コンクリート・アイランド

  • 太田出版
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感想 : 7
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  • Amazon.co.jp ・本 (261ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784872337723

作品紹介・あらすじ

閉ざされた三角地帯から男は脱出できるのか?あの『クラッシュ』と三部作をなす、幻の邦訳がついによみがえる!山形浩生による、17000字に及ぶ解説「J.G.バラード:欲望の磁場」を収録。

感想・レビュー・書評

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  • 原著は1973年。
    1970年代に発表された長編《テクノロジー三部作》の
    一つだが、他二作『クラッシュ』『ハイ‐ライズ』とは
    手触りの異なる奇妙な小説。
    作者自身の交通事故の体験が反映されているという。

    建築家ロバート・メイトランド(35歳)は
    ロンドン中心部のウェストウェイ・インターチェンジ
    高速出口車線を運転していて制限速度をオーバー。
    愛車ジャガーの左前輪が破裂し、彼は車もろとも吹っ飛ばされ、
    防護壁を突き抜けて築堤の裾に転落した。
    そこは雑草まみれの、あたかも川の中州のような、
    道路網の中の三角形の小島に似た場所だった。
    ケガの痛みに苦悶しながら
    脱出のために試行錯誤するロバートだったが――。

    SFというよりは異常事態の中での出会いと別れを描いた
    不条理幻想文学の趣き。
    時代からして携帯電話がなかったのは致し方ないが、
    ロバートの車に
    自動車電話(英国では1959年に手動交換式のサービスが開始された由)
    があれば、すぐに救援を求めることが出来、
    大事に至らないはずだった……という
    “テクノロジー”の問題に即、気が回ってしまって、
    素直に物語を愉しめなかった。
    電話はあったが事故の衝撃で故障して使えなかった
    というエクスキューズがあれば説得力が増したかも。

    問題は、家族・仕事の関係者・愛人らが、
    こぞってロバートの不在を怪しみ、
    心配して警察に捜索願を出せば、
    短時日で解決したかもしれない事件であるにもかかわらず、
    何故か誰も思い切ったアクションを起こした形跡がなく、
    事態が放置されたこと。
    彼自身も「自分がいなくても皆の日常が回っている証拠だ」と
    諦めに似た感懐を抱く。
    そこで連想したのが(こちらの方が後発だが)
    一人の人間が不本意ながら
    世の中の動きから取り零され、名前を失った誰でもない者に
    変容していく、ポール・オースターの初期作品
    『シティ・オブ・グラス[ガラスの街]』(1985年)。
    社会から切り離されて
    孤絶するかもしれない恐怖に囚われた経験のある読者だけが
    真にこの作品の怖さを理解できるのかもしれない。

    ところで、本文冒頭で
    「1973年4月22日の午後3時少し過ぎ」と、
    事件発生日時を明示しているが、
    主人公が仕事を早く切り上げ、
    学校が引けた一人息子を迎えに行くというのだけれども、
    1973年4月22日は日曜日ではないか。
    彼は第8章で「4月24日……土曜日だ!」と
    心の中で叫んでいるので、22日は木曜だった計算。
    作者の誤認か、いや、
    承知でわざとズラしたのではないかと勘繰りたくなる。
    だとすれば、
    これは最初から「そんなことあるワケないやん」と
    鼻歌でも歌いながら書かれたファンタジーだったのだろうか……。

  • 縲弱ヰ繝シ繝翫?繝牙ャ「譖ー縺上??3縲上h繧翫?

  •  事故を起こした男が高速道路に囲まれた「島」からの脱出を目指す。SF作家の小説だが内容はSFではなく舞台は現代。70年代に発表された小説。
     どこか暗喩的な男の境遇は安部公房の「砂の女」を彷彿とさせる。ただ、それに比べて哲学的な味が薄い。著者の言いたいことは分かるのだが、ストーリーとうまく溶け込んでいないので説得力に欠ける。また、文章から情景が想像しにくい。訳文のせいかもしれないが、文学的に書こうとして空回っているし(例えば比喩表現)、工学系のよく分からない用語が突如出てくる(SF作家の癖なのだろうか)。それにストーリーの前半部分が冗長すぎる。むしろ、他の二人に遭遇してからの後半部分をもっと詳しく読んでみたかった。そうでないなら、同じ設定で短編にしたら面白いと思う。
     本文より30Pくらいある解説(ニューウェーブSFなどについて)の方が興味深かった。

  • 無人島漂流記@都市みたいな?

  • 立体交差高速道路の巡間に落ちた男の話。周りをコンクリートの断崖で阻まれた文明の隙間とも思われる一地帯。謎の浮浪者。思い出すのは妻の浮気の事ばかり。J.G.バラードの長編で初めて読みとおせた作品。高架線のフェンスで囲まれた草茫々な一区画を見る度に嫌な気分になる

  • 「バラード=SF作家」という知識は、今は無き共通一次試験(今はセンター試験とかいうんだっけ)の、過去問(うわ、こんな単語、まだ頭の中にあったことが驚き!)のように、血も肉も通わない知識として、長いこと自分の雑学的記憶棚の一角にあった。前にも書いたことがあるけれど、自分は中学・高校を過ごした70年代に、SFには余りのめり込まなかった方なので、今の今までバラードは終ぞ読んだことがなかった。多分、イタロ・カルヴィーノや、J・ティプトリー・ジュニアなんかをこの一年の間に買ったからだと思うけれど、そのインターネットの本屋が「おすすめ」といって紹介してたのが、復刊したこの「コンクリート・アイランド」だった。

    この本には、山形浩生による長い解説がついている。実は、この本を読み終わった後で「?」という気分になっていた自分を救ってくれたのがこの解説だ。だって、こっちはSFだと思って読み始めてるんだからさあ、これがバラードの「テクノロジー3部作」の一つで、普通の小説の枠組みの中で書かれた、非線形小説(なんのことだ!)だなんて、知らなかったんだからしょうがない。しかし普通の小説だったお陰で、バラードの面白さを、それ程SF好きじゃなかった自分も少し理解できた気がする。

    この「コンクリート・アイランド」が書かれたのは70年代のことで、バラードのこの作品をお話しとして成り立たせるためには、そのことを前提として読まなければならない。何故なら、21世紀を迎えた今となっては、いかに「テクノロジー3部作」の一作だとしても、技術革命の後で革命前の最新技術を見るような状況があるからだ。そして、一番顕著な違いというのが、実に「通信技術」あるいは「情報技術」であることには、改めて、やっぱりね、と思うわけだ。

    1973年4月22日午後3時、ある建築家は彼のジャガーでロンドン市内の高速道路のインターチェンジを走っている。車は、スピードを出し過ぎていたせいで道から飛び出し、高速道路に囲まれた空き地、「島」、へ着陸してしまう。大けがを負ったものの、命を取り留めた男は、なんとかこの島からの脱出を試みるのだが、高速道路を疾走する車が何台いようとも一向に彼は救われる気配がない。

    そんな風にしてこの物語は始まる。高速道路、そして、運転する人間の顔が見えない車たち、といったものが、さしずめ「テクノロジー」の象徴になっている訳で、男の手元に残った唯一のテクノロジーの象徴であったジャガーは大破し、男の脱出の手段は、限りなくアナログなもの、つまり自分の肉体と少しばかりの道具という、いってみれば非テクノロジー的象徴として、対比されている、と読める。しかし、これが、2004年の、4月22日午後3時だったらどうなる? 例え、その隔絶されたような「島」空間は2004年でも存在することにしても、その島に男が取り残されたまま放って置かれることになるかね。まず、すぐ思いつくのは「携帯電話」で助けを呼べばいいじゃないか、ってことだろう。

    それに、男が会社に出社しないでいても誰も不思議に思わないなんていう状況は作り出せるだろうか。仮に、直接顔を合わせることが滅多にない職場だとしても、男が「メール」に返事をよこさない状況が続けば、何やってんだよ、と思う人が出てくるんじゃないかな。もっとも、1973年でも、男が会社に出て来なくても誰も不審がらないのは十分違和感があるけれども。逆にこの点は今の方が、実態としての存在には無関心な時代なのかも知れない。

    折角の長期休暇なのに、今では自宅でもメールを読まなきゃいけないし、リゾートのホテルにだってパソコンさえ持参すれば、ほとんど会社にいるのと変わらない位の情報が押し寄せて来る。それが現代の状況だ。でもバラードがこの本を書いている時点で、人はそういう情報機器にまだ余り縛りつけられていなかったんだ、ということが解る。もっともその時代だって、男をぽっかり消滅させるのは簡単じゃない筈で、この小説の設定は結構、あり得なさそうで現実に存在してしまうかも知れない、という気させる微妙な状況にしつらえてある。もちろん、その微妙さが、小説としてはミソだと思う。

    この時代、どんどん人間が個人というものを失ってしまう社会になっていきそうな予感があったんだろうなあ。その不安感が「コンクリート・アイランド」という、周りから隔絶された空間に一人の男を押し込んでしまう小説を生んだのだとも思う。悲しいことに、その予感はあたってしまって、個人はもっと希薄になったし、会話から、顔が消え、音声が消え、手書きの文字も消え、デジタルな情報だけになりつつあるのが今の時代だ。その時代の差は、結構、この本を読む上では意識させられる。もっとも、今の時代設定でバラードがこの作品を書いたとしても、きっと、うまいこと隔絶された空間をつくりだすんだろうとも思うけど。

    じゃあ、普通の小説の枠組で、SF作家であったバラードの書いたものは何かというと、結局、人間の内面の世界なんだな、これが。だからこそ、実は、この小説は今の時代に読んでも訴えてくるものがある。訴えて来るものがあればこそ、この本が、小説のある形態である「非線形小説」というものを、バラードがまずSFの枠組みで試みた後、普通の小説でも試したものとして位置づけられている「テクノロジー3部作」なんだと言われても、違和感がある。因みに、山本浩生の説明では、非線形小説とは「ストーリーもなく、いろんなモチーフだけをひたすら並べた小説だ。小説のエッセンスだけを煮詰めた小説だから濃縮小説、一つのストーリーラインに沿ってないから、非線形小説というわけだ。」ということになるらしい。

    確かに、そういうモチーフの羅列のような部分もある。本の半ばまでの男の悪戦苦闘のシーンなんか、ある意味で各々のシーンの関連性は薄い。そして、後半にある別なモチーフは、前半に何か伏線があるかというと、ないこともないけれど、単独で急に登場する印象も強い。でも、個人的にはこの本は、かなり「湿度」の高い「お話」であると思うのだ。なんとなく、無機的なものに取り込まれまいとする意志が見え隠れするのだ。それ故、この本を、高校生のような若い時期ではなく、人生のこの地点で読むことができて、幸せだったかな、と思ったりもしたのだった。

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