ヴァルター・ベンヤミン――「危機」の時代の思想家を読む

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著者 : 仲正昌樹
  • 作品社 (2011年2月25日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (358ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784861823176

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ヴァルター・ベンヤミン――「危機」の時代の思想家を読むの感想・レビュー・書評

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  • 三省堂の神田本店で行われた連続講義の記録。全部参加して、割とちゃんとメモもとってたのですが、文字化されたものを改めて読み返すと忘れている内容も多く。「歴史の概念について」の講義が特に、再発見!な内容が多かったです。索引は歴史を解放する、等。

  • 新着図書コーナー展示は、2週間です。
    通常の配架場所は、2階 請求記号940.278/B35

  • 著者がベンヤミンを読解する6日間の講義をまとめたもの。『翻訳者の課題』『暴力批判論』『歴史の概念について』『複製技術の時代における芸術作品』からの引用に、著者が解説を加えるスタイルになっている。

    ベンヤミンについての本書のような入門書が出ることを、一方では望んでいながら他方で恐れており、少し複雑な気持ちで本書を手に取ったのだが、全体的にはおもしろく読めた。著者はポストモダンの政治・社会思想について分かりやすく解説した著書をいくつも出版しており、本書でもベンヤミンをポストモダンの源泉の一つとして位置づけてその思想を読み解いている。ベンヤミンの思想の文学的側面に関しては十分に取り上げられていないことに不満を抱く読者もいるだろうが、それだけ著者のベンヤミンに対するスタンスがクリアになっていて、個人的には好感を持った。ユダヤ神秘主義からの影響関係についての解説を思い切って省略しているのも、適切な処置だと思う。

    だが、本書はただ分かりやすいだけの解説書ではない。著者は、ベンヤミンの原文を参照しながら、ベンヤミンがみずからの思想をどのようなスタイルで提示しているのかを解説している。もちろん、とりあげられている箇所はほんの一部だし、ベンヤミンの「精読」というには程遠いが、「ベンヤミンを読むこと」がどのような営みなのかを読者の前で実演している。

  •  三省堂本店で行なわれた著者の連続講義「ヴァルター・ベンヤミン──〝危機の時代〟の思想家を読む」を文字に起こし、おそらく編集部が体裁を整えたもの。素直に少しずつ読んでみることで見えてくるものがあるのを知らせてくれる点では、確かに刺激的である。とくに著者のロマン派研究が生きている、言語論の読解は示唆に富む。ただ、野村修の訳業にコメントを加えながら、原文の仕組みを解き明かしているところは、ドイツ語原文を参照する者にとっては興味深いが、それ以外の読者の関心をどれほど引けるだろうか。「複製技術時代の芸術作品」をメディア論として読む講義を中心に、著者とベンヤミンの資質の違いや、著者の芸術への関心の浅さが際立っている印象もなくはない。それに、ベンヤミンについてこのような注釈的講義を本のかたちで出版することに、いったいどのような意図があるのだろうか。ここで扱われている著作のほとんどに、すでに「精読」書が存在する。出版そのものの意義に対しても疑問が拭えない。

  •  ユートピア願望を原動力とする歴史の進歩と、それが生み出す廃墟、取り残されたものを同時に、しかも一体不可分の関係にあるものとして視野に入れるところ、そういうどっちつかずの観察者のまなざしを持ち続けたところにベンヤミンの面白さがあります。(p31)
    今日読んだところ(翻訳論と暴力論)では前者のベンヤミンの比率が高いかなあ?

    ということで、「翻訳者の課題」と「暴力批判論」を読む、を読んだ。なんだかベンヤミンの思考パターンというかなんというかは、上に「神」の領域があって、見えないその神に向かって人間活動が下にある、という二重構造なのかな?と思う。翻訳論(文学論といってもいいかも)は、原作はその作者の母語で書くが、翻訳は違う言語に移すので(違う言語の真実に合わせ、且つ「逐語訳」もしなくてはいけないらしい)作品の別の側面を見出し、その連続(違うジャンルへの移し替え含め)がちょうど生き物が子孫を残していくように続いていく。それは最終的には(先に述べた「神」の領域である)「純粋言語」へ向かう努力である。とのこと。そう考えていれば、クンデラがチェコ語ではなくフランス語で作品を書き続けているのはそういう観点からなのかも、違うかも?
    「暴力批判論」はアナーキー・反政府運動に共感を持っていたベンヤミンの政治哲学。ソレルーベンヤミンーデリダと繋がるのだという。歴史上のどの政府も「暴力」を土台にして成立している。政権奪取の時は暴力を使用し、その後はそれを「神話化」しながら、政権維持のため「暴力」を使用し、他人に「暴力」を禁じる。その「繰り返し」から脱却しなければいけない、とベンヤミンは説く、しかしどうやって?「神話」ではなく「神」なのだという。ここでまた二重構造が登場。「神」が神託として出す暴力は一回限り。人間社会の思惑とはまったく関係なく現れる。カントの「定言律法」と通じる?ちょっとつき合えなくなってきた頃、実はドイツ語では「神話的暴力」と「神的暴力」は言葉が類似しており、その言葉はもっと実はベンヤミンの名前「ヴァルター」とも通じ合う(じゃ、日本語であらわすと「力也」みたいな名前?)。そこで「言葉遊び」のようなものを展開しているのかも?と。
    まあ、一つの解釈、一つの「読み」として。
    (2011 03/13)

    今日は後半を読んだ「歴史論」と「(複製)芸術論」。
     花が太陽のほうへかしらを向けるように、過去は、ひそやかな向日性によって、いま歴史の空にのぼろうとしている太陽のほうへ、身を向けようとつとめている。あらゆる変化のうちでもっとも目だたないこの変化に、歴史的唯物論者は、対応できなければならない。(p202)
    ある瞬間にこれまで起こった過去の様々な「声」、特に虐げられてきた弱い人々の「声」は、現在に聞こえてくる。それを聞き取り再構築していくのが「歴史的唯物論者」の使命だという。この場合、時間は均質的に流れる因果的なものではなく(そういったものは「支配者」の論理?)、ライプニッツのモナドのように切断された「今、ここ」の時間。この辺りはベルクソンも参照した方がいいなあ。
    ここで批判されている「進歩主義」みたいな時間論は未来に向けて展開されている。一方ベンヤミンの眼差しは過去に向かっている。

    「(複製)芸術論」は「礼拝的価値」と「展示的価値」の変遷。芸術作品及びその前身と思われる宗教遺物はその「モノ」事態が「アウラ」を持ち、鑑賞者はその「モノ」を注視することで何かを得ようとする。一方、複製芸術の方は「モノ」から「アウラ」が取り除かれ大衆化する。ベンヤミンは「アウラ」からの脱却を望んでいるようだが、現在見ればわかるように複製芸術でも「アウラ」は作り続けられている。
    ベンヤミンの複製芸術に対する立ち位置は、1・映画などでプロレタリアートが自己の置かれた立場を感じ取る(ここではエイゼンシュタインみたいな日常の人々が現れるモンタージュ技法の映画を模範としている)、2・「衝撃的」・「くつろぎ」・「触覚的」な芸術が大衆の芸術受容に貢献する、という感じなのか?とすればこれらは対立しないか? 1はルカーチの論点とも重なる。2は形容詞が重ならない印象を受けそうだが、先の礼拝的価値のように「注視(視覚的)」しないで、くつろぎながら(家で映画でも見るみたいに)五感で感じる(住宅など生活全般の受容、と考えるといいかもしれない)、そんな感じ。この知覚が変化していくというのは、ひょっとしたらこの本最大の収穫かもしれない。自分にとっては。も少し精読必要だけれど。

    疑問
    1、先日書いた「ベンヤミンの二重構造」。上部は「神」の領域、というのは今回の話には当てはまるのか? 歴史論ではクレーの「天使」の絵の解説などにはそれを感じるか? でもヘブライ由来の神的な印象は感じられなかった。
    2、ベンヤミンは「本当に」、「アウラ」からの脱却を期待していたのか?
    3、「礼拝的価値」から「展示的価値」への転換は、「複製芸術」(写真や映画)の登場で急に起こったのではなく、ずっと進行し続けていたのではないか? 近代期はもとより、その前からでも・・・
    (2011 03/16)

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ヴァルター・ベンヤミン――「危機」の時代の思想家を読むの作品紹介

歴史と記憶、記号論、消費と労働、表象文化、都市空間…あらゆる思考の出発点、ヴァルター・ベンヤミン(1892‐1940)の主要作品群『翻訳者の課題』『歴史の概念について』『暴力批判論』『複製技術時代における芸術作品』を徹底的に読み解く。

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