植民地主義の暴力: 評論集 「ことばの檻」から

著者 :
  • 高文研
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  • Amazon.co.jp ・本 (316ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784874984413

作品紹介・あらすじ

在日朝鮮人の視点から「ことば」と「記憶」を論じ、きびしく問いかける「植民地支配責任」。その声は、"宗主国国民"に届くのか。

感想・レビュー・書評

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  • 私が図書館にリクエストする本はマイナーなのか、単に図書館にオカネがないだけか、この頃ヨソの図書館からまわってくる相貸率がえらい高い。どんなかたちにしろ読めるのはありがたいことだけれど、古い古い本はともかく、今年出た本さえもやたら相貸なので、「いま読みたい本でもこんなことでは、いま読みたい人がいない本はどうなるんやろか」と心配になる。将来に向けた蔵書構成とかなんとか、考えてるヒマがないのか、考えてみてもオカネがないのか。山のように予約リクエストのつく本を複数冊そろえて、せっせと貸すほうが、「これだけ貸しました」という数はぐんぐんカウントされて、それが図書館がいかに使われているかを示す値として使われるということか。

    この徐さんの今年出た本もヨソからの相貸であった。

    「ことばの檻」は、『子どもの涙』の文庫版あとがきで徐さんが書かれていたことでもあった。旧宗主国、つまりは朝鮮を植民地とした日本で生まれ、かつて朝鮮を支配した国の言葉を自分の母語として育った徐さんは、私は日本語という「言語の檻」の囚人でなくてなんでしょうか、と書く。

    「I 植民地主義の暴力」、「II ことばの檻」、「III 記憶の闘い」の三つのパートにおさめられたそれぞれの文章は、さらさらとは読めず、相貸なので元の図書館に返す期限もあり、それをぎりぎりまで延ばしてもらって、ゆっくりゆっくり読んだ。

    「和解という名の暴力」で批判されている朴裕河(パクユハ)の『和解のために』は、徐さんの批判を読んでいると、「和解達成を阻む主たる障害が被害者側の要求であるかのように主張し、和解という名の美名のもとに被害者に対して妥協や屈服を要求する」(p.97)ものらしい。そして、この本は大佛賞をとるなど、「日本で異常なほど歓迎された」(p.75)らしい。著者の朴裕河が、韓国人で、女性だ、ということも多少なりと影響があるのかもしれない。

    この本を読むか読むまいか迷う。

    「あとがき」で徐さんが、20代の若い在日朝鮮人女性から届いたメールのことを書いている。朝鮮学校の前に押しかけ、子どもたちの前でスパイの子どもたち!朝鮮学校を日本からたたきだせ!などと数時間にわたる脅迫があり、「一部の排外主義者がやっていること」という日本人マジョリティの感覚がこんな脅迫行為や暴行を許してしまう社会をうんでいるのではないか、ご意見を聞きたい、と書かれたそのメールを読んだ徐さんは、申し訳なさと空虚感が心にこみ上げたと記している。

    ▼…私が彼女の年齢だったとき、まったく同じ疑問と怒りを感じていた。それから40年後の現在まで、同じ一つのことを主張し続けてきたような気がする。だが、それで何が、どう変わったというのか。こんな無惨な社会を若い世代に残すことになるとは…(p.314)

    ▼…歴史がなんであれ、事実がどうであれ、「北朝鮮」と結びつけさえすれば、どんな暴言も差別も許容される社会が実現された。解き放たれた敵意は、その被害者である在日朝鮮人ばかりでなく、日本人自身をも確実に蝕んでいる。植民地主義というものは、こんなにも大きな、取り返しのつかない傷と歪みを残しながら、さらに継続し、増殖するのである。(p.315)

    「いっさいの差別をゆるさない」というには遠い社会に、自分は生きているのだなあと思う。変わったことも少なからずあるはずだけれど、変わらないのか…と思うことが私にもある。どう動けば、こうありたい、こうあればという社会に近づけるのだろうと考える。

  • 書のタイトルの通り、植民地主義の暴力にさらされた、さまざまな個人について書かれたエッセイを主に収録。

    李珍宇、尹東柱、プリーモ・レーヴィ、ジャン・アメリー、パウル・ツェラン・・・
    李珍宇が死刑を宣告されながら、その生の終わりの間際に獲得しようとしたもの。
    尹東柱と植民地朝鮮の状況、それらを十分に汲み取れず(取らず)翻訳によってゆがむ詩。
    レーヴィら三人を分けた母語の差異、そして最後にはみな自殺するという共通点。
    どれもが著者の丁寧で鋭い考察があてられていて、植民地主義とは何なのか、そしてその暴力がいかに作用したかを考えさせられます。

    「和解という名の暴力―朴裕河『和解のために』批判」は本書のために書き下ろされたものですが、90年代に始まる「証言の時代」の中、日本軍「慰安婦」の人たち(証言者)をゆがめ、侮辱し、黙殺するいまの日本の状況を厳しく批判するものとなっています。
    断絶のあちら側とこちら側。
    その間にある深い淵を見つめる作業は、まだまだ著者にも私にも課せられたままなのかと思うと気が滅入ります。

    「母語と母国語の相克──在日朝鮮人の言語経験」という部分で、著者の提唱する朝鮮人の目指す多言語民族共同体というものも大変興味深かったです。

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著者プロフィール

徐 京植(ソ・キョンシク)1951年京都市に生まれる。早稲田大学第一文学部(フランス文学専攻)卒業。現在、東京経済大学全学共通教育センター教員。担当講座は「人権論」「芸術学」。著書に『私の西洋美術巡礼』(みすず書房、1991)『子どもの涙――ある在日朝鮮人の読書遍歴』(柏書房、1995/高文研、2019)『新しい普遍性へ――徐京植対話集』(影書房、1999)『プリーモ・レーヴィへの旅』(朝日新聞社、1999)『新版プリーモ・レーヴィへの旅』(晃洋書房、2014)『過ぎ去らない人々――難民の世紀の墓碑銘』(影書房、2001)『青春の死神――記憶の中の20世紀絵画』(毎日新聞社、2001)『半難民の位置から――戦後責任論争と在日朝鮮人』(影書房、2002)『秤にかけてはならない――日朝問題を考える座標軸』(影書房、2003)『ディアスポラ紀行――追放された者のまなざし』(岩波書店、2005)『夜の時代に語るべきこと――ソウル発「深夜通信」』(毎日新聞社、2007)『汝の目を信じよ!――統一ドイツ美術紀行』(みすず書房、2010)『植民地主義の暴力――「ことばの檻」から』(高文研、2010)『在日朝鮮人ってどんなひと?』(平凡社、2012)『フクシマを歩いて――ディアスポラの眼から』(毎日新聞社、2012)『私の西洋音楽巡礼』(みすず書房、2012)『詩の力―「東アジア」近代史の中で』(高文研、2014)『抵抗する知性のための19講―私を支えた古典』(晃洋書房、2016)『メドゥーサの首――私のイタリア人文紀行』(論創社、2020)ほか。高橋哲哉との共著『断絶の世紀 証言の時代――戦争の記憶をめぐる対話』(岩波書店、2000)『責任について―日本を問う20年の対話』(高文研、2018)や多和田葉子との共著『ソウル―ベルリン玉突き書簡――境界線上の対話』(岩波書店、2008)など。韓国でも多数著作が刊行されている。

「2021年 『ウーズ河畔まで 私のイギリス人文紀行』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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