沈黙する教室 1956年東ドイツ—自由のために国境を越えた高校生たちの真実の物語
- アルファベータブックス (2019年5月21日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (420ページ)
- / ISBN・EAN: 9784865980646
作品紹介・あらすじ
映画『僕たちは希望という名の列車に乗った』原作! 2019年5月全国ロードショー!
監督:ラース・クラウメ『アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男』
5/17(金)全国ロードショー!!
配給:クロックワークス/アルバトロス・フィルム
東西冷戦下の東ドイツのある高校の一クラス全員が反革命分子と見なされ退学処分に! 行き場も、将来の進学も、未来をも見失った若者たちは、自由の国、西ドイツを目指して国境を越える……。
映画化されたノンフィクション作品の翻訳!!
1956年秋、東ドイツの小さな町シュトルコーの高校でその“事件”は起こった。「西側のラジオがハンガリー動乱の犠牲者にむけた黙祷を呼びかけてるぞ!」級友の言葉に応えたクラスの全員が授業中に5 分間の沈黙を敢行。ソ連支配下の社会主義国家・東ドイツにおいて、それは“国家への叛逆”と見なされる行為だった。彼らの連帯はのちに学校と両親を巻き込み、次の“叛逆行為”を引き起こす!
感想・レビュー・書評
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映画化もされている。(『僕たちは希望という名の列車に乗った』(2018)まだ観ていないけど汗)彼らの行動が問題になるまでの前日譚が長くて集中力が続かん自分には取っ付きにくかった。その中にあちらの戦後史も含まれていたから単純に予習も必要だったのかも笑
あとは実話とはいえ、軽い人物紹介を巻頭にでもまとめておいてほしかった…
(今の感覚だけど)黙祷ひとつで国民教育省大臣を教室に召喚するとか普通にやり過ぎ。しかも親の職業や立場にまで偏見をぶっ込むあたり本当にトップの人間かと疑いたくなる。(個人情報まで利用しようと企むところも)
あと歴史に明るくなくても大臣に限らず名前の前に「同志」を付ける等あちこちソビエトに感化されているのが感じ取れる…東西の内情など知りもしなかったから色々衝撃。
生徒達の大半は生活に困窮していないけど我々から見て、何か得体の知れないものを内に秘めているように見えた。明記はされていなかったけど日頃から無意識に西側を求めていたのか。
「自由に、望むように生きなさい。ただし人間でいなさい」
全員退学処分になったのには仰天したし家族の動揺を想像すると暴挙としか思えなかったけど、それが自由へと一直線に結びついてくれたのが一番の救い。(それに東西の壁ができる前の話だからかすんなり逃亡出来ている)
形式は回想録だけど、記事や政府側の報告書もまじえているから何というか、サラサラとは読みにくい。著者が当事者だからかどうしても淡々と終わってしまうのか?
ここまでくどくど書いたけど、大事な青春時代の節目に故郷を捨てて新しい土地で再スタートを切った者や結局離れなかった生徒の行く末が心配だった。壁が出来ていたらもっと面倒なことになっていたのかな。
大まかな流れが分かった反面、脳内で映像化できなかった分があるけどそこは映画で補えば良いか。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
日本は誰もが“西側”だと思っているが、終戦後にもしかしたらソ連の勢力によって一部が社会主義化していたかもしれないと考えれば、この話は「遠い国の話」とも言えなくなる。
さらに、政治家による不当な圧力という点を考えれば、半世紀以上前の東ドイツで実際にあったエピソードと、今の日本の高校生が遭遇した次のエピソードに重なるようにも思え、現代日本の私たちにとっても“当事者性”を多く含むとも考えられる。
>2019年9月、大学入学共通テストで導入されようとしていた英語民間試験について、ツイッターで高校3年生(18歳)だと名乗る投稿者が、学校での昼食中に「いまの政権の問題はたくさん話しました」などと書いたツイートに、柴山昌彦文部科学大臣が「こうした行為は適切でしょうか?」とリツイートした。
日本でのツイッターの件は批判も擁護も入り乱れていたので一通り自分なりに目を通したが、私はどちらが正当でどちらが間違っているかの議論とするのは論のすり替えであり、この問題は、いみじくもこの本のタイトルに当てられた「沈黙」を、大臣が高校生に結果的に課すような形になっていると見える点にあると考えている。
そう、つまり西側と東側のどちらが正しかったのかという議論は(特に今となっては)時機を逸していて不要と私は思う。
それよりもこの本で読み取るべきなのは、「沈黙」の強制に対して、私たちはいかに主張し抵抗し、自己実現すべきかについてである。
この本の著者は1956年の黙祷の実際の当事者であった(当時の東ドイツの)高校3年生だが、「沈黙」の強制に対して彼ら彼女らがどのように考えどのように行動したかを読み解くという視点に立てば、日本と異なる政治的背景や遠い国での社会的事情といった難しい要素に惑わされず、今の日本の私たちに共通する問題がこの本には含まれるとして読み進めることができると信じる。
現代日本に住む私たちがいろいろな場面で数々の「沈黙」を強いられているというのは議論を待たないと思うので、自分たちの胸に手を置きながら、当時のドイツの高校生がどう考えてどう行動したかの記述に対し、私たちに押しつけられた「沈黙」を突き破るための考察として当たってほしい。
最後にこの本のP415に出てくる、男子クラスメイトの1人だった者の後日談が示唆に富むと思うのであげておく。
「団体じゃなかったよ、俺たちは。チームでもなかった。俺たちは俺たちだったな。
それで、あそこで、あいつらは話してるよな。あのシュトルコーの生徒たちが何をやったんだよって。
ああ、たしかに、俺たちがやったことは何だったんだろうな。
でもな、あいつらがやらなかったことなんだぜ。」 -
1956年。ベルリンは東西に分かれて統治されていたが、そこにまだ壁はなかったが、紛れもなく冷戦時代に入っていた時代の実話。
10月、ハンガリーでソ連統治に反抗する国民が蜂起した。ソ連は軍隊を投入し、鎮圧した。このことは東ドイツでは報道されなかったが、東側に向けた西ドイツのラジオ放送では(ある意味プロパガンダではあったが)そのことも放送されていた。
当時の東ドイツでは、壁こそなかったが、その放送を聞くことさえ反革命的行為であり、罪だった。しかし、東ベルリンに近い小さな街に住む高校生たちは、その放送を聞いて西側の世界を知ろうとしていた。
そして、ラジオ放送がハンガリー動乱で有名なハンガリーのサッカー選手が亡くなった(誤報だった)と聞いた時、クラス全員で授業を5分間だけボイコットし、黙祷を捧げた。
それは高校生の罪のない、ある意味若気の至りとも言える行動だった。
しかし、この出来事が中央に報告されると、どんどんエスカレートし、ついには教育省の大臣が直接来て、反革命的行為をした生徒を詰問し、黙祷の首謀者を明かさなければ全員退学とすると宣言した。
行き場をなくした生徒たちは、クラス全員で西側へ逃亡することを決意する。大切な親や兄弟、恋人を残して、、、。 -
冷戦初期については触れる機会もあまりないので、興味深く読めた。
「高校生たちの「黙祷」を周辺状況とつなぎ合わせ、権力者たちが妄想たくましく新しい物語を創作していった様」(訳者あとがきより)は、社会主義国家の愚かしい頑迷さと捉えたくもあるけど、現代でも、日本でも、決して珍しいものではないんだよなあ。
訳者あとがきにある、
『「歴史」と「物語」の両方の意味を持つ示唆に富んだドイツ語の単語die geschichteです。(中略)事実は一つだとしてもその解釈は十人十色です。(中略)人の口を通して歴史が語られるとき、歴史はその人が解釈した新たな物語となるのです」
という言葉が象徴的だと思う。
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あまり整理がつかないまま収集した東ドイツ時代の資料を長々と寄せ集めているので、400頁を超える厚みにかかわらず重複するところが多くて、凝縮されたものではない。加えて前半はやや訳文がこなれていないところが感じられて読みにくさもある。ただ、後半になると、多少日本語もこなれてきて読みやすくなる。ただ、校正が足りておらず、誤字がいくつかあるのが残念。
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1956年の東ドイツで、ハンガリー暴動のための黙祷が問題となって西ドイツへ亡命した高校生のノンフィクション。
史実について当事者の書いた本は、必ずしも読みやすくはない。その人が熟練した書き手とは限らないし、物語としてヤマやオチが整理されているとも限らない。また時代背景等を知らないと理解できないことも多い。著者が、著者自身にとっては自明な基礎知識をどのくらい説明してくれているかで読みやすさが変わってくる。
本書の場合、いろいろ工夫された形跡がある。著者自身である「わたし」と「ディートリッヒ」が別々に出てくるのには当初混乱したが、三人称で自分を扱っている部分は、なるべく客観的な記述を試みたのだろう。一方で、アーカイブに残された書類の引用によって、当事者自身には見えない、裏での動きを明らかにしている。
ただ自分の場合、それにしても東ドイツという地域についての基礎知識が無さすぎて、ついていけないところがあった。
騒動のきっかけになった黙祷とは、クラス全員が5分間口を利かないというだけのことだ。そもそも生徒が話さないのが普通な日本の教室では成立しにくいし、黙祷という静かな行動が問題視されることも違和感がある。高校生たちの行動は確かに反抗なのだが、直後の会話等を見るとそこまで深い考えで行われたことではない。日ごろ教師に仕掛けていたいたずらの延長線上ともいえる。
それが各種報告書では体制に反抗する大事件として扱われ、担当大臣がわざわざ乗り出しての退学処分に繋がるばかりか、国から目をつけられたという恐怖まで引き起こす。奇妙だ。
ただ行動は小さくとも、その背景に、体制への反抗心がくすぶっていたことも分かる。第2章で触れられるロシア人への矛盾した感情や、生徒たちの家庭の事情にまで分けいると、ファシズムの残骸とソ連体制の奇妙な関係が見えてくる。その一つ上の世代としての教師にも、不満を抱く者もいれば、共産主義になったからこそ教育を受けられたという理由で体制を支持する者もいる。
思想的な閉塞感の一方で、西への脱出が割合簡単にできることも不思議だ。
もちろん当事者は肝を冷やしながら西へ向かっているのだが、西側に親戚がいて日頃やりとりもあり、交通機関も普通に通っている。高校生の小さな行動が大問題になるような空気と、この日常が普通に並立していたことも、自分には奇妙に思える。
そういう「奇妙なこと」が実際に起きた、ということ自体が、その時代の東ドイツという社会を表すのだろう。 -
映画が良かったので買ったが難しすぎた舐めてた