- Amazon.co.jp ・本 (259ページ)
- / ISBN・EAN: 9784879841216
作品紹介・あらすじ
「勇気ある作家」ブッツァーティの代表作。「人生」という名の主人公が30年にわたる辺境でのドローゴの生活にいなにひとつ事件らしいものを起こさない……。20世紀幻想文学の古典。
感想・レビュー・書評
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長い間、小競り合いと呼べるほどの戦闘すらなかった隣国と境を接する辺境の砦に新任の将校が赴任する。時を同じくし、今まで微妙な均衡の上に成り立っていた両国間の戦争と平和のバランスにかすかな亀裂が生じ、それがやがて運命的な悲劇を招き寄せることになる。ほぼ同じ頃に書かれた『タタール人の砂漠』は、ジュリアン・グラックの『シルトの岸辺』に酷似する。
任地に先輩将校がいて、次第に気心が通じあう仲になってゆく点もよく似ている。『シルトの岸辺』が海、『タタール人の砂漠』が山を舞台にしている点が異なるが、事実上の戦闘行為というもののない軍事拠点で平穏な日々を費やす軍人たちの心境というものにはかなりの共通点が見いだせる。軍人として最も敵に近い位置にいながら、戦えない。それは大いなるディレンマといえる。
話を『タタール人の砂漠』に戻そう。舞台はどこともはっきりしない荒涼とした山岳地帯。大砲はあるが移動手段は馬や馬車、無線通信もない時代の話だ。主人公はジョヴァンニ・ドローゴという中尉。士官学校を出て初めての赴任先がバスティアーニ砦。北の王国に面した砦として、かつてそこに行くことは軍人としての名誉だったこともあるが、今では重要視されておらず、最近では昇進を望む若い将校の腰掛けにされている始末だ。しかし、中には長年月を砦で過ごす者もいて、砦に向かうドローゴが最初に出会ったオルティス大尉もその一人だった。
若い軍人の常として、戦功をあげ、昇進を夢見るドローゴは、砦に大した価値観を持たない大尉の話を聞くうちに、急速に砦での勤務に嫌気が差す。すぐにでも帰任しようと上官に願い出るもののうまく丸め込まれ、通例の四年間勤務を続けることになる。同じ年ごろの将校仲間も多く、馬を飛ばして近くの町で羽を伸ばす楽しみも見つけると、勤務自体は楽なものなので、砦の暮らしにも馴れ、悪いところでもないような気がしてくる。何しろ、期限が切られているので、それまでの我慢なのだ。
しかし、十年、二十年と居続ける者は、砦に何を期待しているのだろうか。両側を深い絶壁に遮られ、南には深い谷、北には絶壁と絶壁の間に三角形の土地が見える。砂礫が広がるばかりのそこが「タタール人の砂漠」といわれるところ。かつてタタール人が攻め入って来たという伝説が残る。その手前に国境線が横たわっており、バスティアーニ砦に勤務するということは、真っ先に敵と戦う栄誉を担っていることを意味する。
上は司令官から、下は仕立屋として働く兵曹長まで、いつかきっとタタール人の砂漠に敵が現れることを今か今かと待ち続けて今に至ったのだ。居続ける理由の一つに男所帯の気楽さがある。砦の料理は美味で、視察と称してわざわざ食べに来る将校もいるほど。新しい服が欲しければ腕のいい仕立て職人もいる。生活のこまごました世話は気の利く従卒がやってくれる。山岳地帯の自然は厳しいものの雪解けの季節のうれしさは格別である。長くいるうちに、不都合なことににも馴れ、何もない砦の暮らしに居心地の良ささえ感じるようになる。
いわば、これが罠なのだ。いつかやってくる敵の襲来を待つという大義名分を自分でも信じているふりをして、砦という閉鎖的な社会に閉じこもるうちに、一般的な社会との接点を失ってしまう。砦での暮らしは竜宮城にいるようなもの。帰ってみれば今浦島。四年が経過し、一時帰郷したドローゴは、自分と無縁の世界に住む友人に親しみを覚えられず、婚約者のマリアとの間にも壁を感じる。最愛の母さえもかつてのように自分を愛していないことを知り、砦に帰ることを選ぶ。
軍隊という世界は普通の場所ではない。人と人の通常の約束事の上に規律があり、それが支配する。そのために死ななくてもいい人間が死ぬこともある。また、様々な価値観や気質を持つ男たちが閉鎖的な空間に起居するため、相容れぬ気質を持つ者の間には確執が起きる。ふだんは何とかやり過ごしていても、一朝ことあるときにはそれが火種となり、命のやり取りさえ起きる。気楽そうに見える砦の生活にものっぴきならない事情のあることも作者はしっかり書き添えている。
要領のいい将校は四年で砦を去って下界に戻り、妻や子のある普通の暮らしを営む。それでは、砦の生活を選んだ者に何が残されているかといえば、敵の来襲以外何があろうか。目を皿のようにしてタタール人の砂漠を見張る兵が、黒いものの動くのを見つける。ざわめきたつ砦。それが敵兵の隊列であることが分かり、いよいよその時が来たと砦中が沸き立っている最中、竜騎兵が一通の書類を携えてやってくる。隣国の兵は、国境線の確定のためにやってくる武器を携行しない測量隊に過ぎないことが判明する。
期待と遅延、ようやく訪れたと思えた好機は一瞬にして潰える。これが狼が来たと呼ばわる少年の例となり、タタール人の砂漠に人影を見たり、夜半に灯りがちらつくのを見たと訴える将校に対し、軍は不必要に不安を煽るものとして、警告を与え、望遠鏡の使用を禁じる愚挙に出る。敵が道を作っているのだという同僚の意見を信じていたドローゴは、それ以降、確認する手段を失ってしまう。
博打で負け続けた客が起死回生の逆転劇を待つように砦に居続ける者たちの前に、今度こそ本当に敵が責めてくるという事態が勃発する。しかし、そのとき年老いたドローゴは肝臓の病でベッドから起きることもままならない。何というアイロニー。しかし、突然やってきたわけではない。事態がこのように進むことを話者は小出しに知らせてくれている。伏線を張り、幻想的な夢で仄めかしている。それを読者は知っているが、主人公は知らない。
第二次世界大戦前に書かれたこの小説が発表されたのは敗戦後のイタリア。当時はネオ・リアリスモが主流で、日の目を見なかったという。しかし、今読んでも心惹かれるものがある。いいものは時を選ばない。人は何かを待ちわび、待ち続け、報いられることもなく一生を終える。その事実に何の変りがあることか。俗世間での栄達や気散じが大事なら、そう生きるのもいいだろう。しかし、何かできるかもしれないという期待に一生を捧げる人生を選んだとして、仮に報いられることがなかろうと、誰がそれを笑えるだろうか。いつまでも読み継がれる物語だろう。詳細をみるコメント2件をすべて表示-
goya626さんなんというシンボリックな物語!砂漠というところに深遠さを感じます。なんというシンボリックな物語!砂漠というところに深遠さを感じます。2019/11/20
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abraxasさんもしこの作品がお気に召したら、ジュリアン・グラックの『シルトの岸辺』も是非! こちらは海ですが。もしこの作品がお気に召したら、ジュリアン・グラックの『シルトの岸辺』も是非! こちらは海ですが。2019/11/20
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軍人がじりじりと待ち続ける話、ということで『シルトの岸辺』みたいだなと思って読み始めたけれど、全然別物だった。「シルト」は絵のように鑑賞する作品だったけれど、こちらは他人事にできる話ではなかった。そして自分のこととして読むと、大層怖い。
誰もが当事者であるような寓話をここまで明確に書くって、ブッツァーティは一体何を思っていたのか。「わかってますわかってます、そんなことわざわざ言わないでください」というのが感想。この本はこれからの人と折り返した人で結構違うのではないか。切実さが。
一章ずつきっちりと積み上げる無駄のなさが、自分の好みからするとちょっとまとまり過ぎなのだけれど、完成度が高いとも言える。ただ結末については、それまでと違ってずいぶん願望入ってますね、という気がした。 -
読者にはどこにあるか、どのようなところか想像がしづらい、山と砂漠に囲まれた砦に、若き主人公ジョヴァンニ・ドローゴ中尉は派遣される。
はじめは数ヶ月で帰れると思っていたが、何年も、何十年も砦に縛り付けられることになってしまうのだ。
《まさしくその夜に、彼にとっては取り返しようのない時の遁走が始まったのだった。》…
人生の比喩が挟まれ、私たちが今どんな道を歩んでいるのか思い知らされる。
砦では皆が密かに、北の砂漠からのタタール人の襲来を、戦で英雄となることを夢見ている。ドローゴもじっと待ち続ける。しかし、もう何世紀も北から人が攻めて来たことはないのだった。
しばらく全く何も起こらないが、最初の数年に比べて、その後の数十年の時間の流れはあまりにも速い。そこで私もはっと目が覚める。
ドローゴは老いてきてから過ぎ行く時の速さに不安を覚える。それでもまだ、ドローゴはこれから何かが起こるという幻想にしがみついている。
ドローゴはもう町には戻れなくなっている。すでに親しい友人はいなくなり、孤独で町に馴染めないからだ。
砦で空しい希望を抱き続け、北の砂漠を望遠鏡で覗き、まだ、待ち続ける。
とうとう北の民が攻めてきて、戦闘の時がやってくる。ドローゴは病に体を侵され動けなくなっており、砦を追い出されて町に帰される。
帰り道の途中の旅籠屋で、彼は死と向き合い、最後の戦いに挑む。これこそが彼の待っていたものだった。彼には希望もなかったが、失うものもなかった。
死は皆に平等に訪れる。
良いことなど何一つなかった孤独な人生だったかもしれないが、彼にようやく一筋の光がさした。彼は解放されたのだ。
人生に大きい起伏があるかないかに関わらず、ドローゴのように無為に人生を送ってしまい、後ろを振り返れば取り返しがつかなくなっているということは、どの時代でも多くの人に当てはまる。この本は40代から50代くらいの方が読むとかなり刺さると思う。
後半は悲痛で恐ろしく感じるが、読後感は清々しい。死に立ち向かうドローゴが立派である。
自分はまだ「これからいいことが待っているだろう」と呑気に待っている歳だ。
ドローゴのように勇敢に正面から死と向き合えるか、私には分からない。 -
待つことーーー唯一私達に示されるのは「待つこと」だけだ。
時代背景も、どこにあるのかもはっきりと分からない砦を舞台にドローゴは待ち続ける。
目前に延々と広がる砂漠の向こうにはタタール人がいる。タタール人の襲来に備えて砦は存在する。
ただそれは何百年も昔の話。本当にタタール人が存在するのかどうか、誰も知らない。
それでも待っている。
人間は傲慢で、自分に終わりがくるなんて本気で思っていない。自分には明るい未来が待っていて、これからだと信じることで生きられる。
老いや死などまだまだ関係ない、先は長いと。
待つことで結局人生を棒に振ってしまうなんて考えもせずに。
特段のドラマも起こらない、ただただ待っているだけの話なのにすごく胸を打たれた。
ラストは悲痛で、美しい。
具体的な地名など一切ないのに、強い日差しに焼けた黄色っぽい砦がありありと目に浮かぶ。
この名著を読む機会をくれた本から引用を。
「全人類はただ存在することによって、延々と待ちぼうけを食らわせる主人公の役を演じている。」 -
無常にも連連と粛粛と過ぎて行く時間。
希望と失望の狭間で人生を送る青年将校の生涯を描いた幻想作品。
主人公ジョヴァンニ・ドローゴは士官学校を出た後に
ある砦への赴任を命ぜられる。
期待と希望とを胸に秘めて出向いたものの、
そこは、両側を谷間で挟まれ、前方には荒涼とした砂漠のみが展開し、
町からは程遠く、戦では無用な、ある国境の要塞だった。
失望から転任を企てるが空しくも報われず、
その後、淡く微かな戦へのときめきと昇進への期待を抱きながら
砦での生活を淡々と行っていく。
そしてこれは我々の人生を描いた物語です。
人生の主人公である自分は、
何かしらの良い役回りを授かれることを、
僅かばかりの名声や名誉に与れることを、
未来が今日より進歩してることを、
豊かな人生が待っていることを期待し、
しかし、その期待と現実とのギャップに失望し、苦悩し、
そして意欲と妥協との狭間を行きつ戻りつして生きている。
その間に明日はあっという間に後ろに過ぎ去っていく。
本著は、劇的な話ではありません。
しかし、このような静穏な物語だからこそ、
人生の儚さや侘しさを表現し得たのだと思います。
とても良い物語です。 -
読み始めてすぐに、ああ、これは人生そのものについて描かれた物語なのだ、と思う。
これまで生きてきた年数より、これから生きる年数の方が確実に短いことがわかっている身にとっては、胸をえぐられるように感じられる作品である。
きっと、読者の誰もが主人公ドローゴの人生に自分の人生を重ね合わせずにはいられなくなるのではなかろうか。
変化を待ち望みながらも、変化を恐れ・・・・
やがて来るべき栄光の時を待って、待って、待ち続ける。
打ち捨てられたかのような城砦が時折見せる神秘的な佇まいに、未来を約束されたかのように幻惑され、待つ自分を肯定する。
ここまで待ったのだからと、さらに待つ。
そうこうするうちに、他の生き方をするには手遅れとなり・・・・・
待つことに費やされ、何事をも成し得なかった人生には何の意味もないのだろうか。
いや、まだ最期の闘いが残っている。
進軍ラッパも、援軍も、約束された栄光も、結果を見届ける人もいない闘いが。
ここにこそ、持てる勇気のすべてをと、ドローゴは高揚する。
それもまた、幻影かもしれない、とブッツァーティは囁くのだけれど。
最後のシーンでのドローゴのほほえみに救われる思いがする。
Il Deserto dei Tartari by Dino Buzzati -
「確信は次第に薄れていった。人間はひとりっきりで、誰とも話さずにいる時には、あるひとつのことを信じつづけるのはむつかしいものだ。その時、ドローゴは、人間というものは、いかに愛し合っていても、たがいに離ればなれの存在なのだということに気づいた。」
♪たららーたららーらら、たーらららー
どこかしら中央アジアを旅するような、厳しさと長閑さの入り混じった音楽を思い出しつつも(韃靼人の踊り)、ここに描かれる旅は底知れぬ恐怖を呼び起こす。
旅の目的地に確信を持てぬまま旅をする主人公を描くことで始まるブッツァーティの「タタール人の砂漠」は、どこかしら彼の「石の幻影」を思い起こさせる。しかし、旅の終着点に謎の根源がある事を知りつつ旅をする「石の幻影」の主人公は、そこに秘せられた目的があることを知っているし、物語としても、その謎を解くという目的が読者の中で自然に芽生え、ある意味で安心できる。一方「タタール人の砂漠」の主人公にとって旅は終着点に辿り着くまでの過程に過ぎず、そしてまた終着点に何があるかは問題ではない。そこは自分の人生にとっての終着点ではなく、一つの通過点であると信じている。しかし読者はその旅の終わりに、タタール人の砂漠、と呼ばれる場所があることを知ってしまい、それがこの本のタイトルであることから、大いに不安になる。
主人公は目的地に着く。そこで発見するのは当初の意味を失った建物である。にも係わらず大勢の人間が捉われ、目的が無い筈などない、という逆説的な狂信に取り付かれているのを発見する。そして、そこが通過点ではなく、出口のない場所になり得ることに徐々に気付いていくが、気付いたときには遅すぎる。その絡め取られていく過程が実に恐ろしい。
例えば、こんな風に物語りは進む。一つの出来事があり、憶測と妄信が錯綜する。しかし依然として何も狂信を裏付けることは起こらない。そして一足飛びに時が流れる。また繰り返される憶測。だか実は着実に状況は変化しつづけている。それが余りに小さな変化の積み重ねであるがゆえに、人々はその変化がもたらすであろう結果に思いを致すことができない。いや気付きつつもそれを否定するのだ。
あるいはここに今の環境問題に対して人類が取り続けている態度を重ねてみて恐ろしい気持ちになったりもするのだが、実のところ自分が感じる恐怖はエピソードとエピソードの間で瞬間に流れ去る時の大きさに対してなのである。それは40代の後半を迎えている自分自身が日頃実感する恐怖と奇妙に呼応する時間の重さであるからだ。自分自身もまたどこかへ進んでいるようでいて、同じ場所をぐるぐると回っているだけなんじゃないのか、という思いがふとよぎる。ここが終着点ではなく、通過点であると、一体誰が言い切れるのか。蟻地獄に絡め取られるような不安の渦が押し寄せる。
そんな自分の不安な心を救ってくれるのは傍に居るものの存在であると思うのだが、そんな心を見透かしたようにブッツァーティは孤独というものの本質に迫る。
結局のところ、人生は目的も目的地もない長い長い旅なのか?
ひたひたとブッツァーティの語る言葉の恐ろしさに犯されていく、そんな読書。読み終えたとき、何故か、鬼束ちひろの「私とワルツを」の詩の意味を深く考え直したくなる、そんな小説である。