オルガスマシン

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制作 : Ian Watson  大島 豊 
  • コアマガジン (2001年6月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (254ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784877344580

オルガスマシンの感想・レビュー・書評

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  •  イアン・ワトスンはイギリスのSF作家で、「黒き流れ三部作」や短編集『スロー・バード』等の作品が日本でも知られている。多くの国で高い評価を受ける作家であるが、実はデビュー作『エンベディング』の刊行前、1970年に一本の長編を書き上げていた事は長らく知られていなかった。
     それが“Orgasmachine”。「サイバーポルノ」と称され、英語圏ではあまりの過激さに出版を拒否され、辛うじてフランス語版とポルトガル語版が刊行されたものの、その他の国では幻の長編という扱いになっていた。
     それが2001年に30年の時を経てコアマガジンから突然の邦訳出版。日本の読者を驚かせたが、しかしこれは日本の読者にこそ読まれるべきものだ。元々英語で書かれたものなのに読むことができない英語圏のファンは気の毒だと思うが、まあでも我々は幸運だろう。この、SF史上最も過激で危険な小説を読めるのだから。

     退廃した「超男尊女卑社会」。女性は男性に奉仕するためだけに存在し、社会は男の原理で駆動している。「実存的な意味でおまえはモノだ――モノの終生の目的は外部の欲求の対象となることだ。女の存在は店のようなものだ。おまえのショーウィンドウはどうなっている」(p103)この台詞はこの社会の仕組みを端的に言い現している。
     そんな世界では男の欲望を満たすためだけに身体改造を施されたフリークス「カスタムメイド・ガール」が人工的に「製造」されている(この小説の元々のタイトルは“The Woman Factory”もしくは“The Woman Plant”だった。「女性工場」である)。
     猫の毛皮と爪を持つ女、身長が25センチしかない女、乳房が6つあり声を出せなくされた女。彼女たちは自分たちが「出荷」され注文者のもとへ旅立つ日を夢見ている。私を「発注」した人は私の事を可愛がってくれるだろうか――巨大な瞳を持つ女ジェイドもそんな一人だった。だが彼女たちの運命はそんな甘いものではなく、過酷を極めるものだった。

     解説の大森望は「サイバーポルノ版『家畜人ヤプー』」と形容しているが、まさにその比喩が似つかわしい奇怪な物語が進行する。
     英語圏で発禁になったSFポルノ、と聞いて妙な期待をしてはいけない。この小説はそんな「実用」に供するものではない。なぜかと言うと理由は2つある。
     1つにはこの物語はエロティックであるよりグロテスクだからだ。男の欲望に忠実に従うよう設計された女たちの運命は目を背けたくなるほど凄惨である。つまり、英語圏の出版社が出版に二の足を踏んだのはその性描写の過激さというより、女性が完全にモノとして扱われる非人道的世界観に抗議が殺到するのを恐れたからなのだ。
     もちろんそれはワトスンの意図する事ではないから最後にはそんな世界観を否定するラストを用意しているのだが、表面だけ見たら女性蔑視小説だと思われても仕方ないのかも。
     中盤、セックス・マシン(自動販売機型売春装置みたいなもの)に閉じこめられたジェイドが記憶を失ったまま男たちに奉仕するシーンや、自分の運命を受け入れられず、しかし声を出せないように改造されている女性が、泣き叫ぶ事もできず涙を流しながら心を閉ざしてしまうシーンなどは読んでて辛くなるほど心に突き刺さる。
     ワトスンはあえて極端に男たちを醜悪に戯画的に描いているが、ちょっと恐ろしいのは現実世界とも地続きに見える事。そしてそれが2つ目の理由である。

     まず、ワトスンは60年代後半に三年間日本で暮らしており、その時の経験がもとでSFを書き始めた事はよく知られている。つまりその体験を受けて真っ先に書き上げたのが本書だったのだ。
     だが驚愕するのは、21世紀の日本の読者からするとこの小説の描写も生温く感じる事だ。日本の変態文化に慣れた目を通すと、登場人物たちの変態行為もなんだかヌルい。邪な読者は英語圏で発禁になったっていうから期待してたのに!と感じるのではないか。
     ワトスンの想像力を刺激した日本の文化は30年間のうちにさらに奇妙に加速して想像を追い越してしまった。その事が最も驚くべき事ではある。
     何十万円もする精巧なラブドールが売れたりする現状を見ると、この物語も絵空事じゃないよなあと思うよね。

     物語の後半では女たちの解放と救済が描かれる。どのような形でそれが実現するかはその目で確かめるべし。賛否の分かれる物語ではあるが、ワトスンにしては意外なくらいストーリー性があるので思ったより読みやすい。
     表紙のドール制作と挿画は荒木元太郎という人が担当。僕は詳しく知らないのだけど、有名なフィギュア作家らしい。口絵も必見。
     途中やや唐突に横尾忠則の作品に言及されたりするので面食らうが、日本文化が色濃く投影され、性と暴力を正面から扱った色々な意味で問題作である。

  • 『オルガスマシン』を。しかもこんなタイミングで?(読み返したくなったんだから仕方ないよ)。少し「解説」(大森望)の言葉を借ります。 顧客の注文通りに身体改造された異形のサイボーグ少女たちを描く、女版『家畜人ヤプー』。英米の出版社が後難を恐れて刊行を見送った、SF史上もっとも危険な小説、あまりにも早すぎたサイバーポルノグラフィ…。最初読んだときには、「ポルノグラフィ」は「サイバー」である必要はない(あってもいいんだけど)、むしろもっとナマナマしいものを思わずにいられない、という意味で、おもしろいのかそうでないのか、実はよくわかりませんでした。「サイバー」と「ポルノグラフィ」との間に乖離があるように感じた、だから「ポルノじゃない」と私は判断した。でも、ポルノグラフィとしてちゃんと読めるのか否か、これを視点にちょっと捲ってみます。「英文学」ではあるけれど、これは日本の「ある種」の雰囲気を追憶している、という意味でも、われわれは読めるはず。

  •  顧客のオーダーメイドによって出生時から性的嗜好に見合ったように改造されたカスタムメイド・ガールの被虐と反逆の物語。
    退屈な説教を聞かされるのではないかと警戒して、長らく積ん読になっていたものの、いざ読んでみたらけっこう面白かった。

     性描写などが災いして、ながらくお蔵入りしていたワトスンの実質的な処女長編。現在はどうなのかわからないが、2001年の時点では邦訳版が決定版であり、それを読むのは日本語圏の読者のみの特権だという。
     訳者は大島豊氏で、登場人物が興奮すると語尾が促音になる癖は『レッドマーズ』以来ではあるが、それほど気にならない。



     小さい乳房六つとあごに乳首ひとつ付けたハナは涙腺を改造されていつも泣いてばかり。視力を失っている。やがて風俗店に売り飛ばされてしまうハナ。
    「ハナは途方に暮れた。バーガール、て何。ファックイージーバー、て何。」


     主人公のジェイドを引き取った男は、伊勢海老の活け作りをジェイドに食わせようとする。
    「心配するな。そいつには神経システムはないんだ。動いているのはただの自動的な反応さ。何も感じられないんだよ」
    「わたしみたいに?」

     女は従属的な対象物である。
    「女は男を裏返したものです。創造の元たるペニスは空ろな容器である膣になっています。女は暖かい手袋であります。男が手であります。」
    「実存的な意味でおまえはモノだ──モノの終生の目的は外部の欲求の対象となることだ。女の存在は店のようなものだおまえのショーウィンドウはどうなっている。商品はどのように陳列されているのだ。残らず展示されているか。見せているのはすなわち売物だ。客が入るのを拒む店など、聞いたことがあるか。」(P.102)


    『女性工学の三原則』
    「おまえの体はおまえのものではない。他の人間のものだ。したがっておまえはその体を損傷してはいけないし、怠慢によって損傷をこうむることを許してもいけない
    「おまえは所有者(あるいは所有権喪失の場合には、男であれば誰であれ)から与えられた全ての命令に、たとえその命令が第一条に反するものであっても、従わなければならない。
    「おまえはいかなる男も傷つけてはならない。また、第二条を守らないことによって、男に不快感を与え、精神的傷を負わせてもならない」


     ちょっと教科書的ではあるかな。ワトスンの立ち居地がはっきりとこの状況に批判的であるために被虐のポルノとしては、読みがたいというところがある。
     そういう意味で、沼正三『家畜人ヤプー』におよばないという話もあるがそもそも目指してるベクトルが違うんだから仕方がない。

    『家畜人ヤプー』を読んでない俺ですが、『家畜人ヤプー』と比較するならばクラーク『幼年期の終わり』だと思っていて、どういうことかというと「敗戦と占領」そしてその受容ということである。日本におけるSF受容史において『幼年期の終わり』はある特権的な位置をしめているのではないかと前から考えている。

     たとえば僕が「アメリカSFの原点」と考えるのはアメリカの建国神話であるフロンティアという当たり前といえば当たり前のことだけれで、それでは「日本SFの原点」は何かといえば(なぜか山野浩一ははっきり言わなかったのだが)、日本の建国神話である「敗戦と占領」だということである。そういう意味では「人類家畜テーマ」というのはつねに日本SFにとって重要な作品を供給しうる枠だと思う。

     大宮信光が『幼年期の終わり』は大英帝国によるインド支配の正当化という側面があるというようなことを書いていたはずだが、敗戦国日本の読者(マッカーサーの言う「十二歳」民主主義幼年期)を主体とすると、それは被支配の状態を心地よく正当化できるものでもある。

     この点において『幼年期の終わり』に沼正三と三島由紀夫がするどく反応していて、三島が『家畜人ヤプー』を称揚し、また沼が『幼年期の終わり』の三島の読み方の瑕疵を指摘するという不思議な関係が出来ている。『幼年期の終わり』についてもっと本質的な議論が二人の間であったならば、日本SF批評における大きな仕事がなされたのではないかと思うのだが、詮無いことか。

     それにしても三島の『小説とは何か』でとりあげた小説は『幼年期の終わり』であったり、足穂の『山ン本五郎左衛門ただいま退散仕る』であったり、国枝史郎『神州纐纈城』であったり相当なセレクションではある。『幻想文学とは何か』じゃないんだぜ。ただ一方では通過儀礼・あるいは教養小説というモチーフが一貫していて、納得もできるのだ。そういえば、教養小説とはいろいろな知識や雑学が書いてある小説のことだという解釈をしてる読書ブログを見つけたことがあって、もう、この言葉も注釈つけないといけないのかなぁと思いました。つけませんが。

    『オルガスマシン』にはTズ・ガールと名乗るカスタムメイド・ガールも出てくるんだけど、この「T」の元になってるのが、横尾忠則である。はぁ?
     自分のオーナーに横尾忠則のイラストのポーズを取ることを要請されていたTズ・ガールは、流行が終わったことで主人に捨てられてしまう。しかし、そのことでTズ・ガールは半独立のようなものを単独で達成してしまう。「今は前のご主人は大嫌いよ、だってTに忠実ではなかったんですもの──でも私は今も忠実よ」横尾忠則を信じて自由を勝ち取ろう!
    このあたりで、口絵になぜか横尾忠則のカラーイラストが何点も入っていた理由が判明する。するんだけどさ。
     ワトスンは『エンベディング』でのジェファーソン・エアプレインの時もそうだったけど、こういう細部が妙に妙である。

     さて、導入部ではこんな描写がある。女に送信しているキャラクターを形成する電波があって、ちょっとした刺激としてある特定の場所と時期だけランダムに作用するような情報を送るのだ。
    「するとどうなるか。その晩だけ、女が全員ワイルドカードになったのだ。それだけではない。どの女も、五分か十分ごとに何の前ぶれもなくキャラクターを変えてしまうようになった。〈皇帝の愛妾〉〈寡婦の女帝〉〈無垢な処女〉〈清楚な花嫁〉〈半人半蛇の女怪〉〈セイレーン〉などがあり、あるいはまた〈反抗的な奴隷〉〈生意気なあばずれ女〉〈男まさり〉といったものまで含む、ありとあらゆる女のヴァリエーションが現れた。」

     ありとあらゆる、であるよ諸兄。おお、ありとあらゆる女のキャラクターは最大9文字で表現できるのだ。しかしながらこれは笑いごと、でもない。

     三木・モトユキ・エリクソンが「解離する物語──多重人格探偵サイコ論」のなかで斉藤環の見解を引用しつつ展開しているのだが(だから原典にあたれって)、多重人格患者が作り出す人格はあたかもアニメのキャラクター設定のように単純で浅薄である。
     以前、夕方のニュースでみた驚愕の多重人格少女の症状みたいなレポートも、キャラクターにくっきりした色付けがほどこされていた。この子は泣き虫、この子は乱暴など。そこに深みや幅といったものはなく、恐ろしく簡略な言葉で説明できるものだ。

     これが斉藤が言っている「記述可能な人格」というものだろう。なんだか、テーブルトークRPGのキャラクターシートに書き込みをしてるようなもんだとも思う。数語、ではないにしても結局規定の能力値や特徴などをマス目に埋めていけばキャラクターのいっちょあがりというやつである。そこでは人間存在は(昔なら実存といったものだ、か)言語化できるものによって構成されているという把握が貫かれている。

     だからゲームやってるような連中は、という話ではない。このような人間把握の方法は基本的に履歴書の類によってほとんど全ての人間に要請されるようになっていて、面接に行けば「三分間であなたを説明してください」とか言われるのだ。三分間ってもらいすぎ?
     人格の浅薄さとは、極論すれば近代以降の必然性だという気もする。近代以前はどうなのかというのはとりあえずおいて。あるいは浅薄であろうがなんだろうが、わたしも含めてそもそも人格未満の圧倒的多数の存在が(ひどい)むりやり人格を捏造してでも提出することを強要されているのが近代だという風に言えばいいのかなぁ。

     三木の文章の中でというか、面倒なのでもう大塚英志はということにするが、大塚はこういった多重人格者の人格を作り出すセンスを「やおい同人誌のペンネーム」とか「同人誌の連中のキャラクター設定みたいだ」と暴言を述べたという。実際ニュースの女の子のそれぞれの人格の名もそんな感じであった。ネーミングのセンスについては、コスプレイヤーの方にも同様の傾向がある。

     大塚は「現実の多重人格者が平凡な私に耐え切れず特別な私に変容しようとして作り出す名が『やおい同人誌のペンネーム』よろしく奇妙に個性的であろうとしたところで、実は平凡さをまぬがれ得ない」とあけすけに指摘していて、このことについて私も完全に同意する。するのだけれど。

     この辺の議論、専門でないのでよくわからないが最近のサブカルチャーにおける女の子のキャラクターが、どんどん微分化されていって、性格と呼ばれるべきだったものが属性というものにまで解体されてしまっていることはなんとなく感じている。
    個々のユーザーの嗜好に応じた属性をデータベースの中から引っ張り出して組み合わせれば、一定の消費者はつく。それが現状なのだろう。

     さて、それを男性のゆがんだ性的嗜好として外側から批判することは容易だ、が。

    『オルガスマシン』に戻る(戻れるとは!)。大森望は解説で、「男性向け美少女アダルトゲームのキャラクターを女性のコスチューム・プレイヤーが好んで演じるような倒錯も、本書の中にはきちんととりこまれている」ことを指摘している。

     このことについてだって、それらの女性たちを「従属的である」「解放されていない」と外部から批判することは簡単なのだ。しかしながら、なにかしら人格を捏造しなければならないときに、その記述可能性のゆえに、浅薄さのゆえにこそそのサブカルチャーを模倣するという倒錯にいたらざるを得ないとするならば、それこそサブカルチャーは大塚がよくいうライナスの毛布として機能しているんじゃないかとも思う。

     自分病については、啓発本なぞ捨てて、キルケゴールを読むのが最善の処方だと昔も今も思うけれども、もうそういうことを嫌味に言っていられる状況ではなくなってしまった。


     この作品の性描写よりも、現在の日本のサブカルチャーの描写の方がよほど過激で進んでしまっているから、いまさら刊行されても衝撃力はないなどと、自慢そうに鼻をうごめかすのも結構だけれども、まさに追い抜いてしまったがゆえにこの作品から引き出さなければならないことはあるはずだ。

     などと言いつつハナの描写がもっとたくさんあったらなぁとか、ハナのフィギュアが出たら買ってしまうだろうかと考える自分もいて困りもの。表紙などに使用された美少女ドールの製作者は荒木元太郎氏というその筋では有名な人らしいのだが、ここは主人公のジェイド?ではなく、ハナで作るべきだったんではないかなぁと思う。

     それにしても『オルガスマシン』での大森氏といい、『エンベディング』での山形浩生といい、ワトスンの解説(後書き)は妙に面白い。『エンベディング』ではメインアイデアを実に簡明に説明していて、これを読めば本文を読む必要がないのではないかというくらい(そういうつもりで書いてると思う)。山形氏の場合はネットの方の文章も読んでないといけないんだけどさ。

     それにしても『エンベディング』や『ヨナ・キット』『マーシャン・インカ』の前にこういうわりとストレートというか、分かりやすいストーリーがある話をワトスンが書いていたというのはちょっと意外。フェミニズム系列の作品の思想の展開をさぐる上では『黒い流れ』三部作も読み返すべきかなぁ。

     あぁ、『オルガスマシン』でこんなに書いてしまうのは予想外。

  • カスタム・メイド・ガールがアンドロイドでない事に失望。サイボーグでもない人造人間(キメラもいるが)なので、普通に食事(肉とか珈琲)を摂るのに違和感。ストーリーは世界のルールを男性が支配し女性は奴隷の如く扱われる近未来。カスタム・メイド・ガールの「ジェイド」が辿る運命。この作品が書かれたのが1970年代なので「偉大な芸術家」として横尾忠則が出てくるのが可笑しい。英語圏では女性蔑視の本として出版出来ないそうだが、最終的には女性達が今迄の在り方について疑問を持つに至るので全く作者は蔑視の意図はないと思うのだが。

  • これはSFCP=SFサイバーポルノか、VFNF=バイオレンスフェミニズムネオファンタジーか読み手の感性へのリトマス試験紙。奥歯な読書。

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オルガスマシンの作品紹介

物語は、女性製造販売の大手企業、カスタムメイド・ガール社が管理する「コンクリートの島」から幕を開ける。クローン綾波さながら、成長ホルモンと栄養剤を満たしたタンクの中に浸かる娘たち。この素体を利用して、顧客の注文通りのCMガールが製造されてゆく。身長二十五センチの盆栽娘、両性具有体、背中合わせのシャム双生児、異星人ふうに造型された娘、鱗におおわれたリザード・ガール、翼の生えた鳥娘…。主人公格のジェイドは、異様に大きな青い目を持つCMガール。柳模様の美しい箱に収められて島から顧客のもとへと出荷されたジェイドがたどる数奇な運命を描くメインプロットは、古典的なポルノグラフィ(たとえば『O嬢の物語』)の文法に従っている。一人称で語られるジェイドの物語と並行して、彼女と同時に「生産」され、コンクリートの島を出た娘たちのエピソードが断章のように挿入されてゆく。虐げられつづけてきたカスタムメイド・ガールたちがついに団結し、男社会に叛旗を翻すクライマックスは、ページを繰る手ももどかしいほど。圧倒的な密度と荒削りなエネルギーに満ちた処女長編を、作家的成熟を経た一九八〇年代に全面改訂したことが結果的に功を奏したのかもしれない。過激な性描写や歴史的希少価値を抜きにしても、現代SFの最先端としてじゅうぶん勝負できる傑作だ。

オルガスマシンはこんな本です

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