- Amazon.co.jp ・本 (176ページ)
- / ISBN・EAN: 9784894161061
感想・レビュー・書評
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要するに悩み多い自分自身を受け入れようということだと思う。そう思うと気が楽になる。
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ただ、阿弥陀仏の本願に身を任せなさい。生きているうちは煩悩に悩まされるのが当たり前だから、という事なのだと感じました。
私のような小心者は、本当に本願にお縋りするだけで良いのかと思ってしまいますが、それこそが本願を疑う事になってしまうので、難しいものです。 -
歎異鈔について知りたくて読書。
同書を座右の書に挙げる人は多い。本書の解説本を読ませてもらうのは数冊目。解説書毎に感じる感想は多少異なるが、幹の部分は共通している。
帰国したら本願寺系の寺院を訪れたいと思う。
そしていつか原文もぜひ見てみたい。
読書時間:約50分-
2015/07/08
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だいさん、
コメント有り難うございます。
中高時代に古文の原文丸暗記ってやったと思うのですが、無意味のように思えて実はとても意味があ...だいさん、
コメント有り難うございます。
中高時代に古文の原文丸暗記ってやったと思うのですが、無意味のように思えて実はとても意味があるのかもしれません。2015/07/18
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とにかく平易。
注釈は最小限で、細かな学説の分岐には立ち入らない。
まず歎異抄の内容を一読したいという場合にお勧め。
書き下し文+現代語訳という構成。
原文は掲載されていないので、解説書の座右とするには心許ない気もするけれど、大抵の解説書には原文が掲載されているから、問題ないとも思う。 -
多分 日本最大の宗教、浄土真宗の背景が理解できる
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「信じる」とはどういうことか。その親鸞の姿を唯円が伝えている。ただ、現代においてはそれを理解できる人は随分少なくなっているのではないか。
「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈やことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。」(p16「第二条」) -
私は出身が龍谷大学なので『歎異抄』は必修科目だから、仏教専攻ではないにもかかわらず内容は知っていた。それどころか授業と関係なく家で読んでいて涙を流すというようなこともあった。
卒業して15年経って、真宗のしの字もなくなった今、どうして歎異抄を購入しようと思ったのか、自分でもよく覚えていない。3年ほど前から、昨今流行りの「マインドフルネス」をしていて、それの影響であろうか。「マインドフルネス」は瞑想から宗教的な要素を抜いた、科学的根拠のある心のトレーニングと言われている。でも、ずっと瞑想をしていたら、やっぱり「宗教」的なところに触れたいということになってきたのである。それで、自分が宗教書の中で感動をしたことがある本書『歎異抄』を手に取った。私はなぜ感涙したのだろうか。その体験についてもう一度考えてみよう、という振り返りをしたいという気持ちもあったと思う。
一日一条声に出して読んで十八条しかないので、一か月たらずで読み終える。読んでいると腰のあたりが誰かに触れられているようにあたたかくなってきて、涙が込み上げてきた。学生時代とまったく同じである。そのときとは違うのは、この『歎異抄』が仏教のなかで、かなり「ラディカル」な立場だということを気づきながら読んだ、ということだ。学生時代はこれが最初の仏教書だったので、これが当たり前だと思っていた。仏教史に照らして、その特異性について、理解はしていた。とはいえ、その流した涙については同じなのであるが。
ではどこがラディカルなのであるか。それは「他力」の思想である。マインドフルネスをしている。そうすると、体調がよくなる。集中力もあがる。頭の回転もよくなる。言語表現も活発になる。仕事もうまくいく。他人の考えも読める。人間関係がよくなる。あとタバコも酒も辞められた。早寝早起きできる。運動大好きになる。いいことづくしだ。瞑想はいい!という私に対して「だからどうなるというのだ」と言うのである。それでギクッとなるのである。
マインドフルネスは「気づく」ということ、物事をありのままに「観察」するということだ。人生の諸々のドラマをカメラマンとして撮影しながら生きるようなものである。そうしていると、あたかも部外者であるかのように、生きるようになる。で、それで歎異抄は「だからどうなるというのだ」と言うというのは、「観察しながら生きているとしても、あなたは人生の登場人物なんです」というわけだ。どこまでもそのドラマからは抜け出すことはできない、という。そのドラマのストーリーにまきこまれ、登場人物としてのキャラをまっとうせずにはおれない、この運命のようなものを「宿業」という。親鸞のことを信じるか? はい。 では、私の言うことは何でも聞くか? はい。では、いまから人を千人殺してこい。それは無理です。そうだろう、そのように、悪を行うのはその人の意志ではない。それは前世から決まっているのだ。
そういうところで、自分の傲慢さというものに気づかされて、じわっと心がゆるんでいき、善悪を越えたところへ、ひらいていく。それで私は涙をながす。善悪を越えた、というが、それは「超越」というような堅く崇高なところではなく、深くじわっとした水のような「浸透」のような感覚である。「ラディカル」と言ったのは、私の日常の感覚からかけ離れているという意味、でもある。しかし、もう一つあるのが、親鸞の生きた「時代・場所」としてそれが「ラディカル」な思考を求めたということ。今言った「浸透」ということが、東アジア「日本」の湿潤な気候と大いに関係していると思われる。そして、平家を源氏が滅ぼして鎌倉時代にはいっていったその「中世」ということとも関係があるだろう、と感じた。阿弥陀仏が救うのは「親鸞一人がためなり」と言ってみせた個性的な仏教が、最も数の多い信者を獲得していく逆説をここで語るまい。
今言った「超越」ではなく「浸透」という発想は、書きながら思いついた私の独創である。他の仏教書を読み進めている。『正法眼蔵』『大乗起信論』『金剛般若経』これらの仏典の「個性」について知りたい。他にも『新約聖書』と『クルアーン』も同時に読んでいる。必死に神にすがるというよりは、宗教書の「あじわい」についてこれから書けたらと思う。
ちなみに、本願寺出版社のこれは、龍谷大学の授業で使ったもの。現代語訳がついていてよい。それに400円と安い。まず買うならこれである。 -
あるとき、
僕は浄土真宗の教えに疑問を持ち、それ以来、多くの書を読み仏教の真理を学んできた。
それでも「僕はなぜ毎朝阿弥陀仏にお経をあげ、お勤めをしているのだろう?」という原始的な疑問は拭いされず・・・
久々に歎異抄を手に取った。
目から鱗とはこの事。
まさに今が機縁だったようだ。 -
救い型宗教
他力本願。易行。
阿弥陀→この世界の限りない命と限りない光の働き
南無→念仏。お任せします。
悪人正機説。⇄傍機
正義を振りかざして、自分が正しいと思い込み人を傷つけるのは、正しくない
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念仏することで救われる。
本願他力は確かに誤解されそう。。。