リーダーシップとニューサイエンス

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制作 : 東出顕子 
  • 英治出版 (2009年2月24日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784862760524

リーダーシップとニューサイエンスの感想・レビュー・書評

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  • 読了

  • どう情報を活用すれば、もっと知的になれるか。

    創造性

    大切なのは、多くの情報をインプットすることではない。
    様々な物の見方を知り、できる限り身につける。そして、自分なりの表現を磨くことだ。

    アインシュタインの伝記とか、名言集を読みたい。
    ゲーテももっと読みたい。

  • 量子力学や複雑系科学などの自然科学での知識を人間の組織にあてはめてながら、新しい組織、リーダーシップのあり方を提唱する。90年代に書かれた名著の待望の翻訳。

    自分も常日頃、この2つの領域の本を読んでいるうちに、だんだん一つの物に考えが収束してくる気がしている。でも、それは世界観というか、比喩というレベルであって、正面から、自然科学の方法論を適用できるのかなー、と思いつつ、読んでみる。

    まずはパラパラと眺めていると、結構、自然科学系の説明が多そうだな、これと組織論をどうくっつけるんだと不安になるが、読んでみると、基本的には組織の話である。量子力学とか、自己組織化、カオス理論はやっぱり比喩を超えるものではないかな。

    具体的な組織開発の方法論を期待してもほとんど役にたたない本である。

    つまり、要素還元主義にとことん洗脳された思考を全体にむけて開こう、だって、がちがちの自然科学の世界だって、もう要素還元主義は終わっていて、新しいパラダイムに移っているんですよ。いつまでも、こういう古いパラダイムにしがみついているんですか?

    という本なのだ。

    ということは、すでに分かっている人にとっては、それほど新しい発見はないかな。

    一方、量子力学とか複雑系についてあまり読んだ事が無い人がこれを読んで、「なるほど」と思うかというと、説明がそれほど分かりやすいわけではない。

    着眼点は良いと思うし、内容的には共感するのだが、ちょっとポジショニングが明確じゃない気がした。

  • 2016年9冊目。

  • 水野ゼミの課題図書『リーダーシップとニューサイエンス』(マーガレット・J・ウィートリー著)を読了。

    この本で一番衝撃的だったのは、次の一節である。

    「空間は宇宙の基本的な構成要素であり、ほかのどの構成要素よりも多い。原子というミクロなレベルでさえも、私たちは中身が詰まっていて、押し固めたようなものを想像してしまうが、実はほとんどが空間なのだ。原子の内部では、原子以下の粒子どうしはとてつもなく離れていて、原子は99.99%が空っぽといえるほどだ。自分の体をはじめ、私たちが触れるものはすべて、この空っぽの原子でできている。中身の詰まった身体からは想像がつかないが、私たちは意外とすかすかなのだ。」(p78)

    これは以前、目に見えている青い空も白い雲も木々の葉もすべてが脳の中で構成されたものだと知った時の衝撃に勝るとも劣らないものだった。そのうえ、常日頃から自分のことを「なんと中身の無い、スカスカな奴なんだろう…」と思い悩んで落ち込むことの多いわたしにとって、ずいぶん慰められる喜ばしい文章だった。

    「なぁ~んだ。結構みんなすかすかなのかもしれない。」

    しかも、こういった考えはひ弱なわたしの空想や想像力だけの産物ではなく最先端の現代物理学による実験結果に基づいた科学的な知見なのである。これはまたなんと心強いことか…



    アインシュタインの有名な相対性理論では、E=mc2(イーイコールメムシージジョウ)で、単純な素人考えではエネルギーが質量と光速の二乗に等しいということになり、量子力学でも物質は原子より小さい極小の世界ではエネルギーであることがわかっているらしい。エネルギーである素粒子が集まって、原子、その原子が集まって分子、その分子が集まって細胞…それらがわたしの身体を作っている。

    原子は空っぽ、その空っぽが集まって分子になってもほとんど空っぽ、ほとんど空っぽの分子で出来てる細胞だってだいたい空っぽ…ということになれば、たとえ60兆も集まったとしても人間の身体はかなりにスカスカな感じがする。しかも残り0.01%の素粒子と呼ばれるものもなんだかよくわからないエネルギーだったりするのだから、わたしの身体は目に見えないなにかの超高速な流れだけなのかもしれないではないか?

    こんな見方をしてみるとまるで自分が違って見えてくる。わたしは確定した形を持つ何か実質のある確固とした存在なんかではないのだ。しかも、愉快なことにそれが自然なことで、まったくそれでいいのではないかと思えてくる。わたしは刻々と流れ変化する曖昧であやふやなエネルギーの集りなのだ。

    宮沢賢治も『春と修羅』の序文に次のように書いている。

    「わたくしといふ現象は
    假定された有機交流電燈の
    ひとつの青い照明です
    (あらゆる透明な幽霊の複合体)
    風景やみんなといっしょに
    せはしくせはしく明滅しながら
    いかにもたしかにともりつづける
    因果交流電燈の
    ひとつの青い照明です」

    幽霊といわれるとちょっとおどろおどろしい感じもするが、視覚的にはとらえられない何かだと考えればそう怖い感じもしない。青い照明が比喩するものは私たちを構成するエネルギーの集合体だとわたしには思われる。しかも、宮沢賢治も言ってるように、私一人だけでこの世に存在しているのではない。みんなといっしょだ。マーガレットさんのこの本によればこの宇宙はすべてのものが関係しあって生成されている。

    この300年の間、人類は17世紀に考えだされたニュートンによる絶対空間、絶対時間の支配する冷たく孤独な宇宙観に責め立てられて生きてきたのかもしれない。そこでは個人個人が孤独で、バラバラで、それぞれがしっかりして自分自身を外部から、他者から防衛しビクビクしながら恐怖をねじ伏せて生きなければならなかったのではなかろうか。

    「私はちゃんとしている。」「私は正しい!」

    そう思い込もうとすればするほど、周りとは疎遠になり隔絶されますます孤立し、さらに「私はちゃんとしている。」「私は正しい!」を声高に叫ばなくてはならなくなるのではないか?

    それに対して、新しい物理学の教える世界観はもっと柔らかく生命に優しい温かなものだ。いやもしかするともっと賑やかでちょっと騒々しすぎることもあるかも知れない。それはあやふやで不確定なものだが可能性に満ちたものである。生物というのは本来、現状に依存するもので超保守的であるとは思うが、もし今ある(存在する)ことがつらく哀しい時には変化が起きる可能性があることこそが、これとない救いであるように思う。変わらないものは何もなく、どう変わるかは確定できず不安は残るが、やはり変化は希望である。

    そして、あらゆる変化は目に見えないものによって起きているようだ。

    自然が粒子の性質と波動の性質という二面性を持ち一面的には記述できないという基本原理を「相補性の原理」というそうだ。光が粒子の性質と波の性質を併せ持つことはよく知られている。身体が60兆の細胞で構成されていて、粒子が結合し身の詰まったもののように思えてもその細胞を構成する分子、その分子を構成する原子の99.99%が空間のスカスカなものであり、エネルギーの流れだということに焦点を当てて、おのが心を虚しくしてこの現象を観照すれば、この身体が様々な振動数を持った波動の集まりであるとも観えてくる。

    ふと、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの『アンチ・オイディプス』の中で引用されていた『チャタレイ夫人の恋人』で有名な作家ロレンスの文章を思い出した。

    「ひとりの女性は、何かの形象を形成するものではない。ひとりの明確な一定の人物なのではない……。ひとりの女性は、空気の奇妙な快い振動なのである。この振動は、無意識で気づかれることもなく、この振動に応答する振動を求めて前進するのだ。でなければ、かの女は、不調和で耳に耐え難い痛ましい振動なのだ。この振動は、自分の射程にある一切のひとびとを傷つけながら前進することになるのだ。こうした事態は、男性においても同様である。」

    ここでは男も女も人間が波であるという一面から見据えられている。引用中の「傷つけながら…」はちょっと物騒な気もするが、あらゆる変化や再生になんらかの破壊はつきもので「新しい自分に生まれ変わるに痛みはつきものなんだよ。みんな同じさ。」と励まし勇気づける言葉として受け取りたい。
     


    そして、もう一つ。この本を読んで得したなと思ったのは、「情報」についてちょっとだけ視界が開けたような気がしたことである。

    養老孟司さんが『脳+心+遺伝子 vs サムシンググレート』の中で、今までの科学は物質とエネルギーを扱っていたのだけれど、これからは科学の対象に「情報」も含めるべきであろうと言われていたのがきっかけで「情報」って一体何なんだろう?とずっと気にかかっていたのである。それに最近FacebookやTwitterから流れてくる情報の多さに何だか辟易していて、その量を絞ろうか、いや、いっそ断ってしまおうかなどと考えていたのである。

    著者のマーガレットさんは次のように書いている。

    「……情報は「もの」ではまったくない。私たちの思い込みのように限定された数量化できるものではなく、電子メールにして送るわけにはいかないものだ。進化と秩序の新しい理論では、情報はダイナミックに変化していく要素であり、理論の中心を占めている。情報がなければ、生命体は新しいものを生み出すことができない。情報は、新しい秩序が生まれるのに絶対に欠かせないものだ。
     あらゆる生命体は、自己を形にまとめるのに情報を利用している。生物は安定した構造ではなく、情報を統合していく連続的なプロセスだ。人が自分のイメージをつきつめて考えるとき、尋ねることではっきりさせていくことがこの端的な例だ。自分は何者か。自分は情報を処理する物理的な構造物か、それとも自己を物質的な形にまとめあげる非物質的な情報か、と。」(p140)

    例えばわたしがウェブでAmazonを検索して「あぁ~この本あそこにないかなぁ~?」と思って、そういうこともありそうな古書店に出掛けてみる。果たして運良く目当ての本を発見したりする。そういう勘は割に常日頃から磨いている。その上もしかしたらと思いながらも、まさかという人にお目にかかったりする。また、Facebookから馴染みの劇団の公演情報が流れてくる。仲間と楽しく観劇して話が弾み過ぎてなんとか終電に間に合うものの、そこでなんともつらく厳しい現実に出くわしてしまうこともある。

    読みたい本を読んで得したと思い、観たい劇を見て感動してさらにかすかな予感はあったものの未だ確定していなかった様々なことがはっきりしたり、形になって現れてくるのも情報によってわたしが動かされたからである。情報は目に見えない。活字やディスプレイはインクや電子のような物質であるが、情報の本質はそれらの「もの」ではない。そこに表された「なにか」である。わたしが受け取る目には見えない「なにか」である。

    この「なにか」が仕事が休みで家でゴロっとしててもいいわたしの意思を動かし、電車に乗ってまで出掛けさせるのだ。そしてわたしは悲喜こもごもの様々な体験をして変化してゆく。わたしは情報に操られているのだろうか?多分違う。わたしは情報によって日々新しいわたしになり続けているのだと思う。

    しかも、ある種の情報は遠く離れていても伝わるらしい。物理学者のジョン・ベルが数学的に証明した「即時的遠隔作用」には、アラン・アスペによって物理学的実験によっても証明された電子のスピンという例がある。いったん対になった電子は理論上宇宙の何処に存在していてもその二つが即時に反応する。もちろんこれは素粒子レベルに限定された時空を超える関係なんだけど、人間だってもとは素粒子からできているんだからきっと時空を超えてその関係は存続し、電子のスピンのように単純ではなく物凄く複雑かもしれないがきっと影響し合うはずである。


    大規模な自然災害やどこで起こるかもわからないテロ、経済的な問題、社会的な矛盾によって大きな不幸に見舞われる可能性も、それとは正反対にまったく新しい世界への可能性もどちらも同じくらい豊富なカオスの時代に住んでいる私たちには、著者も切実に願うように自由に情報を交換しあえる仲間が必要なのである。それも職場や家庭といった既存の古い世界観に侵食された関係ではない、新しい世界観を持ちあえるもっとインフォーマルな関係の仲間が…

    「私たちはいま、お互いをこれまでとは違う意味で必要としている。自分の境界の中に隠れたり、独りでも生きていけるという信念にしがみついたりしている場合ではない。考えを試す。学んだことを共有する。新しい視点で世界を見る。体験に耳を傾ける。すべてお互いが必要だ。失敗したら許し、他者の夢を自分に託し、自分の希望を失ったら他者の希望を差し出す。やはりお互いが必要なのだ。」(p277)



    しかし、水野先生…毎回凄いタイミングで優良な課題図書を与えてくれるな…
    ありがたい。


    Mahalo

  •  バッハの時代、現代に見られるような役割の指揮者の存在はなかたという。せーの!で息を合わせる音頭取り、もしくは作曲家が顔見せで壇上に立つ意味程度の存在だった。一人のカリスマ性を持つ指揮者がオケ全てを統率し頂上の指示に従い楽員が一糸乱れぬ演奏を見せる。こんな近代型指揮系統システムはマーラーあたりから始まったといわれる。新しいリーダーシップの説明を聞いて思いだしたのがこんなことだった。
    (続きはブログで)http://syousanokioku.at.webry.info/200904/article_12.html

  • 人が合理的判断に基づいて企業行動を決めているという考えは、現実に合わないことを誰でも知っているのに、ロジカルに戦略を立てて、結局本人が苦しんでいる。計画に縛られると、状況の変化はマイナス要因となってしまう。

    論理的思考を否定するわけではない。有効である。ただしそれは局部的に有効なのである。ある一定の条件で、という暗黙の前提が、論理的に話を展開する上では、欠かすことができない。
    しかし、環境の変化が激しく、情報も多量なのが現実。前提そのものが変わってしまうことは頻繁に起こる。そして判断も総合的になり、ある日突然ちゃぶ台返しで苦労が水の泡になる。
    では、何を持って総合的というのか。予測していないことまで考慮して、あらゆる事象を検討し尽くすなんて、そもそも無理ではないのか。

    そこでこの本の登場だ。
    AならB、という合理的世界をニュートン的世界呼ぶ。企業組織は今でも大半がニュートン的世界観によって構築されている。だが科学はそれを遙かに超え、不確定性の時代になっている。線形から非線形と言い換えても良い。

    組織は生命体であり、変化しながら存続するものだ。企業は個人と違って永続性があると仮定されているが、事実は環境と相互に交換しあうダイナミックなプロセスであり、一過性の現象である。多様な人、モノ、金、環境条件が、相互に作用し、新しい価値が創造されていくプロセスなのだ。付加価値は生命が誕生するのと同じ、自己組織化によって生み出されていく。
    そこには予測も設計もなく、即興で作られるただ一度の体験がある。そう考えれば、状況の変化は創造の源となり、予測し得ない出来事は、歓迎すべき訪問者となる。

    この世はカオスであり、現象は複雑系である。組織は生命体であり、全体性を持つシステムである。
    有機的な組織、柔軟で、境界線さえ不明な組織。そうした関係性のあり方になじんでいくことが、これからの世界を生きていくための、欠かせない資質になっていくことだろう。

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