ニーチェに学ぶ「奴隷をやめて反逆せよ! 」―まず知識・思想から

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  • 成甲書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (312ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784880863542

作品紹介・あらすじ

今の日本人は背骨を叩き折られている。
長年、米国の属国をやり過ぎて、すっかり奴隷民族に成り下がった。
「奴隷をやめて反逆せよ!」と説いた本当のニーチェを日本人に伝えたい、という一心で書き下ろした本


ニーチェの思想の核心は何か。
それはローマ教会キリスト教に向かって、お前たちこそが人類の悪そのものなのだ、とえぐり出したことだ。ローマ教会キリスト教こそが、人類に奴隷の思想を圧し付け、いろいろな巨大なウソを人間に吹き込んだ諸悪の根源だ。人間は本当はひとりひとりが自由に楽しんで生きていいはずなのに―
ニーチェは人類のこの巨大な真実を暴いた人だ。

感想・レビュー・書評

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  • 今の日本人は背骨を叩き折られている。長年、米国の属国をやり過ぎてすっかり奴隷民族に成り下がった。「奴隷をやめて反逆せよ!」と説いたニーチェを日本人に伝えたい、という一心で書き下ろした本。

    はじめにーニーチェの「この人を見よ」の本当の意味を知らない日本知識人
    ヒエロニムス・ボッシュ 命がけの血みどろの独立戦争(八十年戦争)を戦ったオランダ人画家
    異端審問裁判で多くの人間を殺したローマ教会キリスト教

    第1章◆これだけは知らねばならないニーチェ思想の骨格
    ロ−マ教会キリスト教
    イエスというただの人間の男をキリスト(救世主)にして神殿に祀って「キリスト教」を作った。悪と罪を作った者こそはパウロ

    ディオニュソス的
    人間の喜び、快楽を追求する。同時にアポロ的(健康、健全)で過度を戒める
    人生は楽しむためにある。
    酒、芸術、男女の愛で大騒ぎをすればよい。苦労と憎しみと屈従などいらない

    学校教育もサラリ−マン生活も、私たちを奴隷にするために有る
    この他の宗教(日本の仏教や神道、儒教)も全部、人間を奴隷にするために有る。弱者がすがりつく対象にした
    「秩序を守れ、言うことを聞け、反抗するな」に対して反逆せよ!

    第2章◆日本人が知らない本当のニーチェ

    日本人は、腹の底から敗北者となって、洗脳され切って、アメリカ合衆国に屈服して生きている。屈従していれば、殺されることはない。だから、まさしく奴隷民族だ。
    その日本人のひとりとして、今のまま知能を足りなくさせられたまま生きて、他の多くの、家畜のような人間達と一緒に群れを成しているだけでいいのか。
    その日本人の一人として私はあなたは、今のまま知能を足りなくさせられたまま生きて、
    食用にされる家畜の群れの動物と同じだ。 ただ食物として食べられるためだけの羊牛豚と同じだ。犬と猫は人間の愛玩用だから食用にされない。 せめて野良犬か野良猫となって獰猛に夜の都会 や住宅街を這い回って生き延びることはできないか。野生動物になれとは言わない。
    こんな 惨めな生活、人生環境の中に私たちを押し込められている。それでも日本は、社会インフラだけは徹底的に整備されている。道路も建物も頑丈で、都市生活は快適に便利に完備した高度文化の都市型国家だ。ところが、その中で一人ひとりはヒドく貧しい。本当に家畜のような人間ばかりになった。背骨を叩き折られた人間たちだ。

    ペテロとパウロという二人の大悪人が、キリスト教を創作したのだ。とくにパウロが、「ローマ人への手紙」などの「使徒行伝」で愚劣極まりない、人間の奴隷化の思想を書いて「新約聖書」に入れることで、キリスト教ならぬパウロ教が成立した。ペトロもパウロも、イエスの使徒ではないしエルサレムに行ったこともない。イエスの死後,帝都ローマにまで広がってきた”救済の思想(すべての人間を救う宗教)”の信者として自分たちも集まり、勝手に教団を名乗ったのだ。この真実も「マリアの処女懐胎」などとともに、ローマ教会にとっては口にしてはならないスキャンダルだ。

    ニーチェは、イエスという人を、ただの人間で、ただの男なのだと知っている。ローマ・カトリック教会が神棚に飾って創作して広めた、その後のキリスト教というのはウソなんだ。
    ただの大工のヨゼフとマリア、ではなくて本当はそれなりに裕福な家で、その子供だった。そうでなければ読み書きなどの教養が身につかない。ある程度の上級市民ので出ないと、他の人達がその言動を尊敬しない。イエスは決して粗野な出の人間ではない。
    ローマ・カトリック教会が、人間を奴隷にする思想を作ったのだ。「弱い者、虐げられた人々、ほど神に愛されている」という巨大なウソを作って振り撒いた。同情、哀れみ、恩寵(神からの愛)、慈愛などの教え(教義)で、世界を支配した。この偽善宗教をずっと、じっと厳しく見ていて、その本性を見抜いた。だから、他人に簡単に同情(憐れみ)なんかするな、と断言したのだ。
    他人を憐れむな(同情するな)といったニーチェ
    共感、憐れみ、同情心に反対する。―—君たちのその真面目さが、、どんな軽薄さよりも危険な者に思える瞬間である。
    君たちは、できることなら……苦悩という者をなくしたいと望んでいる。―—私が望む者は、むしろ、これまでになかったほどに自分の苦悩を強くし、辛い者にすることだ❕ 君たちが考えている人生の無事息災なる者は、それは生きる目的ではない。それは私には生きることの終わりに思える❕
    それは、人間がたちまち笑うべき存在、軽蔑すべき存在となり下がる状態である。――人間が己の没落を願うようになる状態である!苦悩がもたらす鍛錬。大いなる苦悩がもたらす鍛錬。――こうした自己鍛錬(試練)だけが人間を高める者であることを、君たちは知るべきである。

    第3章◆邪教としてのキリスト教と戦ったニーチェ
    キリスト教は精神病、精神病院だ
    適菜収は、ニーチェ思想の中心部分を次のように訳している。
    (キリスト教は邪教です!)
    二千年間も続いてきた、まるで精神病院のようなキリスト教の世界・・・・・・わたしは人類が精神病院になってしまった理由を、人類にせいにしないようにと気をつけている……この現代において、キリスト教を信じているのは、本当に許されないことなのです。
    怒りを通り超えて吐き気さえもよおしす。・・・・・・キリスト教の神学者や僧侶、法王のことばは、すべて大ウソであるという常識は、現代に生きるみなさんはぜひとも承知しておいてもらいたい。まあ、奴ら(キリスト教の僧侶たち)だって、「神」がいないことくらいわかっています。「罪人」「自由意志」「道徳的世界秩序」などがデタラメだということも。・・・・・僧侶(なる者)の正体も明らかです。彼らは最も危ないタイプの人間であり、他人の人生にたかる寄生虫なのです。

    「神聖に大ウソをつく」というキリスト教の技術は、ユダヤ民族が数百年(数千年ではない。本当にたかが数百年だ)にもわたって作りあげてきた者です。・・・・・
    そういったデタラメな者に、全人類、そして最高に頭のよい人たちまでがダマされてきました。
    これまで、「新約聖書」は純真で清らかな書物とされてきました。これは人をダマす高度なテクニックがあった証拠でしょう。
    キリスト教のバカたちは「裁いてはいけない」などといいます。が、彼らは自分たちの邪魔になる者は、すべて地獄へと送り込むのです。彼ら(キリスト教の僧侶)は、「神が裁く」といいますが、実際には彼らが裁いているのですね。・・・・・・
    「新約聖書」は「道徳」で人をおびき寄せます。
    「道徳」は、下らないキリスト教の僧侶たちによって、差し押さえられました。彼らは「道徳」を利用して人々を支配できることを知っていたのですね。・・・・・
    ほとんど妄想の世界です。・・・・・
    こうして精神病院に入れられるべきユダヤ人達は、自分達に都合がいいように、あらゆる価値を捻じ曲げていきました。
    このようなことが起きたのは、誇大妄想を持つユダヤ民族がいたからです。
    ユダヤ人とキリスト教徒は分裂しました。が、やったことはまったく同じこと。
    キリスト教徒とは、ちょっと自由になったユダヤ人に過ぎないのです。

    キリスト教の敵は「現実」
    第一に、「神」「霊魂」「自我」「精神」「自由意志」などといった、ありもしない者に対して、本当に存在するかのような言葉を与えたこと(大きなウソということ)
    第二に、「罪」「救い」「神の恵み」「罰」「罪の許し」などといった空想的な物語を作ったこと。
    第三に、「神」「精霊」「霊魂」など、ありもしない者をでっちあげたこと。
    第四に、自然科学をゆがめたこと。彼(キリスト教)の世界観はいつでも人間が中心で、自然という者を少しも理解していなかった。
    第五に、「悔い改め」「良心の呵責」「悪魔の誘惑」「最後の審判」といったお芝居の世界の話を、現実の世界に持ち込んで、心理学をゆがめたこと。
    まだまだありますが、ざっとこのようになるのではないでしょうか。
    こうした空想の世界は、夢の世界とはまた別の者です。夢の世界は現実を反映していますが、彼ら(キリスト教)の空想は、現実を捻じ曲げ、価値をおとしめ、否定します。
    キリスト教の敵は「現実」です。なぜなら、彼らの思い描いている世界と現実はあまりにもかけ離れているからです。彼らは現実が辛いから逃げているにすぎません。

    私は、パウロが言った貴重な言葉を思い出します。
    「神は、世の中の弱い者を、世の中で愚かな者を、軽く見ている者(たち)を、(神によって最も愛される者として)お選びになる。」
    まさに、これがキリスト教の核心なのです。これによってキリスト教は勝利しました。
    私たちは、「十字架にかかった神」という象徴の後ろに隠された、恐ろしい目的に気づかなければなりません。「十字架にかかる者は、すべて神のような存在である。我々(すべての人間)は十字架にかかる。それなので、我々のみが神的である」
    (このようにして)キリスト教が(ギリシャ時代の)高貴な思想を滅ぼしたのは、人類最大の不幸でした。

    ミケランジェロが描いた「最後の審判」のパウロとペトロの悪人面こそは巨大な事実だ。
    人間は、ひとりひとりが自分が受け入れて承認し、納得がいったことでないと、どうせウンと頷かない生き物だ。私はこの点で人間なる者を信頼している。
    そのために私がやるべきことは、説得することだ。説得することこそは、人間がやることだ。本を書く、ということは、相手(読み手)への説得だ。

    キリスト教も社会主義も理想社会の実現に失敗した。
    ニーチェがはっきりと書いている通り、労働者(ワーカー)たちは、それぞれの自分の仕事(労働)をすることで、その中で仕事の達成感と社会参加(仲間たちとの交友)、で喜びを感じていればいい。「それを、使用人(労働者たち)を主人(経営者、金持ち)にしよう、というのは間違った考えだ」とニーチェは言った。
    貧しい者たちの解放を唱える社会主義者の思想は、「貧困者たちこそ天国に一番近い」「貧しき者たちほど神に愛されている」としたローマ教会キリスト教の巨大な偽善とまったく同じだと、ニーチェは激しく言い切った。現実の世界にはありもしない、実現することもできないを求める、人類の理想社会の実現を求める宗教である、とニーチェは言い切った。

    キリスト教こそは、罪と悪の二つを創作して、人類を奴隷にした。
    世界史の年表の中に、ラテラーノの名がでてくるのは、1517年(ルターの抗議の年と同じ)ラテラーノ会議で、「利子付きの貸金を教会は認める」と決議している。このときをヨーロッパ近代(モダン)の始まりとして良いだろう。利子を取る者(強欲の金貸し業者)を認めることと資本主義の肯定は同じことだ。
    パウロとペテロが、人類の善と悪をも創始したのだ。「善」と「悪」の二元対立として人類に圧し付けたのはローマ教会キリスト教である。
    それまで人間は、悪を自覚していなかった。質の悪い者、劣った者、怠惰、ウスノロを、生産性(能力)が低いこととして、低く見るだけだった。ところが、やがて悪であると決めつけて非難し断罪する文化をキリスト教が作った。そして悪の対極にある善に良品質や高性能の者、よく働く人や利益になる者を含ませた。
    人類に対して押し付けたこの「善と悪」の向こう側に、本来の人間の生きることの喜びがあるとして、「善悪の彼岸」を書いたのだ。
    善と悪さえもキリスト教が作った、現在、善(グッド)と悪(バッド)と呼ばれるものは西洋式(西洋文明)である。これとは別に「正しい」(正解)と間違い(誤謬)の区別」も有る。私達の頭の中に規制した考えであり、害悪であることが分かる。
    「悲劇の誕生」で、キリスト教が定めた「善と悪」による人間支配、洗脳を早くも否定している。そして、「人生は楽しむためにあるのだ。快楽を認めろ」と反撃した。苦労も憎しみも屈従もいらない。それが、ディオニュソス的なる者、およびアポロ的なる者だ。それに対して、人間すべてに忍従と苦労と、神への屈従と隷従を強いる。

    第4章◆ニーチェが生きた西欧19世紀という時代
    イエスが処刑されて死んだのは紀元後30年4月5日である。その後生き返って、40日間ぐらいあちこちに現れてウロウロした。それが43日後の5月20日ぐらいである。

    第5章◆炎の文献学者ニーチェ
    ギリシャ人は、なんと、「最もよきことは、この世に生まれないこと。だから、次善は、早く死ぬことだ」という至言を生み出した民族だ。「人は生まれなければよかった。だからさっさと死ぬべきだ」という恐ろしい言葉をギリシャ文明は一方で隠し持っている。この苦痛ばかりである一生を耐えうる者にするためには、ぞっとする死の深淵と関わること。そして、終わることのない生命(生活)の苦痛があるからこそ、ギリシャ人は明るく輝く芸術の神殿を建てた。芸術こそは、人間の生を生きるに値する者にするための企てである。
    ディオニソス的とアポロ的の、2つの、すなわち退廃(淫靡)と健康(光輝)の2つの芸術がギリシャ悲劇の中で対立したまま融合していることを「悲劇の誕生」で証明した。
    アポロとアポロンは異なる。アポロはオリンポス12神の一人でゼウスの子だ。太陽神ともされ、明るく輝く美男子の青年だ。それに対してアポロンは地獄の悪魔のひとりである。この区別はなかなか難しい。

    第6章◆闘う預言者ニーチェ
    ヘロドトスやプラトンを読んだ。尊敬しているヴォルテール、歴史学者のランケたちの本
    モンテーニュとパスカルとノヴァーリスが築いた、アフォリズムという文学形式を体得した。モンテーニュとパスカルこそは、反カトリックの最も先鋭な自由思想家だ。

    「同じことの永遠の回帰」は、そこから逃れることができない苦痛のニヒリズムとして本当に恐ろしいものである。自分の病気がまさしくこれだ。しかし、同時に、あるがままの自分の生を英雄的に受け入れ肯定することが崇高なのである。能動的ニヒリズムと、生きることの絶対的肯定は、ニーチェの場合、反ローマ教会の思想と常に対を成している。

    ペシミズム(悲観主義、弱者の思想)を克服することに本気になった。ここで「運命愛」という言葉を打ち出した。運命への愛。自分の苦しい運命を自ら引き受けること。たとえどれほどの苦痛があろうとも自分の生を肯定することだ。それは打算的で計算づくの生き方の範囲をさらに超えることだ。生の肯定は、人間の厳しい「決意」によるものである。世の中が自分を悪しざまに扱ったからと言って、自分の人生を罵り自称するのは、間違っている。それは不自由で卑しい、奴隷の人間の徴である。自由で誇り高く、勇敢な人間は、たとえ、愛も信頼もなくしたときでさえ、自分の人生を愛し、信じる。したがって、ペシミズムとニヒリズムを克服することは、思想の課題ではなく、ひとりひとりの人間の問題である。
    ニーチェはひとりひとりの人間の価値を、その人が持つ道徳心の高さから測定(評価)することをしなかった。そうではなくて、その人が自分の人生に持つ「(運命愛)」の能力で評価した。「こんなに苦しくても、それでもなお、自分は今のこの人生を生きる!」と言い切ることができる者、自分の人生を前に踏み進むことができる者のみが、永劫回帰にも耐えることができる。
    ある生き方の態度は気高く、自由で、勇敢で、高貴である。それに対して、ある生き方の態度は卑劣で、臆病で、下劣だ、と。フランス人的なモラリストなのである。いわゆる道徳の重視などしない。宗教的道徳に怒って、これを打ち壊す知識人たちだ。フランスのモラリストたちとは、反(アンチ)モラリストなのである。

    「権力への意志」「超人」「運命愛」「同じことの永劫回帰」ニヒリズムそのものの強い肯定がある。そして、そのうえでこのニヒリズムからさらに強いものとしてニヒリズムそのものの克服が同時に表現されている。
    自分の運命に耐えることがニヒリズムの克服の最初の一歩だ。「それにもかかわらず」すなわち、圧倒的苦痛にもかかわらず、それでもその苦しみを受け入れる運命への愛である。

    「神は死んだ」
    「超人」の思想とは、社会ダーウィニズム(強者が生き、弱者は滅ぶ)的な「自然淘汰」の肯定だとも理解される。すなわち、「弱い者は滅びてしまえ。強い者だけが生き延びるのだ」と。「神が決めるのではない。人間が決めるのだ」。人間が存在することの目的は、人間自身の責任となった。もう神のせいにはできない。神の支配を拒絶した人間は、以後、自分自身を上に超えて高まらなければならなくなった。この「上昇」(より上を目指すこと)が重要である。魂の向上、上昇を常に追い求める。敏感で、病弱な人間が、燃えるような情熱を抱いて、精神と生命が結びついている「健全な人間」の像を追求する。

    戦争に従軍し、体験したことから得た、この現実は、悲惨な生存競争ではなくて、激しく人間の生(生きること)を肯定すための闘争そのものなのだ、と理解した。これが「権力への意志」だ。
    この荒々しい、まさしく粗いこの世の現実から目を閉ざすまいとした。彼はこの「どうせ人類は戦争(戦い。血みどろの争い)をこれからも繰り返すのだ」という現実に耐え、それどころかそれらを承認し、受け入れる。そして前述した「超人」の、上の方へ上の方へ上昇する意志(精神の兄弟か)として、この悲惨な現実を肯定すべきだとした。弱者(弱い人間)は常に脅えている。この弱者の思想がルサンチマンである。弱肉強食の法則によって、常に喰い殺される側にいる弱い者たちが、ひがみ根性として歪んだ精神から生み出したのがルサンチマン(怨念、妬み)の思想だ。ルサンチマンから生じる復讐心が、弱者と病者と心配性(ビクビクいつも怯えている)のイデオロギーだとしてニーチェは、その正体を暴いている。
    「弱い者、恵まれない者こそ、最も神に愛されている」というのは倒錯である。この盗作した価値に対して、ツァラトゥストラは、それと対決する価値の一覧表を提起する。それは強い者こそが真であり、善である、とする権力への意志の表現である。この正直さと篤実さをこそ誇りに思う。そしてキリスト教の愚劣な遺産と戦うことを誓う。

    第7章◆「狂気の破壊者」と見られて死んだニーチェ
    ニーチェにとって、燃え上がるような健全な生命の上昇、力強さ、逞しさが素晴らしさの尺度である。

    ニーチェ年譜

    あとがき
    何のこっちゃ、と戸惑い訝しく思う人が大半だろう。だが、そのうち分かる。ひとりひとりの人間が、その人の頭(おつむ)の理解力に合わせて、少しずつ分かってくれればよい。大きな構図で、人類史の巨大な真実があらわになってゆく。そのために時間がこのまま立ってゆく。それはそれで致し方ない。

  • 明日、新しい時代である「令和」を迎えるにあたり、部屋の片隅に読みかけとして置かれていた本を一斉に整理することにしました。恐らく読み終えたら、面白いポイントが多く見つかると思いますが、現在読んでいる本も多くある中で、このような決断を致しました。

    星一つとしているのは、私が読了できなかったという目印であり、内容とは関係ないことをお断りしておきます。令和のどこかで再会できることを祈念しつつ、この本を登録させていただきます。

    平成31年4月30日(平成大晦日)作成

  • 副島さんによるニーチェ紹介と、ニーチェ翻訳本の紹介本。
    流し読みしないで、とあったけど流し読み。全部読むのはしんどい。でも内容的には半分くらい面白い。

    君たちはみんな奴隷なのだ。うまい具合に「社会システム」と「教育制度(能力選抜制)」で洗脳され、奴隷にされ、時給1200円くらいで働かされている。あるいは「反抗しても仕方ない」とコソコソスマホの世界に逃げ込み、SNSやらソシャゲで愚痴るだけ。若いサラリーマンもブラック環境で労働するだけ、考える暇も与えないように働かされている。ローマ教会キリスト教(中枢はイエズス会)が根源となっている、たくさんの規制や法律にがんじがらめにされ、嘘ばっかりで塗り固められた世界は壊すべきだが、それは簡単ではない。まずは、「もう奴隷はやめる。会社と社会の両方から騙されない。」と気づくことだ。

  • 副島隆彦氏のニーチェ入門本。ニーチェの人となりや交友関係の紹介に重きを置くとともに、「ツァラトゥストラ」のような主著よりも、「アンチクライスト」、「悦ばしき知識」「この人を見よ」などのニーチェの思想の核心がより明示的に語られている本の主張を紹介している。
    ニーチェは、キリスト自体を尊敬してはいたが、キリスト教(実質的にパウロ・ペテロ教、特にローマ教会カトリック)の善悪の設定にとらわれず、自分自身の運命を引き受け肯定すること(自己愛amor fatiと円環の永遠回帰の思想)を主張した。なお、ニーチェの説く善は、古代ギリシャのディオニソス的で人間の悦び、快楽を追求するが、同時にアポロ的(健康、健全)で過度を戒めるものであった。
    それは別の宗教の提示ではなく、自分で善悪を自己決定する態度の奨励であった。

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著者プロフィール

副島隆彦(そえじま たかひこ)
評論家。副島国家戦略研究所(SNSI)主宰。1953年、福岡県生まれ。早稲田大学法学部卒業。外資系銀行員、予備校講師、常葉学園大学教授等を歴任。主著『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』(講談社+α文庫)、『決定版 属国 日本論』(PHP研究所)ほか著書多数。

「2023年 『大恐慌と戦争に備えて 個人資産の半分を外国に逃がす準備を!』 で使われていた紹介文から引用しています。」

副島隆彦の作品

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