- Amazon.co.jp ・本 (291ページ)
- / ISBN・EAN: 9784872335378
作品紹介・あらすじ
死の直前のカスタネダが自らの手で一冊に凝縮した、呪術師ドン・ファンの教えの心髄。「ドン・ファンの教え」から「沈黙の力」まで、"もうひとつの知の体系"の核心がここに。公開された呪術の奥義。
感想・レビュー・書評
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装丁に惹かれて読んでいます。
強い力のある詩だと思って、その日に開いたページをゆっくり読んでいます。
ドンファンシリーズも、読んでみたくなりました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
文化人類学を勉強なさっている方にもおすすめです!
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きっと一回読んだだけじゃつかめてないのかもしれない。
表紙につられてよかった。内容も深い!! -
ぱっとひらいたところにかいてあることを
肝に銘ずるようにしてるので、
自分には実用的です。 -
孤独に克つための教本。 とはいえ、日常生活では、人の絆と温もりが必要とされるので、いちど読んで吸収して、己の奥に潜んでる、揺るがない芯の強さに変換させましょう。
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・あまりに自己に執着しすぎると、ひどい疲れがくる。そのような状況にある人間は、他のすべてのものにたいして、ツンボでメクラになってしまう。疲れそれ自体が、当人に、その人間を取り囲む驚異を見ることを、止めさせてしまうのだ。
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佐々木俊尚さんと伊藤亜紗さんの対談イベントに参加した際に、でてきた名前。
この本の装丁に惹かれジャケ買い。
著者が以前に執筆した本の中を抜粋されたということらしい。
少しページを開いて、「なんだか読み終わりたくないわ」と出来心。
そう思って以来、思いついたときに繰り返すのは
"1ページ開く⇨音読⇨意味を考える⇨本を閉じる"
おかげで1年近く本棚にあるのに、いまだ読み終えません。
著者はペルー出身らしい。スペイン語・ケチュア語・アイマラ語どれを話してたんだろうか。
UCLA卒業ということは、アメリカに移民してきた?英語必須のはず。
シャーマンはメキシコだからスペイン語かぁ。ということはスペイン語から英語に訳し、そこからさらに日本語や他の言語に翻訳されてて爆発的に売れたのか。
とまぁのんびりノロノロ...。
彼の作品が、フィクションなのかノンフィクションなのか、真相は知り得ないですが、息吹は続いているようです。古代メキシコのシャーマンの「魔法の峠」の現代版として説明した「テンセグリティ」を促進する組織であるクリアグリーンの公式サイト(英語)
https://www.castaneda.com/
あと余談ですがシャーマンについて調べてみたら面白すぎた。
実在するかは不明です。
こちらから抜粋 https://english.cheerup.jp/article/5064?page=1
■ペルー
「アヤワスカ」というアマゾンで採れる植物を煮出した飲料を飲んでシャーマニズムの儀式を行っている。アヤワスカには幻覚作用があって飲むと脳内で鮮やかなイメージがわきあがる
■メキシコ
「マジックマッシュルーム」を使って儀式を行う。幻覚作用を利用して病気の原因を見つけたり、クライアントに食べさせて肉体と精神を切り離した本当の自分を感じてもらう
■モンゴル
儀式では、太鼓を叩くのと同時に詩を唄ってトランス状態に入り、先祖と交信して体のどこに不調が起こっているのかを教えてもらったり、これからの生き方の方向性がわかるようなメッセージをもらえるんだ。先祖を呼び寄せるため、牛乳などの乳製品をお供えするのが特徴
■インドネシア
シャーマンは「バリアン」と呼ばれる
バリアンの役目は相手に呪いをかけるブラックマジックと、断食やマッサージを通して呪いから解放されるホワイトマジック
■グリーンランド
病気などの不運が起こるのは動物霊をはじめとする霊を怒らせたからだとイヌイットたちに信じられている。「アンガコック」と呼ばれるシャーマンがドラムを鳴らして霊と交信し、悩みを解決させる -
【由来】
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【期待したもの】
・須藤さんが喜びそう。
※「それは何か」を意識する、つまり、とりあえずの速読用か、テーマに関連していて、何を掴みたいのか、などを明確にする習慣を身につける訓練。
【要約】
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【ノート】
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【目次】
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シリーズ新装版の記念に再読。翻訳者の北山さんもおっしゃってることだが、この本からは声が聞こえる。その声に呼びかけられたと感じたなら、ドンファンが本当にいたかどうか、ということは、もはや重要ではないのではないか。
この本が虚実の混ざったものであればこそ、いわゆる近代の学問の方法論を逆なでするようにこれを著した青年カスタネダの気概が伝わってくる。
砂漠の声を聞いてしまった人のようだ。 -
「戦士は信じるのではない。戦士は、信じなくてはならないのだ」ー 136ページ
信じるということについて考えてみる。
いわゆる「信者」という言葉は、理解不能なものの別称(蔑称)であることが多い。「なぜそのようなものを信じるのか理解できない」「頭がおかしい」「合理的思考能力に欠けているのではないか」……こういった言葉は「信者」を見たときにすぐに思うことだろう。
そういった感覚はまともであるし、別に悪いとも思わない。別に「信者」と呼ばれている存在を擁護する気もない。ただ、「信じている」という言葉が指している状況にはもっと注意深くなってみても面白いと思う。つまりそれが「信じなければならない」状況にあるのか、あるいは「もはや信じる/信じないということすら論点にならず、それが習慣になり当然の行いになっている」のか。
そしてそのような視点に目を移したとき、自分自身も他者から見た時に「信者」になっているということは往々にしてあるわけである。「信じる」というのはあくまで二人称の言葉であって、自分自身を二人称で見ることの困難さ(あるいは自分のことを無視して他人を指摘する厚かましさ)がここに内包されているように思う。 -
未読
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第1作〜第8作までの、カスタネダによる自著の抜粋+簡単なコメント。
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「真実はいつも一つ」と名探偵コナンの前にドン・ファンが言っている。