- Amazon.co.jp ・本 (289ページ)
- / ISBN・EAN: 9784862381187
感想・レビュー・書評
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2006年~2008年の間に様々な媒体に寄稿した文章の寄せ集め本。
昭和のエートス的な話は最初だけ。
テーマごとにまとめられてるようで、そんなにまとまってもない。
とは言え、私はいつも気になる個所に付箋を貼って、後で反芻するんですが、
気が付くと今回も付箋だらけになっていました。
第4章『アジア的宗教性』で内田先生は、
「どういうわけだか私はバリに来ると異常に眠りが深くなる」と書かれていました。
そして今日twitterで「バリに出発します」とつぶやかれていました。
今頃先生は深い眠りについておられることでしょう。
こういうシンクロニシティ、とても好きです。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
内田樹の雑稿集。確たる知性と芯と信条のある人は何を書いてもいつ書いてもぶれないものですな。
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ちょっと散漫な内容なエッセイ集。(以下引用)
個人がリスクを取り、努力をし、その報酬として得た利益については優先的な請求権があるというルールを認める限り、私たちは構造的に弱者を必要とするのである。(中略)徹底的な能力主義の導入による格差解消という構想のアポリアはこの点に存する。すなわち弱者の側からする「より合理的なシステム」の要求が、要するに弱者の入れ替えをしか意味しないということである。(P.132)
学校教育が資本主義市場経済よりも歴史的に早く登場した社会制度なのである以上、その存在理由や存在しなくてもいい理由を市場経済の用語で説明しようとすることには原理的に無理がある。(P.144)
国民は「その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う」と定めた憲法26条には「児童は、これを酷使してはならない」という27条の文言が続くのである。近代の憲法が定める教育にかかわる国民の義務規定は端的には、子どもは資本主義の市場原理にさらすなと命じているのである。(P.144-145)
学校というのは原理的に言えば「それが何の役に立つのか」を子どもたちがまだ知らないし、それを表現する語彙を持っていないことを教わる場である。というより「それが何の役に立つのか」を子どもがまだ知らず、言葉で表現できないからこそ子どもは学校へ通わないといけないのである。学びとは学び終わったあとになってはじめて自分が学んだことの有用性や意味について知ることができるという順逆が転倒したかたちで構造化さえている。(P.148)
「この問題の発生は私の責任があり、この問題の解決についても私の責任がある」という言い方が存在することを日本人は忘れてしまったかのようである。(P.205) -
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<h5>出版社 / 著者からの内容紹介</h5>
歴史の進歩と、科学への信頼と、民主主義の全能への夢が、リアリティを持った時代―いまの時代で失われてしまった“昭和的なるもの”への痛切なオマージュ。反時代的心象に彩られた、極上のエッセイ集。