新版 歴史の中で語られてこなかったこと (歴史新書y)

  • 洋泉社
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感想 : 8
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  • Amazon.co.jp ・本 (283ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784862489630

感想・レビュー・書評

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  • 日本史を思考する際に中心的な位置を占める農業・農民(百姓)について、そこにばかり注目すると本来の日本社会を見失うのではないかという歴史学・民俗学からの視点を対談形式で伝える。一から教えてくれる本ではないので分かりづらいのと、網野氏の思想が若干強すぎること、そして対談から20数年経過した今現在においては少々古いのではないかという指摘が散見され、そこが気になると読みづらい。ただ、固められた常識は、なぜ常識になったのかを問いかけるという試みは非常に重要な姿勢であろうと感じた。

  • 網野史観
    参考になる・・・現在の中世史の考え方をつくったようなものだな

  • 歴史を語る上ではあまり触れられていなかった、女性と子ども、老人に注目して、日本史を語る。歴史研究家と民俗学者、二名の著者による対談を通して、歴史を読み解いていく。

  • 新書文庫

  • 中世の人々の着るものの色について。

  • (2回目)網野善彦は日本史の先生、宮田登は民俗学の先生。日本史と民俗学、似たようなことを研究していますが、関心の向き方がちょっと違うようです。いずれにしても、本書には、国家とか政治とか戦争とか、そういう話はあまり出てきません。ふつうの歴史の本とはちょっと違うのです。私自身は宮田先生の方と先に出会っています。つまり民俗学に先に興味をもちました。学生時代に読んだのが「女のフォークロア」。詩人の伊藤比呂美さんとの対談でした。忌屋なんていうことばともそこで初めて出会い、かなり衝撃をうけました。網野先生はたぶん本書を読んだ後くらいから読み出しました。のちに中沢新一さんのおじさんにあたることを知りました。
    さて、お二人とも残念なことに他界されているために今回のセレクトに入ってきました。対談の始めは「もののけ姫」からです。みなさんは「もののけ姫」を観たことがありますか。何回観ましたか。1回では理解しづらい部分があるため、何度も観る人が多かったようです。私は子どもが幼いころ付き合って何度も観ました。まずは網野先生の言葉から。「まず、蝦夷の世界から話が始まり、タタラ場は都市のように描かれている。しかもそこには女性や非人、そして牛飼いまでが出てくる。山林には森の精霊が現れ、ダイダラボッチまで出てくるわけです。とにかく玄人が観るとよく勉強してやってる感じがしましたが、素人が観たときにこれがどれだけ理解できるか・・・。」「体に布を巻いた人たちが出てきますが、彼らがハンセン病に罹った被差別民であることなど、わからなかったでしょうね。」宮田「製鉄のためには、山々の木々を大量に伐採し山を破壊する。地域開発センターのタタラ場のまとめ役のエボシ御前は、山の世界を守ろうとする山の精霊たちとの戦いの先頭に立つ。」「学生たちにこの映画の印象的シーンを聞いてみますと、いきなり冒頭にタタリ神になった巨大なイノシシのすさまじい突進シーンがあり、イノシシの全身にヘビが絡み付いた場面が強烈だったようです。」網野「そのタタリ神に矢を撃ち込んで殺してしまった蝦夷の少年の腕にヘビが巻き付き、アザとして残る。」宮田「タタリを象徴するスティグマ(聖痕)になるわけですね。」網野「その少年は、タタリ神を倒したことで、最後までその業から逃れられない。そういう意味では、確かに救いはないわけですね。少年が自然に敵対するものの側に立つたびに、腕のアザがギリギリと締め付ける。」宮田「タタリ神の『しばり』ですね。」網野「しかし、そのスティグマとしてのアザは、この映画の最後で自然と人間の共生を確認するシーンでも消え去ってしまわないのです。つまり、救われてはいない、解決されていないわけですね。そこにこの映画の魅力があるのでしょう。」もう1回、映画が観たくなりますよね。前に観たことがある人は、本書も読みたくなるのではないですか。これでまだ20ページくらいです。「もののけ姫」ばかりというわけにいかないので、先に進みます。
    網野先生の一番言いたいこと。「そうした農人は百姓や門男(もうと)(水呑)の一部で、上関では他に船持、商人、廻船問屋、鍛冶屋、漁師、船大工、などが百姓に含まれています。浦方の門男の場合、農人はまったくいません。輪島と同じで商人や職人が大部分です。ですから、百姓=農民とするのはまったく間違いですね。・・・農人の中身をさらに調べてみると、実際は養蚕、木綿、機織りをしたり、たばこを作ったりしており、炭焼きや製塩をやっている人もいる。しかしそれはみな「農間稼」「作間稼」で農業の副業になってしまっています。都市でなくとも、普通の村の中に酒屋、鍛冶屋、たばこ屋などがいたわけで、私の先祖も百姓ですが、酒屋をやり、山を持ち、金融までやっていました。そうした状況が江戸時代の普通の村に見られたのですが、これが全部これまでは農村としてかたづけられていたわけです。」少しわかりにくいことばも出てきますが、網野先生が一貫して言っているのは「百姓=農民」ではないということ。柳田國男などの影響もあるようですが、どうも江戸時代まではほとんどが農民だったような印象があるのですが、そうではないということが少し調べると分かるのですね。
    話題は最近の談合の話にも及びます。もともと談合は聖なる場所でするという伝統があったらしい。これは市場にも当てはまる。網野「市場は境に設定され、そこはやはり神の世界に近い場所です。市場では相場を決める談合や饗応、そしてお祭りもやりますし、芸能もあります。それと同時に、市場ではすべてのものが『無縁』になる。つまり『神のもの』になるわけです。だから商品交換ができるわけです。ふつうの場所でものを交換すれば、贈与とお返しで人間の関係がむしろ緊密につながってしまうことになります。ものが『無縁』になる市場だからこそ、初めてものの商品としての交換ができるわけです。」
    年貢の話もいろいろとおもしろい。網野「コメを貨幣とするような経済になったので、東北の大名は水田を開発したのではないでしょうか。水田をひらいて貨幣としてのコメを運用すれば、一種の企業が成り立つと考えられるようになったので、それに投資をする商人も現れたのではないでしょうか。」「製鉄民は、コメではなく、鉄を年貢に出すわけです。・・・要するに非農業民の百姓の租税の負担の仕方なんですが、中世にはこういう例がいたるところにあります。東日本でコメを出している荘園はほとんどありません。ほとんどが絹と布ですよ。・・・養蚕地帯であったり、麻を栽培している地帯では、コメを出すよりその方がはるかに自然だったんでしょう。」
    網野「夏祭りは都市の祭りです。昔は怨霊の仕業と考えられた疫病などが、都市に多く流行る夏に、その怨霊を払うために行うのが夏祭りですから。」宮田「祇園祭のような、多くの日本の祭りというのは農村の祭りじゃなくて、都市の祭りです。」
    本書を読んでいると、歴史の教科書には出て来ない、いろいろな事実が見つかるはずです。最近の研究者は、民間の家に眠っている昔の資料などをあちこち探しまわっているようです。日記や手紙、家計簿など、もともと文書として保存されているものはもちろん、ふすまの裏張りとして使われている紙の中にもいろいろな資料が見つかるそうです。こうして、歴史に興味を持ったうえで、もう一度教科書を読んでみるとよいのかもしれません。最後に網野先生の言葉を「今や、日本史の常識は音を立てて崩れつつあると思いますね。」2016.9.22

    (1回目)20年近く前、共通一次試験で日本史を選択した。最も早くから取り組んだはずだったのだけど、半分にも及ばない。悲惨な結果だった。なぜだろう。受験勉強の中で興味のわく話に出会えなかった。断片的に出来事を丸暗記するだけで、決してストーリーとして歴史が頭に入っていなかった。消去法でまだましかなあと思って日本史を選んだ。大学生のころだったと思う。宮田登・伊藤比呂美の「女のフォークロア」という本と出会った。なんて歴史は面白いんだろうと思えた。ほんの最近までのことでも、知らないことが多すぎる。時代は急激に変わっている。江戸時代はみんなちゃんと規則正しい生活をしていたんだろうか。朝食はとっていたんだろうか。お米を皆が食べていたんだろうか。そんなことだけでも調べてみると面白い。今常識と思っていることは、たかだか100年の歴史もないのかも知れない。今まで歴史は政治を中心に語られてきた。男中心の歴史像だ。それをもっと別の角度から見ていこうというのが、本書での2人の一貫した立場だ。宮田先生が亡くなられたのは知っていた。だからこそ、なぜ今先生の本が刊行されたのだろうとふと手に取ってみた。読み始めて、はまった。網野先生の本も読んでみたいと思いつつ、日本史に対する苦手意識から手が遠のいていた。一度しっかり読んでみなければと思う。本書は歴史音痴の私でも十分に楽しめました。へえ、そんなことがあるのか。ああ、そういうことだったのか。といったエピソードがいっぱいです。具体的内容を他人にお話しするほど私自身の頭の中でこなれていませんので、ぜひ各自お読み下さい。しかし、百姓というのは何も農民に限ったことではないというのは本書を読んで初めて知りました。こういうことはいろんなところで議論されているのかも知れませんが、門外漢の私はまったく気付きませんでした。世の中まだまだ知らないことがいっぱいあります。だから本を読むのは楽しい。この本を読んでからしばらくして、「もののけ姫」を観た。ビデオで5回くらい観たのだけど、観れば観るほどおもしろい。本書の始めに、2人がこの映画について語っている。その内容と照らし合わせてみるとさらにおもしろい。ついでに「千と千尋」も観たけれど、これももう少し知識があるとさらに楽しめそうだ。

  • 古本で購入。

    歴史学者・網野善彦と民俗学者・宮田登の対談集。
    1982~1998年の間に行われた7回の対談が収められています。

    第1部「歴史から何を学べばいいのか?」では、歴史を形づくってきた要素としてこれまで(程度の差こそあれ今も)軽視・無視されてきた、非農業民や女性、子供や老人について主に語られる。
    網野の著作を読めば必ず出てくるキーワードが多数出ており、「壊れたレコード」と揶揄されるのも頷けてしまうのも確か。

    しかし、個人的には思想面で網野は受け入れられないのだが、この人の著作は日本の歴史に興味のある人なら読むべきだと思う。
    農村とコメを中心とした自給自足的社会において、成人男性が政権を奪い合うことでつくってきた歴史という、ひどく教科書的な「日本史」像をぶち壊す研究成果はとても刺激的。
    実際の歴史が如何に重層構造を持っているか、如何に豊かであるかを実感できておもしろいのだ。
    書き換えられゆく日本像として、宮田が例に挙げた熨斗の問題ひとつを取ってもすごい。
    熨斗は古代の天皇に捧げた干し鮑をマークにしたものだが、今は当たり前に熨斗を印刷した袋に現金を入れてプレゼントする。むき出しだとダメだが熨斗付き袋なら贈答品になる。ではその習俗はいつからか?
    かつて海民が天皇に漁獲物を捧げていたが、つまりそれは稲作農民のみによりこの国の権力が支えられていたのではないということ。
    熨斗ひとつから海民の問題、そこから敷衍される天皇制の問題、さらには非農業民の世界を説明できる。熨斗のようなモノにも構造的な問題が内包されている…

    民俗学や考古学といった諸学の成果を取り入れた歴史学が、これからどんな日本史を描くか楽しみになる。

    ところで両氏とも今や鬼籍に入ってしまったが、先に亡くなった宮田登が網野より8歳も年下だったというのは初めて知った。
    64歳というのは今の時代“早すぎる”死だと思う。仮に2009年現在で存命だとしても73歳(網野なら81歳)。
    2人の泰斗の熱がこもった本でもある。

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著者プロフィール

1928年、山梨県生まれ。1950年、東京大学文学部史学科卒業。日本常民文化研究所研究員、東京都立北園高校教諭、名古屋大学助教授、神奈川大学短期大学部教授を経て、神奈川大学経済学部特任教授。専攻、日本中世史、日本海民史。2004年、死去。主な著書:『中世荘園の様相』(塙書房、1966)、『蒙古襲来』(小学館、1974)、『無縁・公界・楽』(平凡社、1978)、『中世東寺と東寺領荘園』(東京大学出版会、1978)、『日本中世の民衆像』(岩波新書、1980)、『東と西の語る日本の歴史』(そしえて、1982)、『日本中世の非農業民と天皇』(岩波書店、1984)、『中世再考』(日本エディタースクール出版部、1986)、『異形の王権』(平凡社、1986)、『日本論の視座』(小学館、1990)、『日本中世土地制度史の研究』(塙書房、1991)、『日本社会再考』(小学館、1994)、『中世の非人と遊女』(明石書店、1994)。

「2013年 『悪党と海賊 〈新装版〉』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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