東京大学「ノイズ文化論」講義

著者 :
  • 白夜書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (389ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784861912849

作品紹介・あらすじ

「美しい国」「品格ある国家」「格差社会」の陰で排除される「ノイズ」とは、なにか。大好評「80年代地下文化論」に続き、またも東大駒場キャンパスの密室で悩み、思い出しつつ語る見返りのない講義録。

感想・レビュー・書評

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  • 1980年から現在に至るまでの時代の流れを振り返った時に以下のように分類してみる。

    バブル以前/新人類世代(1980〜1986年)〜 バブル(1986〜1991年)〜 バブル崩壊(1991年〜1994年)〜 世紀末/失われた世代(1996〜2001年9月11日) 〜 00年代(格差時代? 2001年9月11日〜)


    で、今の時代 ― キャッチーな名前は思いつかないんだけど ― はそれまでの価値観が崩壊してしまった9.11以降の世界だから、あらゆる局面で迷走していると思う。

    WBCに飛行機が突っ込むという誰もが想像しえない出来事が(アメリカ社会の主流=世界で一番声がデカい連中)から見て異質な人たちによって引き起こされたから、それ以前から進行していたグローバリズムと相まって異質な物を排斥する傾向がより強まっていった。

    それが日本では引き篭もりやニートといった格差社会化という現象に繋がっていったのだろうし、異質なものを排除する"世間様"から受ける見えない圧力に押し込められた悪意(それは程度の差こそあれ誰もが持っている物)を個人個人の心の奥底に閉じ込め、あるひ誰かの心の闇で暴発してしまったのが駅前での無差別殺人だったりするんだろう。


    宮沢章夫は「80年代地下文化論」に於いてピテカントロプスを中心とした"テクノ的な考え"を出発点としているが、ノイズ=異質な物を排除することなく、受け入れる態度は(ピテカン、YMO的な80年代のテクノではなく)エイフェックス、ベーチャンを通過したテクノ的な考えにヒントがあるのではないだろうか。

    本著でも取り上げられているジョンケージなどの現代音楽やメルツバウのようなノイズまでポップに受け入れる度量が(少なくとも黄金時代とも言われるベーチャンやエイフェックスが出てきた時代の)テクノにはある。

    googleを見れば判るように、今後ありとあらゆるデータで満ち溢れ、世界はどんどん細分化していくだろう。

    そのさまも正にテクノのようだし、ライフハックと呼んで経験値までもツール化しようとする様もまるでテクノDJのようだ。


    ……とまぁ、このように本著は前作「80年代地下文化論」の流れも踏まえてテクノに結び付けて展開してみたけれど、脳が刺激されて色々な考えが浮かんでくる"講義録"なのであります。

  • 表象・メディア論本。例えばオウム事件、ニュータウン、ジェンダーの問題などの周縁を、<ノイズ>を焦点につついてゆく。大抵、こうした単語をひとつ挙げて現象を見るやり方は歪になり易いと思うのだけど、多少の違和感を残しつつも見事にやり遂げた感がある。


    しっかし読むのに時間がかかってしまった。講義を元にした本というのは苦手で、マックス・ウェーバーの著作二作はどちらも1/3程度で諦め、この手の本にはしばらく手を出すまい、と思っていたのだけど、本書は本当に楽しんで読むことができた。本分を忘れるくらいに(笑)

    実はこの本は購入当初、「ノイズミュージック」に関する本だと思っていた。店頭でめくったときに単語だけ確認すると、アートやミュージック、テクノといった単語が目についたし、後半に『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』の写真がドーンと載っていたので、てっきりそうだと。
    しかし読み始めてみると、苦手な類の本なはずなのに、自然に次のページへと手が進むので、途中で読み止めてはいけないなと思って、時間はかかったけども、最後まで読むことができた。


    この本を買った理由もちょっとおもしろくて、ノイズミュージックの本だと勘違いしたのもあるんだけど、その直前に友達に、その日の朝にiPhoneで録ったギターの騒音を聴かせたのが原因だったりした。
    こういう空間系にハマっている、と言うと、同じく「ノイズ」に興味が湧いていると言われた。その後に寄ったバサラブックスで見付けたのだけど、「ノイズ」という単語が出てこなければ、この本を手に取ることもなかったので、偶然の出会いだったなーと、ちょっとした思い入れがあったりそして、それだけではなくて、本書で言われている<ノイズ>は、最近僕が謎に興味を持っている「オレオレ美学的視点」と共通点が多いことが、思い入れと面白さ、それから、苦手なはずの講義本を読み終えられたことに関係している。

    「オレオレ美学視点」の対立軸に置いているのは、安直・恣意的な、音楽や資本主義、思惟や行動で、要するに僕が嫌いなものなのだけどw、これらが<ノイズ>の排除であると読んで、思考を進められると分かると、とても面白くなってきた。

    ちなみに、この<ノイズ>が好きなので、汚れの写真を撮ったりしているんだけど、この行為に意味があるかは謎。というかまだ分からない。


    そうして読んだ訳なのだけど、読み進めることはできたけども、やはり今まで読んでこなかっただけあって、読みかたが分らず、大部分を勝手な解釈と忘却で失ってしまった。まあ、また読むからいいと、途中であきらめたし、他著の『80年代地下文化論』と被る内容も多くあるだろう…という解決。


    そんな中でもいくつか主題を取り出して読んだ。ひとつは、論理の構築{訓練,実践}の違いとありかた。本書の内容の、ごく狭い範囲を取り出せば、論理として(例えば、矛盾があるとか、単語の選択が恣意的であるとかで)適切でないものも多くあると思った。

    それは「訓練」 の視点で妥当な指摘になりうるけれども、一冊の本に対して、また、新しい概念を創出しようという「実験的」な試みに対しては、一部を取り出して、その手法と内容の是非を問うやり方は、その有価値な部分を殺すことになりかねない。

    それは自明なことと思うのだけど、本書の全体を眺望して、その見事さについて考えていると、下らない・排除したいという気持ちになってくる。これもまたひとつの<ノイズ>に対する感情だと思う。この感情も<ノイズ>なのだろうけど、同士の対立までは考えが及ばないので放棄。

    そんな見事な本の中で、特に見事だと思ったのは、「異形」についての一連の流れ(第8回 それを「ノイズだと言うなにものかがいる)。と、書いたところで、何故見事だと思ったのか忘れてしまった…。この辺りを読んでいるときはノってたんだろうな。端書は残さなきゃな。

    見事だと思った理由の原因は忘れたけど、その理由だけは覚えていて、鬼海弘雄さんという写真家の『や・ちまた』という作品についての解説に、最初は「異形とは言えるけど、後から異形という評価がついてくるだけだ」と思っていたのに、読むにつれて「異形」が発展して、より深い「異形」の姿が見えてきた。<ノイズ>も「異形」も、共にその表層は見え易いものだと思う。日常的に感じることのできる、説明のし易いもの。けれども、もう一層下に潜るのは難しい。それを、「異形」において実現した、というのを見事に思った。

    思うに、<ノイズ>は固定概念とも対立する。
    思うに、<ノイズ>は固定概念とも対立する。固定概念を元になった思惟、本書では、「ビジネスやアカデミズムの世界の"成功している"と言われる若手」が「『強い』『正しい』『稼ぐ』ことなどを屈託なく肯定している」のに、「『弱い』『正しくない』『稼がない』が大嫌い」で「そういう状態にいる人を心底、軽蔑しているのだ」(P312,『フリーターにとって「自由」とは何か/香山リカ』から引用)という現象に似ている。引用元が香山リカというのと、ここでも「若手が〜」と言っているのにはちょっと笑ってしまったけど、この現象も現代の<ノイズ>のひとつだ。

    そういった固定観念に対抗するひとつの現象として、<ノイズ>の排除に対する行動、「<ノイズ>主義」的なものが生れるのは、自然なことだろうと思う。そしてそれは、世俗に一線を引く美術の界隈において仕込まれてきた「表現」と目標を共にする、かもしれないし、少なくとも多くの共通項を持つと思う。

    本当にそうであるかは、まだ芸術のなんたるかを知らぬので言えないけども、最近はその確証をつかむのをひとつの目標として、よりいっそう「人文系ワナビー」としての磨きをかけているところであったりする。

    固定観念に対立するものとして<ノイズ>主義を見ると、それは、一般的な思考方法/パラメータ思考の否定と考えられる。パラメータ思考は、「良い/悪い」、「強い/弱い」、といった、「要素が増えることによって複雑化した思考から結論汁を搾り出す」やり方の反対、つまり恣意的思惟主義の否定題材だ

    パラメーター思考の反対として<ノイズ>主義を立てることは、ともすると、厳密にその問題の要素を探ることを必要とする。恣意的思惟を否定するのだからそうなる。けれども、現実問題として、ひとつの問題に関係する要素は膨大で、その細部は例えば科学的に分っていなかったりする。

    分子レベル/量子力学レベルまで抽象度を下げることを諦めるにしても、どこで厳密さを諦めるかという問題がある。それについて、本書では、「周縁」と「中心」という、(構造主義の始祖でもある)レヴィ=ストロースや、E・シルズ、山口昌男らの「トリックスター」という考えを使って″バブル期のディスコという「中心」が、バブルの終わりの始まりに登場するディスコが、山手線の外側の殺伐とした倉庫街という「周縁」に移った″ (P183)ことについて考えている。普通に考えれば、例えば家賃が安かったとか、という話になるが、そういった考えかたの限界や問題をそういった考えかたの限界や問題の反対にあるのが、<ノイズ>主義的思考なのだと思う。そして、この「トリックスター」は、この思考の抽象度の一例として一応の働きを見せていて(他にも北川辺町という町についてもこれで言及するのだけど)、止っていた思考が進む感じがしたのだった。


    「どういった思考方法が恣意的なのか」「既成概念は本当にダメなのか」「この抽象度の設定に問題はないのか」などがあって、問題は山積しているけれども、「原因・因果」にしがみ付く方法には無理があるように思えるし、そういった方法の反対に立つ考えかたとして、<ノイズ>は有価値だろうと思う。


    他にも「ノイズの間違った解釈」とか「百姓視点のヒエラルキー」とか「アウトサイダーアート」とか、いろいろとあやしいメモ書きが残っているのだけど、とりとめの無い感じになってきたし、特に書きたいことは書いたのでここらで終わります。

    最後に、今回の読書は、最近読書をするときに心がけていた「有価値な感想を生む読書をしよう」というのを、すっかり忘れていたことだけ、悔いが残る。だらだらと書き垂れ流したのは、ほとんど以前から考えていることとのキメラなので…。

    こうしてひとしきり騒ぎ終えた後に、ログを読んで、「あー1時間以上もかかっちゃった」とか「推敲技術足りんなー」とか「結局、確信をついてないじゃん」とか考えた末に『よし!修行・鍛錬に励むぞ!』という結論に至るあたり、思考がアナログな自分らしいと思う。だめじゃん

  • んん、ん
    中心と周縁
    意味と雑音
    排除されるノイズー多様性

    音楽と音響とかフリーターとかジェンダーフリーとかオタクとか天皇制と異形の職能人とかニュータウンとか足立正生とか

    なんか鈍い

  • 排除されるノイズ。ノイズは重要だと思います。

  • なんか、大学生のころに戻ったみたい。たのしい。

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著者プロフィール

1956年静岡県生まれ。劇作家・演出家・作家・早稲田大学文学学術院教授。90年、演劇ユニット「遊園地再生事業団」を結成し、1993年戯曲『ヒネミ』(白水社)で岸田國士戯曲賞を受賞、2010年『時間のかかる読書』(河出文庫)で伊藤整文学賞(評論部門)を受賞。著書に『牛への道』『わからなくなってきました』(新潮文庫)、『ボブ・ディラン・グレーテスト・ヒット第三集』(新潮社)、『長くなるのでまたにする。 』(幻冬舎)、『東京大学「80年代地下文化論」講義 決定版』(河出書房新社)など多数。

「2017年 『笛を吹く人がいる 素晴らしきテクの世界』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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