているだけの話が、この小説の何層もの私によって、とびきり変わった感じの小説に生まれ変わる。「私」たちは錯綜する。そしてどこまでも下位の「私」の内面へ分析のメスを深く突き刺し何かを明らかにしようとする。その動きはどこまでも自己完結的で主観的である。但しその視線の動きの働きはとても影響力があって、読者にも浸透する。

    もちろん、それゆえに反対にどの視線にも客観性のようなものが担保されているという印象は残らない。よしんばメタな私が下位の私を分析するという構図があったとしても。また、私が描写する風景はどこまでも薄っぺらく書き割りのようであるし、詳細に語れば語るほどに虚構めいた響きが勝ってしまう。しかしそれゆえにまた、不思議なニュアンスが生まれ得てもいる。虚構めいているにも係わらず、この中には何らかの真実が存在する、という確信のようなものが生まれる(だからこそ、この彼がオースターで私が著者である、という当て嵌めをしたくなる思いが断ち切れないのだ)。そのギャップのようなもの。嘘から出た真と言いたくなるような、事実を積み重ねて立ち現れる虚構とでも言うような。読み取りがたい何か。中々に頁が進まないのは一つの文章を読み取り読み解き脳に収める手順の多さによるのだが、その意味では、少々逆説的に響くけれども、この小説はとても刺激的であると言ってよい。

    また、この作品はリディア・デイヴィスの「長篇」と銘打たれているけれど、輻輳する「私」は純粋に独立的でもあって、その意味ではこの小説は一つのかたまりとしての長篇とは呼べないようにも思う。むしろ「ほとんど記憶のない女」に収められた超短編を読みつないでいる時と読書の感覚は似ている。この作家が、時間軸の長い話をかくよりも、一瞬の内に込められたニュアンスや相反する意味などというものを切り取って見せるのが得意なのだ、という印象を強くする。刊行予定の短編集(それもまた岸本佐知子翻訳!)は、どんな風変わりな物語を見せてくれるのだろうか。

  • 同著者の短編集「ほとんど記憶のない女」に、道端に転がった動物の死体を見てそれを哀れに思った「私」が、もっと近寄ってよく見たところ動物ではなくてそれは紙袋だったのだけれども、紙袋と分かったあとも哀れむ気持ちが消え残って、紙袋を哀れに思っている、という短い話が収録されています。リディア・デイヴィスの作品で特に面白いと個人的に思うのは、そのように混乱した意識や記憶が混乱したまま正確に描写されるところです。「話の終わり」にも似たような箇所は多く出てくるし小説全体がそれ自体混乱の描写になってるようでとても面白いです。

  • 年下の男に振られた年上の女が、過去を思い出しつつ小説を書いたりする話。というと身も蓋もない感じですが、面白かったです。
    基本恋愛話で、しかも未練タラタラの女性とか鬱陶しいですが、女性が小説を書いていて、その創作活動と思い出が一緒くたになっており、まるで作家の頭の中を覗いているような気持ちになれます。そこが楽しめるかどうかだと思います。

  • 5/28 読了。
    三十五歳の女性大学講師が、十二年下の男子大学生と付き合いだす。二人の関係ははじめから食い違っていた。傷付くのは嫌だが若い男に対する所有権は主張したい女と、年上の女と付き合う恩恵を受けつつも対等に扱われたいと望む男は、ついに修復不能な倦怠に達する。それでも男への所有欲を断ち切れない女はストーカーまがいの行動にまで出るが、やがて男が同世代の女と結婚したことを知る。
    という歳の差恋愛を扱った小説なのだが、構成は独特。完全に恋が終了した時点から過去を振り返り、<話の終わり>はどこにあるのかと思索をめぐらせる女の視点で書かれた断章に、それを小説に仕立てる作業の最中らしい女性作家の視点で書かれた断章がランダムに挟まってくる。女性作家は不本意な翻訳の仕事を受けながら小説を書いており、執筆中から批判的な読者である夫の意見に悩まされている。恋愛小説の主人公の女と、女性作家が同一人物なのかは明示されていないのだが、夫の拒否反応を見るに彼女の過去の恋愛に材を採った小説ではあるらしい。
    となると今度は、女性作家と著者のリディア・デイヴィスは同一人物か、という疑問が湧いてくる。著者はフランス文学の研究者で翻訳の仕事のかたわら小説も書いている女性作家で、確かに作中の女性作家と重ねてしまいたくなる。だが、もし仮にこの三人が全て一人の女性の経験から生み出されたキャラクターであるとしても、細部の曖昧になった記憶を探り、もはや遠い人物のように感じられる過去の自分の感情を想起し、「書く」という作業に還元していくうちに、同定は難しくなっていくだろう。それは、終わってしまった恋の物語における本当の<話の終わり>を明確に指し示すことぐらい、不可能なことなのだ。

  • 大学の教員であり、翻訳者の女性が年下の学生と恋人同士となるも、数ヶ月ほどで捨てられてしまう、ありきたりで面白みのない話だ。
    が、何年経っても、彼への執着を断ち切れない彼女は、このことを小説を書こうと試みる。彼女の愛情、未練、後悔、恨みなどの揺れ動く想いが延々と詳細に描出されていく。
    特に別れを告げられたあとの、何も手につかず、ストーカー的な行き過ぎた行動をとってしまう辺りが痛々しい。
    ありきたりで面白みのない話を、女性の主観的な内面描写でここまで書けるのは、素晴らしい。

  • 女性が十二年下の男性と恋に落ち、それが朽ちて"次"に進むため自ら"終わり"を定義していかねばならない、そう思い立ち女性が"終わり"を綴っていく、それがこの本である。
    情緒的にならないよう、メモを手繰り寄せながら、何度も何度も反芻しながら、様々な手段を用いて物語は進んでいく。
    物語では、私と私を見ている私が介在し、それらのもつ鮮明と模糊の落差たちによって制御され、時にだるさを覚えるが、それでも緻密さに対する姿勢が手に取るようにわかるし、それを可能とさせない言葉の不自由さ(または解れ)が新しい歪んだ世界観を作っていると、どきどきする(解れの矛盾をひとつひとつ砕いていく作業もまた魅力的であったといえる)。

    ───女性が書き起こそうとするたび、綴った文字、少なくとも女性の中ではひたむきに書いたはずの言葉たちはすれ違いを起こし、緻密さは解れを起こす。
    そして女性は、私ではない何かが書いているのではないか、私の中にいる何かが(もちろん私を見ている私ではなく、無意識にさまよっている何かが)いるのではないかと思い始める。
    それらはひとつじゃなく、様々な部分からずれはじめ、色々な解れがレイヤー化され、(女性がそう思ったかはわからないが、あくまで憶測では)複雑な世界観を生み出したのちに気づくのだろう───様々なメモなど選択肢による言葉は、その言葉の不自由さをもって明確な"( 私の )終わり"に近づくんではないかと───

    女性が置く言葉は、女性が見て感じたことでしか形成されないのだとすれば、二次的な"終わり"でしかなく、女性自身の終わりには近づかないだろう。
    そして小説にすることによる障害、言葉の不自由さをもって、解れによって初めて女性は女性の"終わり"を迎え、最後女性は女性の中で気付き(おそらく)、儀式的な何か(本の中だと紅茶であった)で幕を閉じる。

    だとすれば、この解れってなんなのだろう。
    読んでるうちに錯覚という眩暈という、とてもフィクションとは思えない実体を持った小説に、ただ、何者なんだ…、と感服しました。
    打ち込んでるこれもまた、解れが起きているんだろうと思うだけ、私もまた頭をかき乱される。

  • 一人の中年女性の愛の始まりから終わりまでを描いた本。女性の独白と女性が書いている小説が混ざって、奇妙な読み心地を生み出している。

  • 第1回(2011年度)受賞作 海外編 第10位

  • 読み飛ばしてしまった。根気よく読めば多分面白いのだけど、淡々とした文章が退屈といえば退屈。この作者は短編の方が面白いと思う。

  • 30代半ばの翻訳家であり、大学教師でもある主人公「私」と学生の年下男性との恋が始まって終わるまでの顛末を「私」が、恋が終わって何年も経ってから記憶を呼び覚ましながら小説に書く小説。

    「私」がひどく自意識過剰で最後の方ではストーカーみたいになってしまうのだけど、その感情の揺れが感情的ではなく淡々と書かれるので逆に凄みがある。
    文章自体も極度に説明的で、慣れるまでは奇妙な感じだったんだけど、だんだんと心地よいリズム感にはまって魅力的に感じた。

    面白かったのだけど、なぜだか周辺的なことが気になってしまって、入り込みにくい部分もあった。ガソリンスタンドの仕事を「下等で屈辱的な仕事」と読んでしまうあたりとか、年中パーティばっかりやっているようなインテリで洗練されたライフスタイルとか。僕自身のリア充コンプレックスが強すぎるせいなんだろうけど。

    あと、終始私と彼の話なんだけど、不思議と「彼」が若い、という以外にほとんど特徴がない。顔立ちやキャラクターにも説明的な記述はあるんだけど、一般的な学生のステレオタイプなイメージの域を出ない。そのせいで逆に小説全体が「私」で埋め尽くされているような鬱陶しさがある。悪い意味じゃなくて、怖いくらいのエネルギーを感じる、てこと。

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話の終わりの作品紹介

年下の男との失われた愛の記憶を呼びさまし、それを小説に綴ろうとする女の情念を精緻きわまりない文章で描く。「アメリカ文学の静かな巨人」による傑作。

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