その時歴史が動いた〈20〉

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制作 : NHK取材班 
  • KTC中央出版 (2003年7月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (253ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784877582784

その時歴史が動いた〈20〉の感想・レビュー・書評

  • 激突、武田信玄と上杉謙信/川中島の戦い、両雄決戦の時

    ・被害の大きい戦闘を避けて、敵が去った後に巧みに領土を拡大するのが、信玄の兵法の極意であった(p40)
    ・信玄は戦争を大きな戦略のなかに位置づけたのに対して、謙信は戦争(戦闘)の勝敗そのものに思いきをなした(p40)
    ・1560年永祿三年、日本列島は異常気象に見舞われていた、甲斐国では2~6月までは雨が一滴も降らず、6月からは10月までは雨が降り止まなかった(p44)
    ・信玄は北条氏と同盟関係にあったので、北条氏が謙信に攻められているのを黙ってみることが出来なかった(p48)
    ・永禄4年9月の川中島の戦いは、2万7千人あまりの死傷者を出した、信玄軍:2万人、謙信軍:1.3万人、死傷者率は70%(p55)
    ・新潟の干潟の多くは江戸時代に開発された、越後は日本海の沿岸交易で潤った国である(p63)

    豊臣秀吉、天下統一の必勝戦略/小田原攻めに秘策あり

    ・信長は全軍から1000人の鉄砲足軽だけを集め、最前線に並べた、それぞれの武将が率いる部隊を、一度バラバラにして役割ごとに編成を直した(p74)
    ・信長が急に亡くなり、すぐに秀吉が同じことをやろうとしても引き継いだ武将のなかには織田家の同僚もいれば名門もいたので、秀吉は権力はあっても強くは命令できないという時代であった(p80)
    ・秀吉は小田原攻めに際して、兵の食料調達にあたる兵糧奉行を特別に指名して、戦う兵とは別に、コメを集める専門部隊を編成し、20万石(22万人を10ヶ月以上養える量)もの米を集めた(p91)
    ・その頃の篭城戦の常識は、1ヶ月勝負であった(p96)

    関ヶ原の戦い、決死の敵中突破/戦国の猛将・島津義弘、決断の時

    ・義久は、島津が旗幟を鮮明にして戦うことは危険だと考えて、義弘に援軍を送ろうとしなかった(p136)
    ・決戦の前に義弘のもとに集まった兵は、ようやく1000人余り、60万石を誇る島津家としては、あまりにも少ない数であった(p136)
    ・三成は、墨俣にいる島津隊を見殺しにして大垣城まで退却した、これにより、義弘は三成に強い不信の念を抱いた(p138)

    夢は征夷大将軍/徳川家康・逆転の戦略

    ・天正15年の九州攻めのあと、秀吉は佐々成政を肥後にやった、成政は統治に失敗して切腹している、秀吉が家康を関東に送り出したのも同じ狙いがあった(p173)
    ・家康を関東に送った秀吉は、鎌倉の鶴岡八幡宮を修復せよという命令を出した、修築の前に家康が贈った寄進状に家康は「源朝臣」と記した、源氏の流れをくむ武士であると宣言した(p178)
    ・家康は、関ヶ原の戦い後に、秀吉の死後空席となっていた関白の座を、公家の名門の九条家(兼孝)に返した(p189)
    ・幕府とは、もともと将軍の陣営という意味がある、あくまで将軍が武力をもって敵を成敗するために設置する仮の政府のような性格であった(p190)
    ・家康は、もともと三河の小豪族出身だったが、三河守を名乗るとき、藤原氏の出身であるとしてしまっていた(p191)

    さらば淀殿、お初の決断/運命に立ち向かった戦国三姉妹

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