国際正義とは何か―グローバル化とネーションとしての責任

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制作 : 富沢 克  伊藤 恭彦  長谷川 一年  施 光恒  竹島 博之 
  • 風行社 (2011年6月1日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (368ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784862580238

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国際正義とは何か―グローバル化とネーションとしての責任の感想・レビュー・書評

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  • 序章:バグダッドの自爆、ニジェールの飢餓、メリリャの国境紛争 p10

    【三つの一般的な指針】p28-29
    ①人間はつねに行為の受け手であり主体である。つまり、他人の助けなしに生存しえない貧しく傷つきやすい存在としての人間と、自らの生のために選択をなし責任を取ることのできる人間である。
    ②正義の要請を個人としての観点(個人倫理的アプローチ)、また国家を含めて大規模な人間的組織への参加者としての観点(制度的アプローチ)の双方から理解すること。
    ③国内的文脈と国際的文脈との大きな違いを考慮に入れ、それゆえたんに社会正義のよく知られた原理を拡大するのではない形で、グローバルな正義を理解すること。

    【政治的コスモポリタニズムと道徳的コスモポリタニズム】 p31
    道徳的コスモポリタニズム:人間はすべて同じ道徳法則に服する。すなわち、私たちは他者がどこに住んでいようが、彼らをこの法則に従って処遇しなければならないし、同様に彼らもこれと同じやり方で私たちを処遇しなければならない。
    Cf. シティズンシップの拡張
    政治的コスモポリタニズム:全員がこの法則を強制する権力をもつひとつの権威に最終的に服しているときにのみ、このような処遇が実現できると主張する。
    Cf. 国際法

    【コスモポリタニズムの強い形態と弱い形態】p35
    弱いコスモポリタニズムは、まず道徳的価値についての主張である。つまり、人々に起こりうるさまざまな良いことや悪いことは、その人々がどのような世界でどこに住んでいるかにかかわらず同じ方法で評価されるべきだと主張する。
    弱いコスモポリタニズムから、同国人に対する特別の義務を認め、それに従って行動することがコスモポリタン的目標に実際に役立つことが示される場合を除いて特別な義務を排除する強い形態のコスモポリタニズムへ進むことは可能なのだろうか。
    弱いコスモポリタニズムはどこにいる人間に対しても平等な道徳的関心を示すことを求めるのに対して、強いコスモポリタニズムはこれを越えて実質的な意味でどこにいる人間に対しても平等な処遇の提供を求めるものである。p51

    【ナショナリティは道徳的に見て恣意的な特徴か】p39
    人々がもつべき機会とは何かを考慮する場合には、ナショナリティは有意な特徴ではないと論ずることで、コスモポリタンは強い形態のコスモポリタニズムへと進む。そして機会の平等という原理がグローバルに適用されるべきだと主張する。
    弱いコスモポリタニズムはグローバルな正義に関して何を実際に含意しているのだろうか?

    【特別な義務の源泉としてのナショナリティ】p43
    同国人の間にある関係は本質的に価値のあるものだろうか?
    同国人はまず自らの集団がそれ自身価値があるものだと確信しているに違いない。そして、その後にナショナルな連帯がもたらす他の利益を獲得するために、この集団の維持に時間をかけて関与することになる。
    ジョン・スチュアート・ミル「何か望ましいものを生みだす可能性がある唯一の証拠は、人々が実際にそれを望んでいるということだ」p46
    Cf. 「分配的反論(the distributive objection)」p49

    【ナショナルな義務とグローバルな義務】p51
    人類全体に対してもつ一般的な義務に加え同国人に特別な義務をもつことを認めることと、弱いコスモポリタニズムは両立することができる。
    人権の保障は弱いコスモポリタニズムの倫理の中心である。
    [基本的権利を尊重する義務の4つの下位義務]p55
    ①私たち自身の行動ーたとえば罪のない人を殺したり傷つけたりする行動ーによって基本的権利を侵害してはならない消極的義務
    ②私たちが保護する責任を有している人々の基本的権利を保障する積極的義務。たとえば私たちが責任をもつ主体であることが確認された場合、自活できない人々に食糧を提供すること。
    ③第三者による権利侵害を防止する積極的義務。たとえば大量殺戮やそれより軽い人権への攻撃を防ぐために介入すること。
    ④他者が責任を担えない場合に人々の基本的権利を保障する積極的義務。たとえば自身の飢えに自ら責任をもっている人々や、第三者がその援助義務を果たせない人々に食糧を提供すること。

    グローバルな不均衡を示すデータ Cf. 国連・人間開発指数(HDI):出生時平均寿命、教育水準、購買力格差を調整した一人あたり国内総生産(GDP)という三つの基本的な基準を使って各国を順位づけたもの。p65

    【グローバルな不正義と平等主義】p65
    グローバルな平等主義は正しい理論ではない。
    構成員資格に基礎づけられた平等の原理は、分配的正義の重要な構成要素であるが、問題となっている集団または共同体の既存構成員にその射程が限定されるという明らかな制限がある。p69
    シティズンシップのナショナルな形態が、市民間に共通のナショナル・アイデンティティから生まれる文化的・政治的紐帯に依拠していることを前提にすれば、「コスモポリタン・シティズンシップ」をシティズンシップのナショナルな形態の拡張版として単純に提示することには説得力がない。p70
    [グローバルな正義の原理]
    天然資源の平等と機会の平等。

    【資源の平等とその問題点】p71
    トマス・ポッゲ「グローバル資源税」:採掘された天然資源に固定された税率で課税 p72
    ヒレル・スタイナー「グローバル基金(Global Fund)」:資源が豊かなネーションは土地保有の一人あたりの価値に従って課税され、資源の乏しいネーションは一人あたりの不足分の量に応じて基金から支払いを受ける。
    グローバルな正義が平等の原理によってもっともうまく理解でき、資源の平等がこれを実行する正しい方法であると確信したとしても、実際に資源の分配がどの時点で平等な分配であると見なすことができるのかを決定する方法はないのである。したがって、スタイナーのグローバル基金のような平等主義的な提案を実行する方法もないのである。p77

    【機会の平等とその問題点】p78
    グローバルな機会の平等はグローバルな正義の最善の解釈なのだろうか?
    機会のグローバルな平等を提唱することが、全員がエスペラント語を話す境界のない世界を描くことでないならば、この原理は等価の機会を要求するものであると解釈するほうが説得力がある。
    ex. 「ある国の銀行の最高経営責任者になる機会」というきめの粗い測定基準が、「スイス銀行の最高経営責任者になる機会」というきめの細かい測定基準よりも好ましい。p80
    不平等の言語道断な形態については確定できるかもしれないが、(機会の)平等が何を意味しているのかを特定することはできない。p83
    さまざまな社会が違った方法で善を構成し、さらに違った方法で善を順位づけている文化的に多元的な世界において、機会の平等が何を意味しているのかを語ることが本質的な問題なのである。p84

    【平等な出発点とネーションの自己決定】p84
    「アフルエンザ」と「プロクレアチア」、「エコロジア」と「コンドミニウム」

    【グローバルな平等主義の問題点】p91
    アメリカ合衆国が京都議定書に署名するのを拒否したこと
    ⇒実践における手続き的公正さは、協力が成功しても失敗しても、当事者がおおよそ同じ量の利得または損失を得ることを求めるが、当事者たちを無知のヴェールの背後におくことができない以上、巨大な不平等のせいでこの条件を満たすことは不可能になる。
    疑いもなく国際社会は、ロールズが物質的な不可能を相殺するものと見なしたある特徴、すなわち平等なシティズンシップを欠いている。つまり、地球上の市民たちが平等な者として相互に出会う共通の公共領域は存在しないのである。
    [要約]
    おそらくグローバルな正義は私たちの世界をまったく根本的な形で転換することを強く求めているのであろう。私がこれらの理論を拒絶するのは、私たちが本来同胞に負っている特別な責任を無視し、自己決定という価値を適切に説明できず、文化的な差異に十分に敏感でないからであって、言い換えれば政治的のみならず哲学的に欠陥を抱えているからである。

    【二つの責任概念】p101
    「結果責任(outcome responsibility)」:自らの行為と決断に対して負う責任
    「救済責任」(remedial responsibility)」:助けを必要としている人々の援助に向かわなければならない責任
    責任概念の双方において、責任の所在を確認することと責任を割り当てることとを区別することができることにも注意すべきである。
    「結果責任」と「道徳的責任」は区別されなければならない。
    責任とはもしそれが可能であれば規範的な理由から私たちが引き受けたいと思う何かである。
    グローバルなレベルで「救済責任」を負うべき主体となる仕組みが確立していない。
    [「かかわり理論」(connection theory)」]p121
    ・道徳的責任
    ・結果責任
    ・因果的責任
    ・利益の享受
    ・能力の問題
    ・共同社会
    多くの場合、結果責任と救済責任は絡み合っている。
    結果責任は救済責任を特定する上で重要な視点を提供してくれる。結果責任は行為者とともに出発しながら、彼らはその行為の結果に関してどの程度まで責任があると理性的に考えられるかを問う。
    救済責任は受け手ー剥奪されたり、苦しんでいる人々ーとともに出発し、彼らを助ける任務をだれが担うかを問う。p131

    【人間の条件と責任の概念】p131
    これらの種類の責任概念は人間の条件の対照的な側面を反映している。一方で、私たちは傷つきやすい存在であって、その生は他人が積極的に援助の手を差し伸べてくれ、資源を提供してくれなければ生きるに値しないかもしれない。こうした必要は助けることのできる者に対して正義の義務を課するが、こうした義務は元来捉えどころがないものなので、それらを特定し効果的なものにするためには救済責任という観念が必要になってくる。他方、人間は自らの行為を支配し、結果に責任を取ることのできる選択能力をもった主体である。このような主体が存在するためには、彼らは結果が直接自分たち自身もしくは他人に降りかかってこようとも、自らの損害をすすんで受け入れ、利益を享受する存在でなければならない。結果責任の観念はこのことを可能にしてくれる。

    【ネーションとしての責任】p136
    ネーションの責任はどこまで広がりをもつのだろうか?

    【集団的責任の二つのモデル】p139
    「同志集団モデル(the like-minded group model)」と「共同事業モデル(the cooperative practice model)」
    ネーションは同志集団および/ あるいは共同事業の特徴を示しているかぎりにおいて責任を負うべきである。
    同志集団モデル:さまざまな目的や見解を共有し、自分たちを同志として自覚している集団であり、それゆえ個々の構成員が活動する場合には、その集団の他の構成員から得られる援助をあてにして活動することができる。
    共同事業モデル:当該集団は共通のアイデンティティをもつことも目的を共有することも求められない。責任が発生するためには、事業に参加し、利益を共有するだけで十分である。
    →集団の他の構成員を消極的に援助しているか(同志集団の場合)、利益の分け前にあずかっている(共同事業の場合)p145
    同志集団に所属したり共同事業に参加したりしている人々は、彼らの行為の結果について集団的に責任を負うという主張は、そうした集団なり事業なりへの参加が自発的ないし同意にもとづくものであることを前提にするものではない。p149
    (普通、人は自発的にネーションを選択しない)

    【ネーションとしての責任とその限界】p149
    ネーションとはなにか?
    第一に、それは共通のアイデンティティを備えた集団であり、ネーションへの所属は各構成員のアイデンティティの一部をなす。
    第二に、彼らが共有しているもののひとつとして公共文化がある。
    第三に、ネーションはその構成員が相互に特別な義務を負っていることを認識している集団である。
    第四に、ネーションの存続はその構成員にとって価値あるものとして捉えられている。
    (第五に)、政治的に自己決定することへの熱望である。
    政治的共同体がより開かれて民主的であるほど、その構成員が行なっている決定や従っている政策について、彼らに責任を負わせるのは正当になる。
    [限界]
    ネーションが外部の支配もしくは専制的支配に服している場合、個々の構成員なり国家なりの行為を真にナショナルな行為と見なすことは困難であることが多い。したがって、そのような行為の責任をその人民全体にまで拡大することは不適切ということになる。さらに、文化的分裂が深刻である場合には、ひとつのネーションについて語ること自体が場違いであると判断されるかもしれない。このような場合を除いて、ネーションの行為が自分自身や他のネーションに何らかの負担を課す場合、その負担についての責任は、それに関わる決定や政策に反対した人々も含めて、すべての構成員が負うことになる。
    ネーションとしての責任という観念を受け入れただけでは、グローバルな正義は私たちに何を要求しているのかという問題を解決したことにはならない。

    【引き継がれた責任を負うネーション】p165
    リベラルな直感とコミュニタリアンの直感との衝突 p172
    「トンプソンの歴史的責任論とその批判」p174
    →トンプソンは、過去に起こったことだからという理由だけで現在の世代に責任があると主張するのではなく、過去に関して責任を負うことは現在において価値のあること(世代を横断した取り決めの実践、ネーション間の相互尊重の維持)を達成するためのひとつの方法であると述べている。
    真摯な謝罪には、同一化と非同一化の両方が求められる。すなわち、謝罪の対象となる不正行為を行った人々との同一化と、彼らがすでに受け入れていたはずの原理に照らして非難される行為との非同一化である。したがって、ネーションの謝罪の範囲は、現在の世代がナショナルな過去をどう理解するかによって定まるのであり、引き継がれたナショナルな資産のうち、過去の不正の影響によって生み出された割合はどれくらいかといった物質的な要因によって決まるのではない。p193

    【ナショナルな謝罪とマイノリティ】p193
    ネーションは構成員にコストと利益(意思決定に参加する機会も含む)を公平に分配する協働の実践として見なされるかぎり、たとえある特定に出来事について、下された意思決定やその結果生じた行動に賛成していなくても、個々の構成員は集団的責任を負うのである。この議論は過去に対するネーションとしての責任にも拡張することができるように思われる。マイノリティ集団の場合、争点となるのは、彼らの祖先が当該の歴史的不正にどれくらい責任を負っているかではなくて、彼らは現在、引き継がれた資本が提供するモノとサービスという形で、ナショナルな相続遺産をどれだけ共有し享受しているかという点である。
    ⇒ネーションとしての責任という一般的な観念を受け入れる用意のある者は、ナショナルな過去に対する責任という観念も受け入れるべきである。
    鍵となるのはナショナルな共同体に帰属することによってもたらされうる利益であり、まず有形の利益として引き継がれた領土と資本、また無形の利益としてはナショナルな過去への誇りが挙げられる。それらの利益を正当に享受できるようになるには、同時に、ナショナルな共同体の内外の人々を不正に取り扱ったことを含めて、ナショナルな過去のさまざまな側面に責任を負い、いかなる形であれ特定の状況によって要請された場合には補償を提供する責任を負っていることを受け入れなければならない。

    【グローバル・ミニマムとしての人権】p200
    世界の貧困者に対する私たちの責務とは何か?
    人権は政治的正当性の十分条件ではないとしても、その必要条件とはなりうるだろう。

    【人権の正当化に用いられてきた三つの基本的戦略】p205
    ①実践にもとづく戦略
    ②重なり合う合意の探求
    ③人間の共通の特質ー人間の基本的ニーズ(人道主義的戦略)
    人権は一種の根源的道徳であるーすなわち他の道徳的要求は弱い義務を課すか、あるいはいかなる義務を課さないかであるが、人権の保障は道徳的命令であるーと想定されるので、人権は人生の本質的特徴を参照することによって正当化されるべきである。p216
    「交差アプローチ(intersection approach)」:基本的ニーズは、社会的ニーズの全形態の交差として特定される。p220
    基本的ニーズの一覧は、食物や水、衣服や安全な場所、身体的安全、医療、教育、労働と余暇、移動や良心や表現の自由などを含むであろう(これに尽きるわけではないが)。p221
    基本的ニーズの観念は、一般的な社会的実践を批判するためにも、また人権や国際的義務を基礎づけるためにも用いることのできる非常に重要な概念である。

    【人権の実践可能性】p221
    ジェームズ・グリフィン「(人権の存在は)当該権利が他者に対する効率的かつ社会的に対処可能な要求であることに、一定程度、依拠するに違いない」p222
    ニーズが権利を基礎づける前提として、提起されている権利が他者に対して他者自身の権利を必然的に侵害するような義務を課すことはないという点を確認しなければならない。p225
    [総括]p231
    人権とは全人類に共通の基本的ニーズという観念を通じてもっともよく理解され正当化される。
    人権は、人間の生活における道徳的緊急性の局面を表現しなければならないだけでなく、ある種の実現可能性の条件にも合致しなければならないのである。

    【人道主義的戦略の非党派性】p234
    人権の正当化は普遍的適用可能性を備えていなければならず、個人的な宗教的信念や文化的価値にかかわらず、万人が合理的に受け入れる理由に訴えかけるものでなくてはならない。

    【移住とグローバルな正義】p245
    根本的な問題は、基本的人権は、国境を越えて自分の選択した領域で暮らす権利を含むのであろうかということである。
    貧困国から豊かな国への移住の従来のパターンをみてみると、移動している者とは、移動する資源をすでに手にし、移動先の社会で必要とされる技能を備えている者がほとんどであることがわかる。

    【移住の権利は基本的人権か】p248
    何かを選ぶ際に多くの選択肢が人々にあることにはつねにいくぶんかの価値はある。だが移住することは人権であると示そうとするのであれば、権利の問題として人々が保持すべき基本的自由と、その種の保護を保障しないただの自由とでも呼ぶべきものとの間の線引きをしなければならない。
    移動の自由には、他国に移住し定住する権利まで含まれなければならないことを、どのようにして示すことができるだろうか。
    [結論]p257
    移住希望者の人権(移動の自由であれ、結合の自由であれ、離脱の自由であれ)を基礎として移住の無条件の権利を正当化することはできない。
    国家は、管轄する領土への立ち入りをだれに認め、だれに認めないのかを決定できる領土権をどのように打ち立てることができるだろうか。

    【領土権の正当化】p258
    経済活動は、ある場所の全員が契約や雇用などに関する同一の基礎に服することにもとづいて展開される。同時に国家自体も、輸送体制の構築、空間の利用計画の策定、自然環境の保護などの一連の活動に従事できるよになるが、これらは権威に対する地理的境界が明確に規定されてはじめて可能になる。
    ⇒国家の権威には、領土から追放する権利も含まれていなければならない。なぜなら、領域的権威の体系は、だれがその範囲に含まれるかを管理できなければ円滑に機能しえないからである。Cf. 主権

    【移民制限の論拠】p266

    【難民と経済的移民の処遇】p269
    [結論]p274
    緊急の状況に置かれているわけではない移住希望者の入国を拒否する場合、移住希望者には入国拒否の公正な理由が伝えられなければならない。
    自分が暮らしたいと思う国に入国するという移民の利益と、自国の構成や特徴を形づくる力を維持するというナショナルな共同体の利益との間の均衡が保たれるべきである。

    【規範的問題としてのグローバルな貧困】p280
    グローバルな正義というものが何を意味するにせよ、それは(資源、機会、福祉などの)グローバルな平等を意味しないのであり、したがってさまざまな社会の間に存在する不平等が完全に平均化されるようにグローバルな秩序を改変する必要はない。
    グローバルな貧困についていえば、私たちが取り組むべき大きな問題とは、世界の貧困者に対する救済責任はどの程度まで彼らの現在の窮状に対する結果責任に付随するのかというものである。
    このレバーを引けば災害を避けられると教えることと、そのレバーを引くのは他ならぬあなたの仕事なのだと教えることは、まったく別の事柄に属する。

    【シンガーの責任論】p283
    池で溺れている子ども
    優先順位や責任の分配の問題がつねに重大になってくるが、シンガーの例ではどちらの問題も抜け落ちている。
    彼らは自分たちの活動の結果に責任をとることのできる行為主体であると同時に、他人の援助なしには人間らしい生活を送ることができないかもしれない弱く貧しい生物なのである。池に落ちた子供というシンガーのたとえ話は、第二の観点のみを採用し、第一の観点を無視するように促すものである。

    【ポッゲの責任論】p288
    彼は富裕国の市民とその政府に二つの将来的な責任があると主張したいのであり、ひとつは国際秩序を見直して、今度こそ現行秩序の弊害を引き起こさないようにする責任、もうひとつは世界の貧困者がこれまで被ってきた損失について賠償する責任である。
    「弁明的ナショナリズム(explanatory nationalism)」 :さまざまな社会における貧富の差は各社会内の制度および政策によって十分に説明できるという見方。p294
    ネーションとしての責任の帰属については慎重に、各社会の状況に十分配慮したうえで判断する必要があるが、貧しい社会に暮らす人々を集団的責任から全面的に排除する理由はない。

    【グローバルな貧困に対する救済責任】p296
    (貧困国でも)GDPの大部分を軍事費や大統領宮殿やスイスの銀行口座に流用することによって貧困を再生産している体制を支持または黙認している人々がいる。
    [富裕国の市民が世界の貧困者に対して救済責任を負うかもしれない三つのケース]
    ①過去の不正行為によってその犠牲者を慢性的な貧困状態に放置した結果として生じるかもしれない。
    ②公正な国際協力関係を築けなかったことから生じたのかもしれない。
    ③富裕国と貧困国の過去の交流がどうであれ、貧困というまぎれもない事実から生じるのかもしれない。
    トマス・ネーゲル「私たちが援助できる人々の窮状が相対的な水準ではなく絶対的な水準に達している場合、人道主義的な義務が生じる。これと対照的に、正義は、さまざまな階級の人々が置かれている境遇の関係や、彼らの間の不平等の原因に関わるものである」Nagel 'Problem of Global Justice' pp119 p306

    【分析の精緻化のために】p310

    【結論】p318
    本書の目的は、強い意味でコスモポリタン的ではないようなグローバルな正義の考え方を見出すことにあった。
    人々は、内部の人と外部の人の間に境界線を引き、境界線の内側にいる人々には特別な忠誠心を抱き、同胞と共有していると思われる特別な文化的特徴に高い価値を与える。
    そして自らの運命を自分たちで支配することを望み、たとえ善意であれ外部の者が干渉しようとするれば、これに激しく反発する。
    政治参加は主にナショナルな次元で生じ、人々にとってもっとも重要なのは、ナショナルな次元の選挙や投票、ナショナルな指導者たちの栄枯盛衰、ナショナルな報道機関における議論などであって、他国や国際機関で起こっている出来事についてはぼんやりとしか認識していないだろう。
    人々は、他のネーションとは異なった存在であることを望んでおり、言語、文化的伝統、制度、歴史的に重要な場所など、他のネーションとの相違を体現する自分たちの特徴に特別な愛着を感じるのである。
    (そもそも)「強いコスモポリタニズム」:特定のネーションへの所属なるものは恣意的な特徴にすぎず、個人の生の可能性とは何の関係もないと単純に想定するか、もしくはそのような議論を試みる立場 p321
    ネーションとしての責任という観念は、グローバルな正義への障害というよりも、むしろ触媒なのである。
    <正義をめぐるズレ>
    「保護する責任」「人道的介入」⇒ソマリア「希望回復作戦」、犠牲者すぐに撤退
    人道的介入は、ネーションとしての責任とグローバルな正義がはらむ問題をもっともはっきりとした形で露呈させる。
    憲法が自国軍の行動に制限を設けていることを根拠にして、ネーションが軍事行動を免除されるのは正当なことなのか。
    正義をめぐるズレとは、貧しい国の人々が正義の問題として正当に要求しうることと、豊かな国の市民が正義の問題としてそうした要求を満たすために捧げなければならない犠牲との間にあるズレである。
    私は、グローバルな正義の見通しについてはある種の現実主義を結論としたい。現実主義は悲観主義ではない。
    私たちのもっとも重要な責任は、現在貧困にあえいでいる社会が貧困から抜け出す発展への道を自分で選択できるような国際秩序を創造することである。
    トマス・ネーゲル、トマス・ホッブズの精神に則って、「世界政府なきグローバルな正義という観念はキメラである」前掲書pp.115
    (意味)⇒正義の義務は、人民の名の下に行動し、人民に規則の遵守を強いる同一の主権権力に服する人民の間でのみ通用するものだから。したがって、グローバルな正義という観念が適用されるのは、グローバルな主権が生じる場合だけであろう。そうなるまでは、世界の貧しい人々に対する私たちの義務は、本質的に人道的なものとして理解するのが望ましい。
    (ロールズによれば)国民国家とは「相互利益のための協働事業」である。

    【訳者あとがき】p355
    [ミラーの思想のエッセンス]
    ①ナショナリズムは前近代から近代の移行期にはじめて出現するが、にもかかわらずそれは巨大で、匿名的で、高度に流動化した「政治共同体」の一形態である。それは共有されるアイデンティティを創造し、人々に自分が独自の性格と文化をもつ世代を超えた共同体の一員であることを認識させる。
    ②しかしながら、ナショナル・アイデンティティは「原初」からインプットされたものではない。それは人々の自己理解のなかで発展し、新しい環境に適合していく。とくに構成員基準は変わりうるし、たとえば人種的あるいはエスニックな基準で理解される必要はない。
    ③ナショナリティは人格的アイデンティティの重要な一要素ではあるが、排他的である必要はないし、あるべきではない。あるネーションに所属することは、地域コミュニティ、宗教、文化集団、政治結社といった多くの下位ナショナルな集団の一員であることを排除することにはならないし、むしろそれによって補完される。
    ④ネーションに所属することによって人は同胞に義務を負うことになるが、このことは普遍主義的な性格をもつ外部の人々への義務を負うことと矛盾しない(人権の問題)。言い換えれば、ナショナリティが要請することは同胞への理性的な肩入れであって、盲目的な道徳的偏狭さではない。
    ⑤すべてのネーションは自己決定権をもつので、いかなるネーションも自決の名のもとに同様の権利を他のネーションに認めないような政策を進める権利をもたない。
    ⑥政治的自己決定が重要なのは、一般的に文化は政治的支持なしに開花・発展することが難しいためである。しかしその場合、あくまでも自決権の「道具的」理由に重点を置くべきである。これがデモクラシーと社会正義の基礎である。
    Cf. 『ナショナリティについて』
    [ミラーの人間観]
    彼は人間の両義性をその政治理論の基礎においている。
    人間は「卑小で傷つきやすい」受け身の存在であると同時に、「選択する主体」として能動的な存在であり、そのどちらの視点を欠いても公正な判断をなしえない。
    [国内的文脈と国際的文脈]
    社会正義(それは基礎的な政治制度とそれにもとづく政策によって実現される)は境界線によって区切られたネーションでのみ可能なのであり、そのような条件は少なくとも現在のところ国際政治の場では存在しない。
    (ミラーのイメージ)「差異からなる世界のための正義」
    「ナショナルーコスモポリタン論争」

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