- Amazon.co.jp ・本 (312ページ)
- / ISBN・EAN: 9784861826276
作品紹介・あらすじ
双子の姉を交通事故で喪った、十六歳の少女。自らの半身というべき存在をなくした彼女は、家族や友人らの助けを得て、悲しみのなかでアイデンティティを立て直し、新たな歩みを始める。全米が注目するハイチ系気鋭女性作家による、愛と抒情に満ちた物語。
「わたしは、本書の日本語版をみなさまに読んでいただけることをとても光栄に思っています。(…)この本が世に出てから一年あまりのあいだに、わたしは何百人もの読者に会いました。十二歳から九十二歳までの年齢層の人びとです。彼らはそれぞれに、この物語にどんなに心を打たれたかをわたしに伝えてくれました。(…)主人公はまだ少女といえる年齢で、その若さは物語のひとつの大事な側面ではありますが、彼女をめぐる物語の全体は、老若男女の別なく誰にも共感できるものと信じます。読者の方々はまた、この本が愛の――ロマンチックな愛と家族の間の愛の両方の――不思議とともに、生と死について語っていることを喜んでくれています。それに、ボワイエ家の人びととマイアミのハイチ人コミュニティの人びととのつながりや、ボワイエ家の人びとの目に映る生まれ故郷のハイチの姿も楽しんでくれています」――「日本の読者への手紙」より
感想・レビュー・書評
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双子の姉イザベラを交通事故で喪った、16歳のジゼル。
ふたりは手をつないで産まれてきた。事故の時も手を握りあった。生き延びた罪悪感。ゆっくり、ゆっくりとほどけていく。喪失と回復。静謐な文章で描かれる。
ハイチ系のアメリカの作家、エドヴィージ・ダンティカは、ずっと読みたいと思っていた。じんわりと心に響いてくる物語で、とてもよかった。
最後の場面の、ハイチの祖父母の家の庭から見える、ライラック色とエメラルド色とスカーレット色と金色の組み合わさったグローリーの美しさを想像して読み終える。またいつか、再読したい。
“わたしは知っている、これから先はわたしはいつでも、生きて息をしてわたしの近くに来ようとするすべてのものに、イザベルの痕跡を見つけたいと願うだろうと。わたしは知っている、あらゆる曲の中に彼女の息が聴こえないかと耳を澄ますだろうと。花の中に、すべての教会とすべてのカテドラルの内に、すべての猫、蝶、イルカ、あるいはゴンドラクジラの中に彼女の顔を捜すだろう。いつも捜すだろう、彼女が、わたしとのあいだのこの我慢のならないベールを刺し貫いて穴をあけようと、フルタイムで働いているしるしを。あなたを愛している、と言いたくなるのだろう、蚊にさえも。ホタルに言うほうがまだやさしいかもしれないけど。”詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
とても良かった。生まれた時から傍にいた存在の突然の喪失。前に進むものがあったり新たに生まれるものもあったり、それでも決して埋まることはない穴と元に戻ることはない日々。10代の少女の敏感な眼差しと弾力性が等身大で、切なくも最後には清々しいものを残してくれる。あまり触れる機会のなかったハイチ・ハイチ系の人々の暮らしに接することができたのも良かった。
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子連れで図書館にいって限られた時間で背表紙で選んで借りた本。
冒頭からすごい勢いで引き込まれる。現実逃避にはよい。もう一度ちゃんと読み返したいかな。 -
ハイチにルーツを持つ双子のイザベルとジゼル。一卵性双生児で夢や感覚を共有したりする一方で姉イザベルの興味は音楽で妹ジゼルは美術と全く異なる性質も持つ十代の二人。離婚することを決めピリピリ神経質になっている両親と車で姉の演奏会会場に急いでいるときに一台の車が暴走して追突され、双子の片割れは運悪く亡くなってしまう。冒頭で一人は死んでしまうのだけれど、生き延びたもう片方が昏睡状態から意識を取り戻してゆく過程でのモノローグで亡くなった娘についても「生き生きと」語られるので、不思議な感覚で読みました。心身ともに傷ついた家族と友人たちが、時間と共に事実と折り合いをつけようと努力し、一生消えない喪失感に悩まされながらも前を向いて生きてゆこうとする物語。作家さんもハイチにルーツがあるそう。
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エドウィージダンティカ「ほどける」読んだ。ジョディピコーみたいな感じかな、クレオールにも興味あるしと読んだらこれはジュブナイルだった、うう http://www.sakuhinsha.com/oversea/26276.html … 肉体の痛みの描写で描く喪失の話で、コバルト的なポジティブな再生で締めくくらないところがいい。原題はuntwine(おわり
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双子の姉が交通事故で突然いなくなる。自分もしばらくの間声も出ない。ゆっくりゆっくり快復していく主人公、辛い場面が多いけど、希望が持てる。YA小説でもある。
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人生でいちばん美しい年齢ともいえる16歳で自分に瓜二つの双子の姉を事故で喪う主人公。
いなくなった姉と自分を重ねながら、これからの道を歩いていくために、ゆっくり、そっと、心の内で姉とつないでいた手を「ほどいて」ゆく。
設定から『ラヴリーボーン』を思い出しもした。あちらはすでに亡い少女が、遺る家族の、とりわけ妹の、成長を見つめる。こちらは、死者と生者の境目が曖昧なときもあれど、より現実的な描写で自らの再生をつぶさに見つめる。
ほかの家族たちもみんな愛情深く、しっかりと親戚も含め繋がっている描写がよい。このあたりの「血の濃さ」を訴えるのは、ハイチの作家ゆえか。
号泣ということはないけれど、読むうちにいつの間にか目尻に涙がたまり、時々ぬぐいながら読み終えた。 -
双子の姉を事故で亡くす、その喪失を受け入れるまで。生まれた時から何もかも共有しほぼ自分に等しいような存在に、ゆっくりとさよならを告げる。
家族や親戚との関係の濃密さは、ハイチからアメリカに渡り住んだ故もあるかもしれない。
友人たちとの軽快な感じにわずかに混ざり合う、疎外感。嫉妬とも言えない小さな嫉妬。自分が生き残ってしまったという罪悪感。
震災やハリケーン被害の後を生きるハイチの人びととも重なってくる。
ハイチの祖父母も、その家も庭もとても素敵で、素敵だったことは損なわれないんじゃないかな、とも思う。