日本人の誰もが知っておきたい 日本が2度勝っていた「大東亜・太平洋戦争」 あの時もエリート官僚が《この国の行方》を誤らせた! (Knock‐the‐Knowing)

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  • ヒカルランド
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  • Amazon.co.jp ・本 (295ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784864712392

作品紹介・あらすじ

戦後史観では、そもそも勝てるわけがない戦争を仕掛けた日本は愚かということになっている。しかし、本当はそうではない。実際、勝てる作戦があったし、それを実行するチャンスもあった。大日本帝国を支配した凡庸で無責任なエリート軍人・官僚が、それをしなかった。1941年と1942年の戦いさえミスらなければ、戦争に勝っていた。勝てる戦争で、なぜ負けたのか?まったく新しい視点の日本軍敗北の研究。

感想・レビュー・書評

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  • お偉いさんが合理的判断を常にできるわけでもないし、
    民衆が常に結果的に正しい世論を出せるわけでもない。

    人はいつまでたっても歴史に学べないのだろうなあ。

  • 今まで何度も「こうすれば勝てた!」と銘打ったタイトルを本屋で見かけていましたが、いつも敬遠していました。ところが、敗戦から70年経過して、今までには語られなかった視点があるのでは、と思い、この本を手に取りました。

    タイトルが示す通り、日本には2回、勝利にもっていけるチャンスがあったようです。失敗から目を背けるのではなく、失敗の原因を追究して理解しておくことで、将来に活かす、という姿勢は、ビジネスマンである私にも大いに参考になる考え方だと思いました。

    以下は気になったポイントです。

    ・日本の軍組織の最大の問題点は、「統帥権の独立」を保障されていたこと。統帥権は天皇が持っているので、天皇の命令以外では軍隊を動かせない。天皇は実際に命令を下せないので、実際には天皇の意向を推察して動くことになる(p25)

    ・侵略戦争を共同謀議によって遂行して、「平和に対する罪」を犯した「A級戦犯」(絞首刑)は、6人しか選べなかった。共同謀議は最長2年という軽罪だったので、「通例の戦争犯罪」を加えたうえで刑を確定させた(p27)

    ・マレー半島の攻略に成功し、シンガポールを落とした名将山下は、その後第一方面司令官の閑職(参謀本部の辻の罪をかぶった)に追いやられて、1944年に第14方面司令官としてフィリピンに戻ってきて、絞首刑になった(p36)

    ・マッカーサーが悟ったように、日本の主敵は、中国・ソ連以外にはありえなかった。アメリカではなかった(p39)

    ・日本が本当に戦っていたのは、中国の傀儡政権ではなく(中国国民党軍の張学良軍)、中国利権を守りたい英国、蒋介石とその妻にたぶらかされたルーズベルトのアメリカであった。英米が国民党軍を援助する補給路を断ってしまえば勝てたはず(p41、45)

    ・1938年11月3日に出された、東亜新秩序の建設、にある東亜とは、大日本帝国・満州国・中華民国、である。(p52)

    ・明治期に確立された官僚システムが極限まで行きついて、学業エリートしか上に行けない構造ができあがっていた(p60)

    ・海軍では、一度地位につけば、「軍令承行令」が指揮権の継承序列を定めて、抜擢・降格を禁止していた。天皇から任じられた地位や役職は、他者により罷免されることも引責辞任する必要もない「親補職制度」もあった(p62)

    ・東条英機は、学業尊重主義のかたまりで、成績優秀者のみを周りに集めた。軍人として優れていた、山下泰文・今村均・石原莞爾は、徹底して嫌われた(p64)

    ・アメリカのエリートが日本と違う点は、リーダーシップとは何かをいう教育を徹底して受けていること(p70)

    ・日本軍の失敗の本質は、近代的な階層型組織を取り入れていたが、そこに集団主義(情緒的思考など)が織り交ざるという、日本型ハイブリッド組織だったとされる。この組織は、いまなお、日本のあらゆる組織で生き残っている(p72)

    ・薩英戦争と下関戦争の二つの事件後、薩長両藩は方針転換して、欧米列強の支配を受け入れ、その保護の下に新国家の建設を目指すことになった(p84)

    ・1899年、領事裁判権が解消された、そして1902年に日英同盟を結び、日本を初めて国家として認めた(p85)

    ・当時、アジアには日本以外に国家はなかった、あったのは、欧米列強の半植民地国家か植民地のみ(p88)

    ・国家たりえるためには、国内統治権・対外主権が必要だが、サンフランシスコ条約で国内統治権は認められたが、対外主権は「自治権」のような形で認められている。連邦政府に対して州が持つイメージ(p92)

    ・英国が日本を対ロシアの防波堤としたように、戦後のアメリカが日本をソ連の防波堤とした。今も同様の状況(p96)

    ・第二次世界大戦の大きな間違いは、英米がナチスを叩きたいために、ソ連を連合国にひきこんだこと。米英の主敵はロシアであった(p96)

    ・欧米列強は、1942年1月になって、仕方なく共同租界の返還、治外法権の撤廃を認めた。1971年、国連において、「中華人民共和国の中国における代表権を認め、中華民国政府を追放する」というアルバニア案が可決された。1972年2月に、米中共同声明が発表されて、中国は国家となった(p102)

    ・独ソ戦開始後、ヒトラーは日本に対して、再三再四、極東ソ連軍への攻撃を要請してきたが、ドイツを援護してソ連を叩くことを先送りした。これは真珠湾攻撃と同レベルの最悪の選択である(p107、109)
    ・ドイツがポーランドに侵攻してことで、同盟関係にあった英仏がドイツに宣戦布告して、全欧州を巻き込む世界戦となった(p114)

    ・三国同盟にヒトラーが求めたのは、英国とソ連を叩くための日本の協力であった。まずは英国を滅ぼし、さらにソ連を滅ぼすことを目指していた。日本がアジアの英国領を攻撃することで、英本土への英国領・英連邦からの援助が断たれるのを望んでいた(p121)

    ・アメリカの武器貸与法により、戦争中に501億ドル(現在価値で70兆円)が連合国側に供給された、イギリス314、ソ連113、フランス32、中国16億ドル(p125)

    ・英国が自力でドイツに勝利したのは、本土航空防衛戦のみ、あとは武器貸与法により、大量の武器がアメリカから流れ込んだこと、ドイツが矛先をソ連に転じたこと、日本の真珠湾攻撃によりアメリカが参戦したこと、にある(p126)

    ・第二次世界大戦で死んだ兵士、市民は、敵味方双方により殺された。独ソ戦の犠牲者数は、ソ連兵1128万人、ドイツ兵500万人、市民の犠牲者を入れると、ソ連は2000-3000万人が死亡したとされる(p130)

    ・大本営陸軍部と関東軍は、1941年8月9日に、年内における対ソ開戦を断念し、戦争に勝つチャンスを逃した(p139)

    ・経済力、工業力、資源、人口を考慮して総合評価すると、日本=5に対して、アメリカは30程度になる。さらに最大貿易相手国がアメリカだったことを考えると、アメリカは喧嘩を売る相手ではない(p142)

    ・冬将軍以上にモスクワを守ったのは、極東から到着したシベリア軍団の精鋭だろう。11月7日に到着した軍団は首都防衛に加わった。日本がシベリア軍団を極東に釘づけにしていれば、モスクワは陥落しただろう。12月5日、ヒトラーはついにモスクワ攻略を断念、その3日後に日本は真珠湾攻撃をした(p145、149)

    ・二回目のチャンスは、1942年のドイツによるブラウ作戦開始のときにもあった(p154)

    ・昭和16年夏の敗戦、という本では、1942年夏の時点で、日本はアメリカに勝てない、というシミュレーション結果が出ていた(p178)

    ・戦略の失敗は、戦術・戦闘でこれを取り戻すことはできない、と言われる(p181)

    ・太平洋での戦いを捨てて、連合艦隊の主戦場を、太平洋からインド洋に切り替えれば、同盟国ドイツの戦いは圧倒的に有利となった。英国もソ連も滅びていた可能性が高く、戦局は決定的に枢軸国側に有利になっただろう(p185)

    ・1942年6月には、再反撃の「ブラウ作戦」をドイツは開始していた。ロンメル将軍が英8軍と戦っていた。日本海軍がソ連への補給路を断つという形でインド洋で展開すれば良かった(p185)

    ・1942年半ばには、インド洋にて、連合軍による3つの重要な海上輸送ルート(イギリス、ソ連、蒋介石軍の支援のため)が走っていた。地中海の制海権は枢軸側に握られていたので、大西洋からインド洋に行くしかなかった。(p187、191)

    ・ソ連がアメリカから入手した飛行機、約1万5千機というのは、第二次世界大戦中に日本海軍が失ったゼロ戦全機に相当する(p191)

    ・初期侵攻作戦は、東南アジアから米英蘭の勢力を駆逐し、大東亜に新秩序を建設とする目的は達成されつつあった。インドシナ半島、ビルマ、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピンを手に入れ、石油はスマトラ島のパレンバン油田を手に入れた。主役は陸軍であった(p197)

    ・次の段階としては、戦略的に効果的なのは、インド洋で独伊と提携して英国を屈服させる「西亜作戦」しかないが、対米開戦により、西と東の二正面作戦に出てしまった。西にはアジアであり、中国と英国とソ連、東にはアメリカがいる(p197)

    ・珊瑚海海戦(42年5月)で禍根を残したのは、海軍が大勝利と誇大報告したこと。以後、日本は負けても「勝った」という大本営発表を繰り返した。(p203)

    ・帝国海軍は、敵の輸送船を攻撃しないばかりか、味方の輸送船も守らない不思議な海軍であり、そのため日本のシーレーンはずたずたになった。敵艦と交戦して勝つことばかり追い求めた(p208、213)

    ・ミッドウェー海戦で主力空母4隻を失った第一航空艦隊は、第三艦隊として再編成していた。当時としては、まだ世界最強の規模を持つ機動部隊であった(p221)

    ・ガダルカナル攻防戦は、太平洋戦争中に日本が犯したもっとも愚かな戦闘である。連合艦隊がガダルカナルに関わっていた間に、インド洋経由で武器弾薬を補給された英モンゴメリー軍は、ロンメル軍を破った(p222)

    ・1943年1月31日、ドイツ6軍と枢軸国軍23万人のうち、生き残りの9万人が降伏、大量の軍需物質がソ連軍に落ちると、ドイツ軍は壊滅状態となり、2月2日、ソ連はスターリングラード攻防戦の勝利を宣言した(p228)

    ・戦力は根拠地と距離の二乗に反比例する、持久戦争では、攻勢終末点が最初から確立されていなければならない、・本土周辺および、サイパン・テニアン・グアムの南洋諸島をすべて難攻不落の要塞化し、外交では支那事変の解決に努力する、特にサイパン防衛には万全を期し、断固確保することでアメリカ軍の侵入は防げる、とは石原莞爾の言葉(p241、242)

    ・帝国海軍は、海防艦以上の艦艇を673隻保有していた、潜水艦は190隻(29%)もあった。アメリカの潜水艦構成比は2%、それが日本の商船の91%を沈めた(p249)

    ・チャーチルの指摘により、トルーマン米大統領は、ギリシアとトルコの共産主義化を阻止するために、両国に4億ドルの援助を要請(トルーマンドクトリン)した。(p276)

    ・第二次世界大戦の本当の勝者は、ソ連と中国共産党、であろう。(p278)

    2016年1月31日作成

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著者プロフィール

1952年、神奈川県横浜市に生まれる。立教大学文学部を卒業後、光文社に入社。「光文社ペーパーバックス」を創刊し、編集長を務めた後、2010年からフリーランスになり、国際政治・経済・ビジネスの分野で取材・執筆活動を展開中。
著書には『出版大崩壊』『資産フライト』(以上、文春新書)、『本当は怖いソーシャルメディア』(小学館新書)、『「中国の夢」は100年たっても実現しない』(PHP研究所)、『円安亡国』(文春新書)、『地方創生の罠』(イースト新書)、『永久属国論』(さくら舎)、翻訳書に『ロシアン・ゴッドファーザー』(リム出版)などがある。

「2018年 『東京「近未来」年表』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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