ペール・ゴリオ パリ物語 バルザック「人間喜劇」セレクション (第1巻)

  • 藤原書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (466ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784894341340

作品紹介・あらすじ

パリのヴォケール館に下宿する法学生ラスティニャックは野心家の青年である。下宿にはゴリオ爺さんと呼ばれる元製麺業者とヴォートランと名乗る謎の中年男がいる。伯爵夫人を訪問したラスティニャックは、彼女が、ゴリオの娘だと知らずに大失敗をする。ゴリオは二人の娘を貴族と富豪に嫁がせ、自分はつましく下宿暮らしをしていたのだ。ラスティニャックはゴリオのもう一人の娘に近づき社交界に入り込もうとするが、金がないことに苦しむ。それを見抜いたヴォートランから悪に身を染める以外に出世の道はないと誘惑されるが、ヴォートランが逮捕され、危やうく難を逃れる。娘たちに見捨てられたゴリオの最期を見取った彼は、高台の墓地からパリに向かって「今度はおれとお前の勝負だ」と叫ぶ。

感想・レビュー・書評

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  • あとがきの、物語についての背景の解説部分を先に読んでから読むのがおすすめ。理解しやすくなる。

    主人公が親戚のおばさんの家に初めて行ってみて、そこで言われることが冗談なのか本気なのかがよくわからなくて混乱したけど(本気で言ってた)、そこで出てくる人たちの上下関係が飲み込めれば後はすらすら読めた。
    人間の本音と建て前の駆け引きがすごく面白かった。
    解説にもあるように、登場人物一人一人の背景がしっかり作りこまれてるから、全ての出来事に前後関係があるのが感じられて面白い。
    文章の表現もドラマチックで引き込まれる。

    バルザックをもっと読んでみたくなった。

    ブログでもう少し詳しく感想を書きました。
    https://kon-yorimichi.com/goriot/

  • 「機動戦士ガンダム」シリーズでも、あだち充さんのマンガでも、伊坂幸太郎さんの小説でも。

    「ある作品で主人公だった人が、別の作品に脇役として出てくる。あるいは同じ脇役が出てくる」

    と、いう仕掛。たまにあります。「スピンオフ」というおしゃれな言葉がここ最近はありますね。以前は「番外編」とか呼ばれていた気がします。

    (ちなみに歴史有名人物の物語っていうのは、大きな構造で言うと、全部そうです。
    司馬遼太郎さんの小説やら、大河ドラマやら全部そうですが、「織田信長」という物語を楽しんでから、「豊臣秀吉」という物語に入れば、織田信長が脇役で出てきます)

    フィクションの物語で、この「スピンオフ」「番外編」的な手法を徹底して行った、元祖。オリジン。
    それがバルザックさん。「人物再登場法」と呼んでいたそうです。つまり登場人物の使い回し、「キャラ・リサイクル方法」ですね。

    フランスの19世紀の小説家さんです。本屋さんで見かける代表作がこの、「ゴリオ爺さん」。
    長編・短編織り交ぜて、かなり多くの作品を書いているのですが、それらは(例外はありますが)全てが、同じフィクション世界を共有しています。つまり、ある大長編の主人公が、別の短編でチョイ役で出てきたり。ある長編で脇役だった老人がいて、別のある短編の主役である青年がその老人の若かりし日の姿だったり。

    そういう仕組みを、大々的に確信を持って10年以上書き続けて成功した、という意味ではバルザックさんが初であり元祖でしょう。こういった作品群を、ご本人は「人間喜劇」というタイトルをつけました。
    つまり、バルザックさんの小説は厳密に言うと、全て、「人間喜劇 ゴリオ爺さん」みたいな感じで、頭に「人間喜劇」が付くことになります。本屋さんではそういう風になっていませんが。



    ビクトル・ユーゴーさん(「レ・ミゼラブル」)やアレクサンドル・デュマさん(「三銃士」)と同世代の人です。
    「レ・ミゼラブル」は映画やミュージカルで十分、「三銃士」は人形劇でいい、みたいに、バルザックさんも、「まあ、今読んでも、本として面白いってことは無いのかな」と思っていたんです。
    ですが細々と長年、本を読んでいると、「どうやら、バルザックさんっていうのはオモシロイようだな」と。
    以前に短編集のようなものは読んだのですが、やはり長編代表作を読んでみたい、と感じていたところ、藤原書店さんから選集が出ていて、全体の責任編集に鹿島茂さんが入っていることを知り。鹿島茂さんは、フランス文学ほかの研究者・大学教員さんであり、長年に渡って安定した人気を誇るエッセイストというか作家さんでもあります。僕はけっこう好きなんです。

    というわけで、鹿島茂さん翻訳「ペール・ゴリオ」。
    これはつまり、「ゴリオ爺さん」です。
    鹿島さんが「とにかくバルザックは面白いから、食わず嫌いしないで読んでほしい!」と随所で書いているんですが、なんとなく「ゴリオ爺さん」より「ペール・ゴリオ」の方が第一印象が良いんぢゃないか?特に若い人には。と、いうのは、良く判る気がします。

    #

    どういう物語世界かというと。

    19世紀、パリ。それなりに政治変動や戦争の時代が終わっています。
    (具体的にはフランス革命があって、ナポレオンの時代があって、その後の「共和制チックだけど一応は王政」という時代です)

    もう新聞などのジャーナリズムがあって。
    演劇を筆頭に娯楽があって。
    会社経営者など「資本家」「勝ち組」がいて。
    一方で一生懸命地道に働いてもどうにもならい「負け組」がいる。
    中世の封建主義が終わりかけ、資本主義が入ってきて、金儲けがとにかく大事である。
    そんな時代。つまり、2017年現在の日本と根っこのところは変わらないんですね。
    (だから、19世紀の世界文学は、それ以前よりもぐぐぐぐっと「今読んでも面白い小説」が多いんだと思います)

    #

    とある下宿屋があります。
    物凄く雑に言ってみれば「めぞん一刻」の「一刻館」の、やや立派版。みたいなものです。
    (たとえが古いか...)
    ここに住んでいる若者ラスティニャックさん。貧しい地方出身の大学生。成り上がりたい。
    そして同じく住人のゴリオ爺さん。長く製粉業者として働いてきて、今はリタイア生活者。
    このふたりが一応は主人公です。

    ラスティニャック青年は、どうにか出世したい。
    イッキに出世するためには、金持ちや貴族の女性(既婚者でも)の夫や友人(または愛人)になる、というのが最短サクセスルートなんです。
    ゴリオ爺さんは、うだつがあがらない年金生活者なんですが、実はふたりの娘をふたりとも貴族や金持ちに嫁がせているんです。
    それを知ってラスティニャック青年は、野心からゴリオ爺さんと娘に近づきます。
    そして、見事そのうちひとりとラブな仲になるんですが、そうなってみて判るのは。
    むすめふたりは、ふたりとも、かつて金持ちだったゴリオ爺さんから、結婚後の今もとにかく金をせびってむしり取り、金だけ貰うとほとんど構ってあげていません。うーん。ちょっと「東京物語」。「リア王」。
    野心家ではあるけれど、若くて純な思いもあるラスティニャック青年は、ゴリオ爺さんのことを哀れにも思ってしまいます。
    ただ、同情する暇もなく、ラスティニャック青年の前には、ファウストのような皮肉と洞察に満ちた謎の男・ヴォートランが現れ、出世への悪魔の計画を囁いてくる...。

    #

    映画の宣伝文句で、「全員、悪人」みたいなのがありましたけれど、それを借りて言うならば、「全員、小悪人(でも時々弱気になると善人)」みたいな感じです。
    一見、社会的にマトモでも、みんな上を見上げて、下を見下し、自分を慰め、金に惑わされ、金に怯えて。
    淋しかったり、自分を肯定したかったり、理知的になりたかったりしながらも、結局は流れに流されて行きます。
    そんな辛くて痛い、かなりひねくれた群像劇なんですが、シリーズを「人間喜劇」と銘打つだけあって、どこか、ちょっと大げさで。ちょっと、滑稽で。ちょっと、ドタバタ喜劇の趣もあります。
    文体としては、地の文、つまり作者がかなり文明批評や人生論を差し込んできます。
    そしてそのバルザックの匂いが、ナレーターとしてのバルザックの「天の声」の存在感が。辛くて痛くても「喜劇である」という救いのフィルターになっている気がします。
    そしてその文明批評、人生論のたくましさや強烈さに、胸打たれて思わず立ちすくむ思い。

    ヴォートランが青年に語る、さしずめ「ヴォートランのアリア」のくだりが白眉なのですが、

    「原理原則なんてものはない。あるのは出来事だけだ。法則なんてものはない。あるのは状況だけだ」

    という一言などは、忘れられません。うーん。確かにその通り。
    まあ、翻訳すれば、
    「結局、仕事だって私事だって、7割~8割は、偶然とか他の玉突きとか、そういう出来事や状況に左右されて行くのが現実である。
    それが現実なのに、あるべき論とか理想論とか俺はこういう人間だとか世界はこうなっているんだとか、知ったようなことを言うのは、所詮結果論のつじつま合わせに過ぎない。
    つまり、自分でコントロールしているように恰好つけたいだろうが、ほとんどのことは、たまたまだったり、ラッキーだったりしているだけだよ」
    みたいな意味なのか?と思ったりします。違うかも知れませんが。



    例えて言うならば、ウディ・アレン映画の醒めたユーモア、人間の欲望絵図の世界観。
    それが源氏物語のように、広がって行くスケール感。
    そうであるかと思ったら、現今のテレビドラマでも通用する、強烈な板挟みのドラマや、家族と死のメロドラマ。
    そしてそれを天蓋のように覆い尽くす、悪魔的なまでに強烈な、絶望と皮肉に満ちた作者のまなざし...。

    まあ、とにかくオモシロイ。にやにやしたり、興奮したり。書いているバルザックの強烈さ、タフさ、体力と精神力の分厚さを思い知るような一冊。

    そして最後に訪れるゴリオ爺さんの死。
    ゴリオさんの娘たちへの盲目な愛情が、死を前にして、一瞬、あまりにも自分勝手な娘たちを呪います。
    「あの子たちは、わたしのことなど愛してなかったんだ!金だ!金!」
    そこまで落ちた挙句に、逝去の寸前に、それでも娘たちに訴える、愛情のことば。やさしさ。

    にんげん喜劇、お馬鹿ものがたりだね、と思っていたら。
    そんなところで棍棒で殴られるかのような、揺さぶられ方。危うく滂沱の涙でした。

    ゴリオ死去。淋しい貧しい葬式の後。
    ラスティニャック青年が、ひとり。
    さまざまな、まさに「人間喜劇」を見させられ、若さや青さ、純情の皮がむけた青年が、パリの町を見下ろして。

    「さあ、今度は俺とお前の勝負だ!」

    このラストシーンは、鳥肌もの。脱帽。
    涙と茫然のラストかと思いきや、そこから勇壮な悪魔のマーチが始まってのエンドロール。たまりません。

    (と、いうわけで、中年となったラスティニャックが再登場し、悪漢ヴォートランも姿を見せる「幻滅(上)(下)」を読まざるを得なくなります)


    備忘録として。

    とにかく脇役のヴォートラン、すごい。
    ミュージカル「ミス・サイゴン」のエンジニアやシェークスピアのフォルススタッフといった系譜の、魅力たっぷりでおしゃべりな悪漢です。ワルです。
    皮肉と諧謔と冷徹な洞察に満ちた哲学と世界観を語り、なぜかラスティニャックに肩入れをします。「出世を手伝おう」。
    なんと、同じ下宿に居る貧しい美少女に、多額の遺産が転がりこむように殺人(仕組まれた決闘)を計画。実行してしまいます。
    そしてこの貧しい美少女は、ラスティニャックに岡惚れしているのです。

    さあ、突如ラスティニャックは、

    A:ゴリオの娘である金持ち人妻の愛人になるか(離婚すれば夫になるかもだけど)
    B:遺産が転がり込む美少女と恋愛結婚するか

    という選択肢。贅沢な悩み。
    で、これは結局、ゴリオ娘との間に愛が芽生えちゃって(そう錯覚して)、そっちを選びます。

    ところが最後に、ゴリオの娘がふたりとも、夫が事業とかに大失敗の借金まみれに。
    もともとが娘自体も放埓な消費生活をして借金があったので、イッキに破産状態。
    その不幸の波に対処できずにこれまた破産状態になった老人ゴリオは脳卒中?で倒れ、危篤状態に。
    その上、愛する娘二人は、自分のトラブルに精一杯で見舞いにも来ない...。
    おろおろと、ラスティニャック青年は、ゴリオの看病をするしかなく...。

  • >4月付け足し
    結局諸事情により購入。
    いま読み返したら、絶対に感触違う。絶対違う。全然違うと思うから(笑)


    【09.1.10/図書館】
    他訳を読んだことがないので比較しようがないけれども、これはとても読みやすいと思う。ずっと読んでても疲れないし。
    鹿島さんは、始めの30ページは退屈でもガマンして読んでねって書いてたけど、最初の30ページが一番面白かった気がする…おや?
    とはいえ、鹿島さんの「目論み」は、成功していると思います。タイトルを、すっかり固定されている「ゴリオ爺さん」としなかったのも、正解だと思うし。

    説明と対談は必読。なるほど!って思うし、頷けることも多い。
    ただ、悪好きな私から見ても、氏が押されるほどヴォートランに魅力があるかどうかは………なんというか、大物に見えないのよね、小うるさくて。
    小悪なら小悪で色々ツボな点もあるし、巨悪は巨悪で魅力バリバリになるはずなのに、この人は大物に見せたいだけにしかみえないっていうか…。どっちつかずというか。

    バルザックの文体が「悪文」だってのは、訳文からも伝わってきた。でも慣れれば平気。
    続き楽しみ!

  • 文学

  • 19世紀パリ社交界の様子がわかる。当時のパリは、フランスの中でも異世界だったようで、そのことも含めてパリの様子がよくわかる。登場人物もそれぞれ魅力的で、ストーリーもおもしろい。最後まで飽きずに読める。が、主人公にせよ、脇役のヴォートランにせよ、当然話の続きがなくては、というところで終わっている。この気持ちに流されるとバルザックの沼にはまるのだろうな、と。恐ろしいことである。

  • 藤原書店の鹿島茂さんの翻訳が決定版。素晴らしいです。
    単にわかりやすいだけでなく、
    他のどの翻訳者よりもきとんとした日本語を書いている。

    あとがきで解説されているように、
    序盤の舞台説明がとにかく長くてわかりにくい。
    情景が全く頭に入ってこず、何度中断したことか。
    それでも諦めきれず、複数の翻訳版を読み比べていく中で
    鹿島さんの訳に辿り着いて驚いた。
    こんなに平易な内容だったんかい。。
    つまり翻訳の問題だった可能性が濃厚なのである。

    事実、バルザックの作品は良い翻訳が少ない事で有名らしい。
    これには翻訳側の言い訳が昔から用意されていて、
    バルザックという作家は、どちらかというと文章が下手な部類で、
    文章の上手さよりも内容の面白さを重視していたため、
    原文がごつごつとしていて翻訳が難しいからだ、
    とのエクスキューズが非常に多いのだが、
    それにしても新潮、岩波の翻訳は酷すぎる。
    私から言わせてもらえば翻訳以前に日本語のセンスがないだけである。

    ***

    さて、約30ページ程続く舞台説明が終わると
    以降はそれまでの読み辛さが嘘であったかのように
    あっという間に読み終わってしまった。

    ストーリーの急展開ぶり、主人公の急成長ぶりは
    漫画を読んでいるようで拍子抜けする部分もあるが
    そう感じさせる程に読みやすいという事だろう。

    バルザックはお金を中心とした設定の話が多く
    この作品だけでも

    ・出世欲に燃える若者の金の無心と良心の呵責
    ・華やかな社交界の生活と貧乏生活
    ・娘を愛する父と、父を金づるとしか見なしていない娘

    というように、金銭がらみの様々な対立軸を設定し、
    登場人物たちの心理をえぐり出していく。
    その残酷な描きっぷりは凄まじく
    読んでいて目眩を感じる程だ。

    まるで予言者であるかのような、
    後のドストエフスキーを予感させるかのような
    異常に丁寧な心理描写は
    あたかも全知全能の神が語っているかのようである。

    死に向かうゴリオの悲痛な叫び、
    エンディング、ラスティニャックの台詞も見事。
    バルザックの天才に脱帽!

    2011-11-01 01:46:07 Twitter、
    2011-11-03 02:06:10 Twitter、
    2011-11-10 16:06:10 Twitterより
    2013-06-15 一部加筆修正

  • <閲覧スタッフより>
    約100篇もの小説に2000人を超える人物が登場する『人間喜劇(La Comédie humaine)』。何人もの登場人物が複数の物語間を縦横無尽に動き回る「人物再出法」と言う手法が特徴的です。『人間喜劇』は、バルザックの射程の広さを実感するオムニバス劇場です。
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    所在記号:953.6||ハオ||1
    資料番号:10121004
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  • バルザックは初めて読んだ。
    馬車の種類が詳しく載っているというので、馬車にそんなに種類があるのかい、どれどれと。
    今までの翻訳は小難しいとか、冒頭40ページくらいが非常に退屈だけれど、鹿島さんの訳がよいので読みやすいとか説明を読んで、鹿島さん訳。
    おもしろいと言われるけれど、冒頭が退屈……の代表格が、『指輪物語』『銀河英雄伝説』だと思う。『指輪~』は一度挫折した。が、こらえて読んでみたら、両方おもしろいじゃないの。
    今回も覚悟して、先に後書き解説読んだら「とにかく冒頭は耐えてくれ」と、ここでもあった。
    が、冒頭もおもしろいじゃない!
    翻訳者の力ってのもあるんだろうなあ。
    ネタばれを気にしないなら、この本は後書きから読んだ方がいい。読みどころを、中野翠との対談で解説してくれる。
    馬車も図入りで解説あり。

    馬車は四輪がクーペ、ベルリーヌ。
    二輪がキャブリオレ、ティルビュリー。

    クーペはベルリーヌ(四人乗り)の前半分を切った(coupe(eの上に斜め払い))という意味で二人乗り。
    ティルビュリーは後ろに従者を立たせる台がない。キャブリオレはある。
    クーペ、ベルリーヌは夜間訪問用。
    キャブリオレ、ティルビュリーは昼間の散策用。
    キャブリオレは二輪無蓋の辻馬車(タクシー馬車)の総称として使われることもある。同様にクーペなどの四輪有蓋車の辻馬車の総称は、フィアークル。

    ペール・ゴリオは「ゴリオ爺さん」という邦題で知られているがゆえに、嫌がって読まない人もいるから、「ペール・ゴリオ」のままにしたという。
    ゴリオ爺さんが主役だが、同じ下宿の青年ラスティニャックの野心物語でもいいし、悪党ヴォートランの物語でもいけますな。

    ゴリオとラスティニャックとヴォートランは同じ下町の下宿の住人。
    ゴリオ爺さんは、ふたりの愛娘のために身代を潰し、それでも着飾った娘を見るのが何より楽しみ。贅沢を覚えた娘たちはフランス社交界入りしても、借金したり父ゴリオの金を搾り取ったりして、尚贅沢を重ねる。
    その娘のひとりに惚れた田舎出の青年ラスティニャック。彼女に認められ社交界に伝手を作ることで立身出世しようと、勉学の道から、社交界の泥沼を目指す。
    ラスティニャックに、知恵をつけるのがヴォートラン。こいつは美青年好みなので、ラスティニャックの顔と心の美しさに惚れてる。
    娘に翻弄されるゴリオの献身や、社交界の裏表に怖気を震いながらも深みにはまっていくラスティニャックや、大見得を切るヴォートラン。

    バルザックは比喩表現に、驚いてしまう。

    「それがいかに深い感動を与えようと、そんな感動は、おいしいと感じた果物のようなもので、口に入れた次の瞬間にはもう腹の中におさまっている。文明という凱旋車は、極楽往生を信じた信者が次々に身を投じてひき殺されるジャゲルナットの町の巨大な山車に似て、他の人よりも引きつぶしにくい人の心にぶち当たって多少邪魔をされ、しばし手間取ることはあっても、結局、すぐにそれを押しつぶし、輝かしい前進を続けてゆくのである。」
    こんな表現や、笑っちゃう箇処が地の文の随所にある。

    たまらなくおもしろいが、会話も煙に巻かれてるような喋りがいい!
    ヴォートラン! おおヴォートラン! 『幻滅』『娼婦繁盛記』がヴォートラン三部作のようなので、ともに読むぞ。
    不死身……死を欺く男、トロンプ・ラ・モールの通称を持つ、たくましく、悪知恵の働くヴォートランの長広舌のおもしろさ。

    「おれのこれまでの人生はたったの三語で要約できる。おれはだれだ? ヴォートランだ。なにをしているか? 気の向いたことをさ。しかし、それはまあいい。次に行こう。おれの性格はどんなものか、知りたいかね? おれによくしてくれる人間や、おれと心意気が通じ合う人間には親切だ。こうした人にはなにもかも許す。おれの向こう脛を蹴っ飛ばされても、おれは『気をつけろ』ともいわない。だがな、畜生め、おれをうるさがらせたり、虫がすかない連中が相手だと、おれは悪魔みたいに悪辣になるんだ。これは君におしえといたほうがいいだろうが、おれは人を殺すなんてことは屁とも思っちゃいない」
    ラスティニャックを悪の取引に誘うこの啖呵めいた言葉。この後に続く、決闘をくだらないと語る言葉。惚れ惚れする。


    ところでラスティニャックは、彼が愛と信じたものと社交界での出世の戦いのためにニュシンゲン夫人の側につくが、ターユフェール・ヴィクトリーヌ嬢との結婚はどうなったんだろう。別の話で書かれるんだろうか。ニュシンゲン夫人は、デルフィーヌは、あの状態じゃあ金を自由に出来ないから、ちと今後は難しいと思うのだが。

    私は記憶力が悪いので、本を読む順番の幸運に当たると、脳内でコサックダンス小躍りですよ。
    『メッテルニヒ』を先に読んでいたおかげで、会話中のちらっとした一言の意味がわかる。これはフランス革命後の話で、ウィーン会議も終わったあとのようなんだが「ヴォナパルテが負けて(初代ナポレオンの話だ)」だの「タレーランが(フランスの外相から首相になった切れ者だ)」「ブルボン家に王冠が帰って(メッテルニヒの唱えた血統主義だ)」の意味がわかるのがありがたい。

    このころはまだ社交界が大いに力があったころ。
    上流階級は縁故情実社会。サロンの女主人に気に入られれば、出世も名誉も思いのまま。何故女主人が権勢を振るうかというと、王侯貴族がバックについているから。
    王の気に入った夫人は愛人になる。その夫は、夫人の力で出世する。
    娘は、結婚するまでは商売道具。純潔で夫に差し出される。しかして結婚してからは、自由の身。若い愛人囲ったり、サロンの女主人としてふるまったり。夫も当然に愛人を抱えて。
    そういう社会。
    ナポレオンは身分や出自に関係なく能力あるものを取り立てたから、若者は出世を夢見られた。
    けれども彼が敗れて、ふたたび縁故が力を持つようになったということ。

    だからラスティニャックが、勉学から社交界への縁故で身を立てようってのは、顔と才能と金と縁故さえあれば、それは当然。まあ、揃うほうが難しいが。
    社交界で伝手や血族姻族を重んじる風が、会話にも出ている。
    ラスティニャックが、レストー伯爵と会話しているときに「この方のおじいさんと私の大伯父は知り合いだったんだ」こんなところまでたどって、関係性を探すわけですね。

  • バルザックの小説を読みたくて買ったんだけど、まだ読み終えてない。ゆっくり読む時間がほしい

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著者プロフィール

オノレ・ド・バルザック
1799-1850年。フランスの小説家。『幻滅』、『ゴリオ爺さん』、『谷間の百合』ほか91篇から成る「人間喜劇」を執筆。ジャーナリストとしても活動した。

「2014年 『ジャーナリストの生理学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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