絶望論―革命的になることについて

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著者 : 廣瀬純
  • 月曜社 (2013年5月1日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784865030006

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絶望論―革命的になることについての感想・レビュー・書評

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  • 第一章 「ドゥルーズ、革命的になること」

    市田良彦がドゥルーズはスピノザ哲学では革命が不可能であることに気づき(『スピノザと表現の問題』)、その不可能性から逃れるために『意味の論理学』を書いたと主張していることを受けて、著者は、ドゥルーズの哲学における革命の可能性は、そこにあるものではなく、「革命的になること」によって得られるものだと述べている。
    その不可能性としての「クリシェ」を現実に対して裏張りすることで現実を二重化するというドゥルーズの「二重化」の技法に焦点を当てている。

  •  廣瀬純の『絶望論──革命的になることについて』(月曜社)を数ヶ月にわたって読み続け、最近ようやく読み終わった。読了に長くかかったからといって、この本に退屈したわけでも、難渋したわけでもない。決して取っつきのいい本ではないが、むしろ読み手をあらぬ興奮へと煽動しさえする。
     ではなぜ、何ヶ月もかかったかというと、どうでもいい私事で恐縮なのだが、私はどうしても一冊の本を頭から最後まできちんと読破することに集中して、読み終えたら次の本を、ということのできない質である。「浮気読み」と自身では名づけているのだが、同時に何冊もの本を併行して読み進め、読み終えた本が一冊出ると、まだ他に途中の本がたくさん手元にあるのに、別の本を一冊二冊と読み始めたくなるのである。鈴木清順も同じような癖の持ち主であることを語ったことがあったが、案外こんな人は多いのではないか。
     そうした渋滞的な「浮気読み」のなかで、本書は最後まで本妻に収まることなく、みごとに妖艶なる二号さん三号さんを勤め上げてくれた。なぜ本妻でないかというと、この本が単に面白いからである。私と廣瀬純は、かつて存在したカイエ・デュ・シネマ・ジャポンという映画雑誌の編集委員を共に務めていた間柄であり、前にもどこかで書いたが、高校も大学も新宿区内の同じ学校の出身で、だから、彼の資質については多少は知っているつもりである。
     私に言わせれば、彼は「はじめにオモシロさありき」の人間なのだ。彼はまずとにかくオモシロいことを人前で披露してやろうとムキになる。そうして、彼の中のオモシロ虫みたいなものが発動して、それに乗じて論理がついてくる、という順番なのである。まず、突然変異を露呈させておいて、後付けでその進化論が補強されていく。この順番が思想家としての彼の原動力だと私は考え続けてきた。
     したがって、「このクソだらけの世界で創造的に生きるために」と帯にも惹句がしたためられた本書が、マルクス、ゴダール、ドゥルーズ=グァタリをネタに、「デモの無力さ」「革命の不可能性」といったネガティヴなタームをまず屹立させて、そこから「革命的になること」を照射して見せているのは、逆説でもニヒリズムでもない。「デモの無力さ」「革命の不可能性」を彼はまず愉しみ(または絶望し)、そこを起点にメタモルフォーズを、革命的に「なること」を実践的に解き明かしていくのだ。この順番は彼にとって勝手知ったる戦法なのである。
     言うまでもないが、わが同時多発的読書にあって、彼の新著『アントニオ・ネグリ 革命の哲学』(青土社)は『絶望論』を読了したから読み始められるのではない。とっくにそれは始まっているのであり、それは深いディゾルブ、オーバーラップと共にある──『映画史』のゴダールがその技法の名手であることを念頭に置きながら。

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絶望論―革命的になることについての作品紹介

なぜ"絶望"しなければならないのか?"革命的になる"とは、どういうことなのか?ドゥルーズとゴダールを読解を通じて問う、いまこの世界に必要なこと。

絶望論―革命的になることについてはこんな本です

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