修身教授録 (致知選書)

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著者 : 森信三
  • 致知出版社 (1989年3月1日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (531ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784884741723

修身教授録 (致知選書)の感想・レビュー・書評

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  • 国定の修身の教科書を良しとせず、自身で項目を立て、授業を行ったことがすごい。自分で一つの体系を立てるにはその十倍は学んでいなければならないと思うので。

    ちょっと生い立ちがあれで自分の道徳観は置いておいて、生き方の本を読むとサービスについて考えが広がることが多い。接客つまり人と接する時にはその人の人生観がどうしても現れる。今ある、目の前の事、目の前の人にどう接するか。そこにその人が現れざるを得ない。
    教えることと学ぶこともある意味人と接することで、二人の人の間に起こる何かが接客の本質である。そういう視点からも興味深く読みました。

    ・われわれ人間は自分がここに人間として生をうけたことに対して、多少なりとも感謝の念の起こらない間は、真に人生を生きるものとは言いがたいと思うのです。それはちょうど、たとえ食券は貰ったとしても、それと引き換えにパンの貰えることを知っていなければ、食券も単なる一片の紙片と違わないでしょう。

    ・たとえばマラソン競争などにしても、諸君らはその全体の距離なりコースなりを、あらかじめよく知っていればこそ、最後まで頑張りもきくのですが、もし決勝点も分からず、またそこへいく道行きも、果たしてどの道を行ってよいやら分からなかったとしたら、いかに走れと言われても、最後まで頑張り通すことはできないでしょう。

    ・たとえば諸君が、少し遅れて食堂へ行ったために、ご飯が足りないとしましょう。三杯食べたが、もう一杯食べないことには、どうも腹の虫がおさまらないというような場合、いつものように担当者を呼んで、ちょっと文句を言おうとしたのを「イヤちょうどよい機会だから、一つ我慢してみよう」と決心して、我慢するんです。
    ところが、人間の気分というものは妙なもので、一杯いや半杯のご飯でも、その足りないことを他人のせいにしている間はなかなか我慢のしにくいものです。ところが心機一転して、「どの程度こらえることができるか、一つ試してみよう」と、積極的にこれに対処するとなると、それ程でもないものです。

    ・たとえば今卑近な例をあげるとして、仮にここに守口大根がつくられているとして、もしそれを粕漬として売り出せば、他にはない名古屋名物となりますが、それをそうしないで煮て食べたとしたら、それは普通の大根程の値打ちもないことになってしまいます。
    このようにすべての物事は、そのものの意味を認めることの深さに応じて、その価値は実現せられるのであります。一個のものでさえそうです。いわんや一人の人間の生命に至っては、なるほどその寿命としては一応限度がないわけではありませんが、しかもその意義に至っては、実に無限と言ってもよいでしょう。

    ・もし梯子段を上に登ることばかり考えて、そのどこかに踏みとどまって鉱石を掘ることに着手しない限り、一番上の階段まで登って、たとえそれが金鉱のある場所だとしても、その人は一塊の金鉱すらわが手には入らないわけです。
    これに反して、仮に身は最下の段階にいたとしても、もしそれまで梯子段の上の方ばかりにつけていた眼の向きを変えて、真っすぐわが眼前の鉱石の層に向って、力の限りハンマーをふるって掘りかけたとしたら、たとえそれは金鉱や銀鉱ではないとしても、そこには確実に何らかの鉱石が掘り出されるわけであります。すなわちその鉱石の層が鉛ならば、そこに掘り出されるものは鉛であり、またその鉱石の層が鉄鉱ならば、そこには確実に鉄鉱を掘り出すことができるわけであります。

    ・なるほどわれわれは、維新前にはかくの如き人々を多く持っていたのです。あるいは藤樹先生と言い、あるいは梅岩先生、尊徳翁と言い、近くは松陰先生と言い、その他枚挙に暇ないほどであります。
    しかるに明治以後国民教育の制度が完備するに至って以来、かえって私たちは国民教育者として、身をもって一道を切り開いた一人の巨人あるを知らないのであります。

    ・松陰先生が、いかに優しかったかという一つの逸話として、十一、二歳の小さな子どもが、書物挟みといって、今日の鞄の代わりに板の間に本をはさんで、それを肩からつるして帰る時、先生はご自身に見送って出られて、手ずからこれを肩に掛けてやられて、「無事に帰って明日またおいでよ」と言って、軽く背中を叩いてやられたということです。

    ・自分がからだをもって処理し、解決したことのみが、真に自己の力となる。そしてかような事柄と事柄の間に、内面的な脈略があることが分かりだしたとき、そこに人格的統一もできるというものです。だが教室では、こういう教育はできません。教室でできることは、せいぜいその図面を示す程度のことです。

    ・人間も自己を築くには、道具やこつが必要です。この場合道具とは読書であり、こつとは実行をいうのです。この二つの呼吸がぴったり合うところに、真の人間はできあがるのです。

    ・人生は、ただ一回のマラソン競争みたいなものです。勝敗の決は一生にただ一回人生の終わりにあるだけです。しかしマラソン競争と考えている間は、まだ心にゆるみが出ます。人生が、50メートルの短距離競走だと分かってくると、人間も凄みが加わってくるんですが。

    ・池田師範には、博物方面に出色な卒業者が多いようです。それはあそこには、検定出身ではあるが堀勝といって、なかなかしっかりした先生がいられるからです。諸君らもこのように、他の学校の教師から、「あそこには誰がいる」と噂されるくらいの人間にならねばいけないのです。

    ・大事なのは、このような社会上の地位の上下というものは、必ずしもその人の、人物の真価によって決まるものではないということです。むしろそれよりも、その人の学歴とか、あるいは年齢というような、種々の社会的な約束によって決まる場合の方が多いと言ってよいでしょう。
    また実際問題としては、一応そうするより外ないとも言えるのです。それというのも、人間の価値いかんというようなことは、人によって見方も違って、なかなか決定しにくい事柄だからです。そこで今その人の人物の価値を標準にして、尊敬するしないということになると、社会の秩序というものは保ちにくくなるのです。

    ・苦しみに遭って自暴自棄に陥るとき、人間は必ず内面的に堕落する。…同時に、その苦しみに堪えて、これを打ち越えたとき、その苦しみは必ずその人を大成せしめる。 ―ペスタロッチー

    ・人間苦しい目に出遭ったら、自分をそういう目に遭わせた人を恨むよりも、自分のこれまでの歩みの誤っていたことに気がつかねばなりません。かくして初めて自分の道も開けるのです。また人間の内面的な強さや、しなやかさも、かくして初めて鍛えられるのです。

    ・ただ現在自分の眼前に、ちょこなんとして腰かけている子どもたちに話しているだけでなく、その背後には、常に二十年、三十年の後、かれらが起ち上がって活躍する姿を思い浮かべて語る、という趣きがなくてはならぬでしょう。すなわち諸君らが、かくあれかしと思う姿をその心中に思い浮かべつつ、教えなくてはならぬでしょう。

    ・人間も精神的に生きるんでなくて、物質的に生きるなら、少なくとも数十万、否、百万円(現在の数十億円)の金を動かすんでなくてはやり甲斐はないでしょう。少なくとも私だったらそうですね。諸君!しっかりしなくちゃいけないですよ。それには何と言ってもまず読書から始めるんですね。

    ・人生を深く生きるということは、自分の苦しみ、すなわち色々な不平や不満煩悶などを、ぐっと噛みしめて行くことによって、始めのうちは、こんな不幸な目に出合うのは自分だけだと思い、そこでそのことに関連のある人々に対して、怒りや怨みごころを抱いていたが、しだいにそうした苦悩を噛みしめていくことによって、かような悩みや苦しみを持っているのは、決して自分一人ではないということが分かり出して来るのです。そして広い世間には、自分と同じような苦しみに悩んでいる人が、いかに多いかということがしだいに分かり出して来て、さらに、それらの人々の悩みや苦しみに比べれば、自分の現在の悩みや苦しみの如きは、それほど大したものでもなかったということが、分かり出して来るのです。
    かように、自分の悩みや苦しみを噛みしめていくことによって、周囲の人々、さらにはこの広い世間には、いかほど多くの人々が、どれほど深い悩みや苦しみをなめているかということに思い至るわけです。私には、人生を深く生きると言うても、実はこの外にないと思うのです。したがって人生を生きることの深さは、実は人生を知ることの深さであり、人生を内面的に洞察することの深さと申してもよいでしょう。

    ・批判的態度というものは、ちょっと考えますといかにも鋭そうですが、実際はその人が大して欲のない証拠です。ちょうど聖人に対するのに、その容貌を見ないで、臀部を見ているのと同じです。
    聖人にも肛門はあります。しかしそういう見方は、相手を傷つけるというよりも、むしろ自己そのものを傷つける態度です。

  • 読むたびに、人生一度、真面目に生きなくてはいけない、という思いを新たにできます。日本にはこんなに昔から今に通じる啓発があったという事に驚かされます。

  • 張りつめた清澄な講義、込められた情熱と気迫
    素直に流れこんでくる言葉に、圧倒され、畏敬の念を抱き、惹き込まれていく

    この本の講義は、第1講から頭をがつんとなぐられたかのような衝撃とともに始まりました。いきなり、自分の至らない部分に言及されたからです。

    「いかなる場合においても、大よそわが身に降りかかる事柄は、すべてこれを天の命として慎んでお受けするということが、われわれにとっては最善の人生態度と思うわけです。
    ですから、この根本の一点に心の腰のすわらない間は、人間も真に確立したとは言えないと思うわけです。」

    もっと早く出会いたかった師
    若い頃に出会っていたら、間違いなく人生変わっていたのではないかと思われます。
    それとも、今この年齢だから、一言一言が心に染み入るのでしょうか。

    人生に処する知恵がぎっしりつまっているので、素早く読み進めることはできません。
    一講一講、背筋を伸ばしてじっくりと読まなくてはいけない
    一日一講、自分でも考えながら、大切に咀嚼していかなくてはいけない
    そんな気持ちにさせられます。

    昭和12年頃の講義なのに、まったく古く感じることがないどころか、時間の経過とともに輝きを増しているように思えます。人として大切なこと、そんな先生の教えは普遍のものなのだということがよくわかりました。

    人としての修行は一生涯続きます。
    そのための人生の指南書として最適だと思います。
    学生向けなので、平易な言葉でわかりやすく、それでいて大人をも感動させる深い叡智・・・
    幅広い年代の方にお薦めできます。是非読んでみてください。

  • 稀代の教育者・森信三先生の講義をまとめた書。まるで自分が森先生の講義に参加しているかのような雰囲気を持ち、教育者を目指す者にとっては心躍るお言葉ばかりである。

  • 8/14再読

  • 人としての生き方の指針として、多大な影響を受けている。

  • Jさんおすすめ

  • 量的に読み応えあり、読み返して、その時の自分に応じて得ることが多いと思われます。図書館で借りたのですが、できれば手元に置いておきたい一冊です。

  • ほぼ治っていたが、風邪が治った後も咳を一週間位引きずっていた。本書を読み、最初は「大切な事が書いてあるが、とは言ってもねぇ・・・」とぴんと来なかったり、実践には移そうと思わなかったり、していた。が電車内で全部読み終わって。家まで歩いているときに、ふと思い出しそう言うことか!と雷に打たれた衝撃。

    「武道の有段者は風邪を引くのも恥と思え」
    最近、よく体の調子を崩すなと思っていたが、自分がダレていたからか。気を張って生きていれば、体調など壊さないし、仕事の効率も断然違う事を思い出す。以前特別な環境にいたから「ゾーン」に入り過酷な環境でもハイパフォーマンスを出せていた思い出が頭に蘇ってくる。なるほど、別に特殊な環境じゃなくても、普通の日常で気を張ってあのモードになれば良いのだと。
    長時間気を張っているのは難しいかもしれないが、どれくらいあの状態に近づけた状態を維持できるのかをやってみることに。

    「寒いと言わなくなったら、おそらくそれだけでも一流の人間になれると言ってよいでしょう」
    なるほど、同じ様に、暑い、怠い、疲れた、眠い、早く!も禁句にしよう。

    何か長い本の中の短い言葉が、私の中の何かを刺激し、行動を変えたくなった一冊。
    内容としては、教育者になる学生さん達への哲学書。

  • ・教える道は、学ばなければ。

    ・目の前の仕事を一生懸命

    ・下座行

    ・上位者に対する心得

    ・二宮尊徳

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