枠組み外しの旅―― 「個性化」が変える福祉社会 (叢書 魂の脱植民地化 2)

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  • 青灯社
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  • Amazon.co.jp ・本 (232ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784862280626

作品紹介・あらすじ

諦めをこえて、どうすれば社会を変えられるか
● 諦めていたダイエットや花粉症治療を、発想を変える枠組み外しによって克服した体験を語る。
● 福祉の支援現場の支配構造を、支援する人とされる人との[対話的プロセス]でのりこえる。
● 重度障害者を施設に収容するという固い通念は、いかに打ち破られたか。
● 枠組みを外して「個性化」し、他者と[かかわり合う」。渦が拡がって、社会が変わる。
● 注目の俊英が、社会を変えるため個人レベルから思索を拓く。

感想・レビュー・書評

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  • エクリチュールに支配された心的肥大ではなく、個性化を。

  • 以下引用

    おまえの精神は合図で働くように仕込まとるからな

    私たちのパースペクティブや行動は、テレビや習慣、『●●すべき』という規範など、様々な外因性のものに「植民地化」されている。情報化が進む中で、その「植民地化」が急速な勢いで拡大していて、個人の中である種の解離状態を引き起こすくらいの深刻なものになっている。しかも、その植民地化された状態について、個々人が無自覚なので、なんだかしんどさを抱えながらも、解離状態に気づかない。

    自分が納得して、その通りだよなと、思い込んで、かつ「自分らしさ」と思い込んでいる。自分の中での支配的な言説なり視点なりの少なからぬ部分が、ストックフレーズや手垢にまみれた焼き直し、刷り込みに過ぎないのではないか

    エクリチュール=社会的に規定された言葉の使い方
    。ある社会的立場にある人間は、それにふさわしい言葉の使い方をしなければならない

    大学院生の頃は、わりと自分の考えをはっきりと述べていたが、大学教員になった後の僕の文体は、その発言に社会的責任が付与されたこともあり、なるべく内面の価値観を出さない文章、正しい発言をしようと抑制的だった

    人は別のサイクルに入ることでしか、あるサイクルから抜け出ることはできない、復讐というマイナスの相互性から贈与交換というプラスの相互性に移行するときには、眺めている時間の方向が逆転する。すでにくれた人に贈るというのは、伝統的な交換の概念に一致している。

    虐待や震災時の恐怖、お中元など、自分が予期せぬサイクルに巻き込まれてしまい、それへの返礼として贈らざるをえないという論理。自らの内部にもともと存在する論理としての内在的論理ではなく、外在的に自分以外の何か・誰かにせかされ、せねば、という気持ちに急き立てられる、強いられる論理。ここには自分の意志や、自立性がない。⇒遅れをとっているということかな。

    一方、これからくれる人に与えるというのは、先手を打つこと。相手がどうするかはわからないけれど、まず贈与する。その際、せねばと追い立てられるような義務感はない。与えたいから与えるのである。したいからする。自らの魂の赴くままの贈与であり、自らの感情を無理に鋳型の中に押し込む、あるいは蓋をしなくてもできる行為。

    悪循環から抜け出るためには、その循環のプロセスを含み循環性を認識することが重要である。そしてすべての循環性を否定するのではなく、別の方向へと出発するプラスの循環に入ることである。人が復讐から逃れるのは、マイナスの循環をプラスの循環に反転させることによってだけなのである。

    自分が選択したエクリチュールの捕虜になっている、支配されていることを自覚することからしか自由を勝ち取ることははじまらない。この自覚とは、今の自分の状況がどんな問題を抱えているのかを分析することから始まる

    植民地は、ある一定の集団が、別の集団に対して、一方的に支配権、決定権を持っている状態をさし、それらが集団的にも個人的なレベルでも行使される。植民地的状況(ここでは、広義に、国家的植民地のみならず、個人間の支配ー被支配関係も含む)のもとでは、被支配側はしばしばいわれなく劣等感を押し付けられる。このようにして、自分自身の属性が、否定的なまなざしで他者から眺められ、そのような処遇を続けることによって、魂は傷つけられ、その発露をゆがめられる

    ★★魂の植民地化概念は、僕自身の研究テーマである障碍者の隔離、収容の問題と構造的類同性がある。精神科病院や入所施設は、もともと、治療や支援が必要な障害者のために作られた施設である。本物の植民地とは違い、搾取や疎外が目的とされたわけではない。むしろ逆に、「良かれ」と思って作られた施設である。だが、病院や施設での利用者の声を分析し続けていると、支配-被支配や「いわれなき劣等感」の押し付けの事態にしばしば遭遇する。

    他人に何かを押し付けられたり、強制されたりするだけでは、「魂は植民地化」されない。その相手のパースペクティブを自分自身のなかに取り込んで、自分本来の情動や感情に逆らいながら、自らを制御し、行動を形成し、他者への働きかけを行う場合に、その魂は「植民地化され」ているのである

    知とは、自己言及的表現であるという。知る/知らないという状態よりも、世界への認識の枠組みを遷移させる学習過程としての知

    もっと知りたいと希求するとき、こんなことを知らなかった・わかっていなかったと前景化することは、恥ずかしいことではなく、むしろ取り組むべき課題が明確化されたと感じるのだ。そして知らないことを知るとは、新たな可能性が目の前に見開かれることであり、そのことに、わくわく・ドキドキし始めた。

    変化しているのは、知の方ではなく、知ると知らざるとを分別している私自身である。言葉の論理展開とともに、それを展開し理解する私が変化し、その変化が言葉の意味を豊かにするというダイナミクス。この自分自身の変化を伴う解釈の過程が、「学習過程」

    「知る」過程の中で、「自分は何をまだわかっていないか?知らないか?」が明確になる。すると、その「知る」主体である「私」自身が変容し、それに伴い「知っている」内容も変遷する

    ★僕自身がわかっていない、知らないということを知ることによって、それ以前の僕自身のものの見方や考え方の限界をも知ることができる。そのことは、展開し理解する僕自身の変化でもある

    知るという行為を続ける限り、常にその「知」の枠組みや構造自体が書き替えられ、それに基づいて「私」自身も変容し続けていく

    自分自身の既存の枠組みの中に外部から何かを取り込むことが「学」であり、それが自分自身の在り方に変化を及ぼして、飛躍が生じる瞬間が「習う」である。

    学習とは、既存の枠組みというエクリチュールそのものに外部から揺さぶりをかけること、そのうえで、自身の内部の枠組みが変化し、飛躍が生じることである

    ★自分を常にモニタリングして、人の言うことに耳を傾け、自分の間違いに気づいたら、直ちにそれを受け入れ、さらに自分の行動を改める。これが孔子の追究する人間としての在り方の根幹にある

    人は人、自分は自分である。人が自分の考えを共有してくれるかどうかなど問題とならない。それはそもそも不可能だから。それゆえ君子の交わりは、相互に考えが一致しているかどうかなど問わず、むしろその相違を原動力として進む。こうして相互の違いを尊重する動的な調和が、「和」

    そこにかかわる人々が世界への認識の枠組みを遷移させる学習過程に身を置き続けることを通じて新たな何かが創発されることが、「学びの渦」

    自らが箱の中に閉じ込められていること、その外には知らない世界があること、そこに出る勇気があれば、違う世界が見えることの発見。このような自分が未だ知らないという意味での絶対的他者の世界に開かれているというのが、学びの渦の本質

    自分の間違いに気づいたら直ちにそれを受け入れ、さらに自分の行動を改めるという学びの回路を開く。それが仁の状態。

    ●●が悪いと指摘する主体は、他責的になっており、つまりその裏には、私は悪くないという価値前提がないか

    おしゃべりをする学生が悪いというフレーズ。だが、その学生がなぜおしゃべりをするという内在的論理を探求しようとせず、単に学生が悪いという常識=外在化された論理を当てはめる

    学生が悪いとすることで、教える側は、おしゃべりをしたくなるような授業を展開している自らの問題性を免責していない

    自分の見える行為自体を知覚の対象に捉えるような知覚、問題の一部は自分自身と気づける知覚

    その正しさを伝える教育書や専門家が、自らの信じる旧来の正しさの絶対性にこだわり、それを神聖不可侵なものとして神話化し、その自らの作り上げた神話をさらに強力に支配させていく中で、学生や入院患者よりも、その正しさという神話の方が大切にされはじめる

    一方的な教える、支援する、支援される、教わるという関係性は、被抑圧者の現実を維持しようとすることが目的である。

    対話を通じて、自らが知らない世界があることを知る。その新たな世界との出会いにかけ、まずは自らを変え、それから世界を変えるたびに出る、その中で学びの渦が生成されていく

    精神障害の病状以上に、支援者の管理的、保護的な関与の常態化が構造的な壁

    自らが適切・適正な支援と信じてきたものが、保護、管理の思想に基づく過剰なケア、治療、援助の常態化であった

    統合失調症という病気の重さと思い込んでいたものに、自らの過剰援助という手法により作り出されたものが多々ある

    どうせ、しかたない、無理だと諦めて意欲をなくしてきた支援者たち。この支援者たちの諦めの認識とその前提としての過剰援助という手法そのものが、入院患者の病状の悪化を作り出す原因の一つでもあった

    援助とは、いわゆる援助者も当事者も互いに成長する『相互変容過程である』とする原点に立ち返る

    病院においては、治療する側がされる側に関して、絶対的な権力と情報量を握っている。つまり支配-被支配の関係が構造化されやすい空間であることを意味している。その構造下において、する側-される側が最初から対等な関係に立つことへ原理的にあり得ないのかもしれない。だが、援助者も当事者も互いに成長する相互変容過程のプロセスに入る中で、対等な関係性を目指し続けることが、地位の断定化状態を超えるために必要不可欠

    ★これまで支配者側は、問題の原因を『統合失調症』という病気の重さという宿命論に結び付けてきた。支援者自らの過剰援助を問題にせず、自らの問題が誘発した『生きる力を奪われた当事者の退行した行動や症状』をすでにくれたものとして、そこにさらなる過剰援助を贈り続けてきた。これはまさに悪循環回路そのものである。この悪循環の回路を、『その循環のプロセスを含む循環性を認識する』つまりは『自分の見える行為自体を知覚の対象に捉えるような知覚』が、相互変容過程を導く第一歩

    まずは『生きる力を奪われた当事者』の語る『本音』を『病状』とすり替えず、そこから言葉を投げ返す、対話のプロセスに支援する側が入る

    これまで『過剰援助』により示された『退行した行動や病状』に対してさらになる『過剰援助』を行うという『すでにくれたものに贈る』プロセスに見切りをつけ、その人の可能性を信じ、『これからくれる人に与える』という先取りモードへ転換する

    これまで専門家は、自らが解釈可能なあるいは自らの理論で理解可能な当事者からのメッセージのみに肯定的なメッセージを返していなかったか。専門家の正しさという神話から逸脱するメッセージについては、あなたが悪いと決めつけ、注意、宣言、恫喝だけを相手に返していなかったか。

    一方的で静的な知の権威付けをやめ、動的な探求するプロセスに相手も自らも入り込むという意味で、学びの回路、対話の回路にお互いが入り、という意味、その学びや対話の回路が生じる中で、動的なプロセスとしての学びの渦が生じはじめる

    ビジョンと今の現実の乖離はエネルギー源でもある。乖離がなければ、ビジョンに向かって進むための行動を起こす必要もない。

    自由をはく奪され、『卑屈な役割関係』の中で、「沈黙の民」の位置に貶められた支援される側は、「ビジョン」の矮小化にも、取り立てて、反論できない。

    大切なことは、地域には誤解や偏見が渦巻いていると考えないことだった。人を変えたいと思う時、相手を問題のある人ととらえず、いかに自分を変えるかが大切になってくるように

    ●●が悪いと指摘する他責的発言であり、その裏にはそれを指摘する専門家である「私は悪くない」というスタンスがしばしば隠れている。最初から、●●が悪い、私は悪くないという姿勢で話をする人は、「反-対話」的スタンスそのものである。地域住民は、そんな「反-対話」的な専門家の発言に聞く耳を持つはずもない

    別の秩序の創出は、既定の秩序とまったく無関係に行われるものではない、それは、先行する特定の意味空間のなかで実体的な相貌を得ている諸要素を「非中心化」することによって「脱実体化」させ、諸要素にそうした位置価を与えていた意味空間の構造的布置を揺さぶり、ずらしながら、別の意味次元において組織しなおすという、一種の「地すべり的」な移行なのである(鷲田)。対話の論理とは、このような「地すべり的」な移行の論理である。異なる意見を持つ二人が出会い、自らの偏見や先入観、あるいは「知らないこと」を含めてさらけ出してメッセージを伝えあうことは、「既定の秩序」の「非中心化」が始まる
    ⇒同じ状況や事象を前にしていても、その判断の「枠組み」や「構造」をずらすことで、その意味や相貌が全く異なるということ

    支援する側がされる側に、働きかけ、操作することによって精神障害者の生活実態が変わるわけではない。むしろ、その操作こそが、患者の病状の維持・固定化につながった部分があったのであろう

    あるシステムを変容させるためには、支援対象者を操作することよりも、まず支援者自らが変わることによって固定的な二者関係を超えた動的なプロセスとしての学びの渦を駆動させ、その渦を第三者にも広げていく方が結果としてシステムそのものの変容過程へと導きやすい。

    ★精神科病院を中心とした精神医療体制を維持するために患者は存在し続けるとう論理

    支援される側が、退行した行動や病状を呈するが、これが統合失調症という病気の重さとミスリードされ、結果、管理や支配的な価値観に基づく過剰な援助が繰り返される。

    問題の一部は自分自身であることを認め、他責的に相手を糾弾することなく、現実をビジョンに近づけるために、創造的緊張を生かそうとするなら、支援者と当事者を切り分けることなく、相互に依存し、影響し合う一つのシステムとして認識する必要がある


    ⇒病状として出ている、出てしまっているということの要因のひとつに自分の責任を認め、それが出ないようにするにはどうしたらよいかを、関係の中から探る。援助者や支援者による援助が結果として問題や退行のサイクルを増強、保持させること、ひいてはそれを病として名づけることで、固定化されてしまう


    障害のある人を隔離する傾向が強まったのは、産業革命以後であった。一家総出で、農作物なり商品ありを作るという家内制手工業の時代から、工場制機械工業の時代に変わる中で、ベルトコンベア式労働に代表される大量生産方式に工業形態が変わった。すると、担い手も、老若男女問わず一家総出でという形態から、生産能力んお高く規格化された労働に順応しやすい成人、特に男子に限定するという形へとシフトした。そのため「生産能力が劣るとされる子ども、高齢者、病人、障害者は、規格外のため労働から排除された。また性別役割分業も進み、先述の「規格外」に人々は家事、育児、介護などのケア労働という形で女が主婦として支えるようになった。さらに日本では核家族化が進展する中で、専業主婦が一人でケアするのが大変な高齢者、病人は隔離収容の対象となり、施設や病院がたくさん作られていった。その意味で、工場労働にとっては、「規格外」の人々を収容する「規格」として病院や入所施設が「規格化」の「成果」とも言える

    私は、ノーマライゼーションの原理とは、社会の主流になっている規範や形態にできるだけ近い、日常生活の条件を知的障碍者が得られるようにすることを意味していると理解している

    入所施設ケアがアブノーマルであると認知転換されはじめた。施設支援という構造そのものの意味空間の構造的布置を揺さぶり、ずらしながら、別の意味次元において組織しなおす

    ★エクリチュール批判は、みずからが今書きつつあるメカニズムそのものを対象化しうるエクリチュールにとってなさなければならない

    身体を張った文字通りの戦いは、世界の定立そのものに向き合い、強烈な異議申したてをする中で、学びの渦を作り出していくことであった。戦いとは、「障害者じゃアブノーマルで、ノーマルになるほうがいい」ということをはっきりと幻想であると指摘し、そこから脱却すること。当時、支配的であった障害者=被抑圧者というエクリチュールを自覚し、脱ぎ捨て、当事者主体ろいう別のエクリチュールを獲得する戦いであった
    ⇒このへんに、自分のビジョンがある気がするな。今のままでは、既存のシステムで固定化されたコミュニケーションの在り方や構造に、自分の生命が「抑圧」されている状態にある。それが抑圧されない状態になるには、自分だけが変革すればよいわけではなくて、「生命を抑圧し、そのシステムを強化することでアイデンティファイ」している人の思い込みを外していく必要がある。僕は自分が「変わっている」とは全く思わない。思わないというか、自分を「変わっている」と命名することは、自分を「変わっている」と定立させる「構造」それ自体を認め、固定化さてしまうことを逆説的に意味する。つまり、障害者や異端者であり続けることを固定化させ、社会の周縁で生命を抑圧されながら、動的な学びのプロセスを関係性の中で立ち上げられない構造を支持することとなる。

    現場で身体拘束をしないと毎日の仕事がうまくいかないという事実に基づく反論、。だが、それは「人権侵害」の可能性がないか、捉えなおすが必要。
    ⇒これ、ほとんどの制度で当てはまる。学校、医療、制度、組織、国家、会社、、、。

    ●●だからしかたないと発言することは、身体拘束という行為を遂行することを強化しているだけ、どうせ、しかたないいの呪縛から逃れられない

    ★日本の福祉や医療の箱の中の限界なのではないか。そして、この教科書や現場の常識を疑うということは、特に教わる側、支援される側がそれをするということは、とてつもない勇気が必要である、しかし箱の外に出る勇気を持たないと、この価値前提とそれに基づく事実体系をひっくり返すことはできない
    ⇒違和を感じる者の責務というものがおそらくある。

    入所施設や精神科病院での保護的な暮らしよりも、地域で自分らしく暮らしたいと思い続けてきた重度の障害当事者や関係者が、その地域の行政や支援者たちと作り上げてきた仕組み

    青い芝の会の集う、常時介助が必要な脳性麻痺者たちが家族や入所施設を離れ、一人暮らしや共同生活を始めたときには、介助は学生ボランティアに頼る、綱渡りの生活だった。しかし、その実践が共感を生み、地域で支援を受けながら、一人暮らしや結婚者が多くなるにつれ、それを制度的に保証する動きが出てくる。
    ⇒これが社会変革だと思う。社会に内在し、その社会に違和を感じた当人が、自らの手で、その社会に「居場所」を創造していく行為

    何らかのブレークスルーは常に局所的現場の実践解という「成解」。それを帰納的に普遍化し、新たな制度やシステムとして形作り、演繹的に投げ返す。
    ⇒今の自分が直面している「息苦しさ」が、まさに「局所的現場」なのだと思う。脱植民地化され、工業的に人間がかかわることを構造化された状況の中で、自らの「生」の抑圧が前景化している。まさにこれは「社会典型的」な、「歴史的現在」における苦しさであると思う。そこに対して、自分はどんなブレークスルーができるだろうか。結局この抑圧に対して自分の「生」を守り抜く行為、状況に対して屈しない態度を保持していくことは、周りへの応答や介入なしにはありえない。それはつまり「結果としての」、社会変革、構造のうつしかえになりうる。

    われわれは日常的な生き方-自然的態度にあっては自分の経験するさまざまなものごとやさらには自分自身をさえ、「世界の中に存在するもの」であると素朴に断定している。この素朴なつまり無反省的になされている断定を停止し、それをそれとして露呈してくれるのが減少額的還元。

    医療現場の最前線で日々の支援を行うという日常的な生き方において、その現場での支配的なルールや所与の前提とされていることの中には、どうせ、、、という宿命論的前提や諦めに基づいて構築されたものが多々ある。人手不足だから縛らないといけないというのもその一つ。そういうものだと思考停止して飲み込まない。

    そういうものだと発言することは行為遂行的発言。

    ★ぎりぎりと迫るためには、理論や分析枠組みありきでは通用しない。現場で生起する事態にどっぷりつかり、目を向け、耳を傾け続ける⇒自分の仕事というか、責務はここから立ち上がってくると思う。現実に介入することでしか、現実を変革する術など生まれてくるはずがない。その現実に自らの「生」を抑圧されうるぎりぎりのところで、それを「違和」として捉え返し、その「違和」を構造化する動因背景についての洞察を深め、それを払しょくする新たな「制度」や「構造」を「かたち」として現前化させること。

    現象学的還元とは、世界の定立への気づきや対峙を通じたパラダイムシフトである。観念論への自閉をも超えた、行動化につながら現象学的還元。

    受動的抵抗。人間が、自分の権利を獲得するために、自分で苦痛に耐える方法。

    Aや非Aの存在の前提となる『世界の定立』自体と向き合い、その信念対立の前提についての現象学的還元を続け、そうではない可能性を見出すために、まずは自分から変わる。

    われわれが自明のものとしている「世界」が、実はさまざまの可能的な「かたち」のうちのひとつにすぎないことの自己覚知。そこから「蓋」を開け、箱の外に出ようとした。

    ★支配的言説を単に否定するのではなく、その信念対立についての現象学的還元を続け、「世界の定立」を問い直す、ずらし、変容させることを通じて、「植民地化」されたシステムとは別の可能性が「地すべり的」に見出されるのであうr。そしてその先にしか、「蓋」の下に潜んでいる自分自身の魂と取り戻すこと、つまりは私たち自身の「生き方を解き放つ」可能性はないのではないか

    「明晰」の世界に自足する此岸にとどまるか、彼岸に広がる小さな窓の中の光景を普遍性として認識する機縁をつかむのか

    自らが世の中は、「そういうものだ」と思い込んでいる「世界の定立」そのものを検討の対象にし、「歴史的現実に変え、人間の手で変革しうるものにしていくこと」

    支配的な価値観による排除と、その排除の論理の内面化、という二重の否定を振り払う

    自らの正解幻想から自由になること。自明のものとしている世界でできない「理由を100並べるより、出来うる方法を一つ考える

    ★★お互いの推進、反対の論拠となる価値前提の違いをはっきりとさせる必要がある。そのような背景や思惑、不安があり、推進、反対の「正しさ」の論拠が構築されてきたか。について、お互いの立場を超えて学ぶ必要がある

    反対話的な、説得、恫喝、ではなく、対話の中から納得を考えるためにお互いの枠組み外しをする

    ★ただ反対、非と唱えているだけではな、表面的な対立という悪循環構造から抜けられない、これを超えて、構造的制約や世界の定立そのものに向き合うことを通じて、、、、

    ★コミュニティ再生のための基本要件は、もはや古き良きコミュニティへの過剰な思い入れに浸るのではなく、過疎化とプライバティゼーション(私事化)が深くゆきわたっているという地域の実情を踏まえた上で、そうしたものによりみえなくなっている「生活の共同」の枠組みを再建し、あらため、、、

    ⇒ここだなと思う。ここは時代の典型だと思う。そのうえで、機能や役割ではない「共同性」をいかに立ち上げていくのかが、自分の責務にある。

    地域コミュニティは、あるけど、本当はないという危機に陥っている。

    ★宿命論的呪縛は、多くの場合、自分や組織内での抵抗にすぎず、誰も外部から妨害していたわけでない

    ★社会を変えるための営みは、実は一方で自分の個性化のための闘いでもある。⇒よくわかる。結局自分の「生」を守ろうとすると、単独で守れる話ではない。「社会」という「環境」の変革なしには、それは守れない。

    何らかの社会問題に心を痛め、放っておけないと思い、それを変えていくには周囲の少数の目を気にしていては、宿命論的呪縛から超えられない。その心的肥大と決別し、個性化のプロセスにいたるなかで、、


    ★個人が社会に働きかけるという視点は、個人と社会、システムを切り分けた思考。個人が自らに与えられた定めを実現しようと人の目を気にせず、シールドの外に出て、未踏の地で模索を続ける中で、結果的に社会は変わっていくのである。ここに個性化もある。

  •  自分の思考の中に、知らず知らずのうちにかけられた枠をどんどんと外していく。社会だけではなく、えっ、そこも? 自分も対象?とびっくりするほど枠を外す。

     閉じているのは社会では無くて自分なのか……という気にさせられる。面白かった。

  • 大名著 心から読んでよかった

  • 展示期間終了後の配架場所は、開架図書(3階) 請求記号 369//Ta58

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著者プロフィール

竹端寛(たけばた・ひろし):1975年京都市生まれ。兵庫県立大学環境人間学部准教授。専門は福祉社会学、社会福祉学。主著は『「当たり前」をひっくり返す―バザーリア・ニィリエ・フレイレが奏でた「革命」』、『権利擁護が支援を変えるーセルフアドボカシーから虐待防止まで』(共に現代書館)、『枠組み外しの旅ー「個性化」が変える福祉社会』(青灯社)、『家族は他人、じゃあどうする?』(現代書館)など。


「2023年 『ケアしケアされ、生きていく』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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