植民地主義の暴力―「ことばの檻」から

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著者 : 徐京植
制作 : 徐 京植 
  • 高文研 (2010年4月1日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (316ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784874984413

植民地主義の暴力―「ことばの檻」からの感想・レビュー・書評

  • 私が図書館にリクエストする本はマイナーなのか、単に図書館にオカネがないだけか、この頃ヨソの図書館からまわってくる相貸率がえらい高い。どんなかたちにしろ読めるのはありがたいことだけれど、古い古い本はともかく、今年出た本さえもやたら相貸なので、「いま読みたい本でもこんなことでは、いま読みたい人がいない本はどうなるんやろか」と心配になる。将来に向けた蔵書構成とかなんとか、考えてるヒマがないのか、考えてみてもオカネがないのか。山のように予約リクエストのつく本を複数冊そろえて、せっせと貸すほうが、「これだけ貸しました」という数はぐんぐんカウントされて、それが図書館がいかに使われているかを示す値として使われるということか。

    この徐さんの今年出た本もヨソからの相貸であった。

    「ことばの檻」は、『子どもの涙』の文庫版あとがきで徐さんが書かれていたことでもあった。旧宗主国、つまりは朝鮮を植民地とした日本で生まれ、かつて朝鮮を支配した国の言葉を自分の母語として育った徐さんは、私は日本語という「言語の檻」の囚人でなくてなんでしょうか、と書く。

    「I 植民地主義の暴力」、「II ことばの檻」、「III 記憶の闘い」の三つのパートにおさめられたそれぞれの文章は、さらさらとは読めず、相貸なので元の図書館に返す期限もあり、それをぎりぎりまで延ばしてもらって、ゆっくりゆっくり読んだ。

    「和解という名の暴力」で批判されている朴裕河(パクユハ)の『和解のために』は、徐さんの批判を読んでいると、「和解達成を阻む主たる障害が被害者側の要求であるかのように主張し、和解という名の美名のもとに被害者に対して妥協や屈服を要求する」(p.97)ものらしい。そして、この本は大佛賞をとるなど、「日本で異常なほど歓迎された」(p.75)らしい。著者の朴裕河が、韓国人で、女性だ、ということも多少なりと影響があるのかもしれない。

    この本を読むか読むまいか迷う。

    「あとがき」で徐さんが、20代の若い在日朝鮮人女性から届いたメールのことを書いている。朝鮮学校の前に押しかけ、子どもたちの前でスパイの子どもたち!朝鮮学校を日本からたたきだせ!などと数時間にわたる脅迫があり、「一部の排外主義者がやっていること」という日本人マジョリティの感覚がこんな脅迫行為や暴行を許してしまう社会をうんでいるのではないか、ご意見を聞きたい、と書かれたそのメールを読んだ徐さんは、申し訳なさと空虚感が心にこみ上げたと記している。

    ▼…私が彼女の年齢だったとき、まったく同じ疑問と怒りを感じていた。それから40年後の現在まで、同じ一つのことを主張し続けてきたような気がする。だが、それで何が、どう変わったというのか。こんな無惨な社会を若い世代に残すことになるとは…(p.314)

    ▼…歴史がなんであれ、事実がどうであれ、「北朝鮮」と結びつけさえすれば、どんな暴言も差別も許容される社会が実現された。解き放たれた敵意は、その被害者である在日朝鮮人ばかりでなく、日本人自身をも確実に蝕んでいる。植民地主義というものは、こんなにも大きな、取り返しのつかない傷と歪みを残しながら、さらに継続し、増殖するのである。(p.315)

    「いっさいの差別をゆるさない」というには遠い社会に、自分は生きているのだなあと思う。変わったことも少なからずあるはずだけれど、変わらないのか…と思うことが私にもある。どう動けば、こうありたい、こうあればという社会に近づけるのだろうと考える。

  • 書のタイトルの通り、植民地主義の暴力にさらされた、さまざまな個人について書かれたエッセイを主に収録。

    李珍宇、尹東柱、プリーモ・レーヴィ、ジャン・アメリー、パウル・ツェラン・・・
    李珍宇が死刑を宣告されながら、その生の終わりの間際に獲得しようとしたもの。
    尹東柱と植民地朝鮮の状況、それらを十分に汲み取れず(取らず)翻訳によってゆがむ詩。
    レーヴィら三人を分けた母語の差異、そして最後にはみな自殺するという共通点。
    どれもが著者の丁寧で鋭い考察があてられていて、植民地主義とは何なのか、そしてその暴力がいかに作用したかを考えさせられます。

    「和解という名の暴力―朴裕河『和解のために』批判」は本書のために書き下ろされたものですが、90年代に始まる「証言の時代」の中、日本軍「慰安婦」の人たち(証言者)をゆがめ、侮辱し、黙殺するいまの日本の状況を厳しく批判するものとなっています。
    断絶のあちら側とこちら側。
    その間にある深い淵を見つめる作業は、まだまだ著者にも私にも課せられたままなのかと思うと気が滅入ります。

    「母語と母国語の相克──在日朝鮮人の言語経験」という部分で、著者の提唱する朝鮮人の目指す多言語民族共同体というものも大変興味深かったです。

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植民地主義の暴力―「ことばの檻」からの作品紹介

在日朝鮮人の視点から「ことば」と「記憶」を論じ、きびしく問いかける「植民地支配責任」。その声は、"宗主国国民"に届くのか。

植民地主義の暴力―「ことばの檻」からはこんな本です

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