マルテ・ラウリス・ブリッゲの手記

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制作 : Rainer Maria Rilke  塚越 敏 
  • 未知谷 (2003年4月1日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (365ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784896420753

マルテ・ラウリス・ブリッゲの手記の感想・レビュー・書評

  • 『と、彼らは答えて、ほかにも彼らの知っていることを、こまごまと数えあげる。しかし、そのためにかえって、女の姿はぼやけてしまって、もうぼくにはなにも思い浮かべることができなくなってしまう』-『27』

    『ぼくは走った。そしてかどを曲がった瞬間に、ぼくはその男にぶつかった。(中略) あの当時ぼくが体験したこと、それがいまになってぼくにはわかるのだ、-あの重苦しい、巨大な、絶望の時代、ぼくはその時代を体験したのだ』-『62』

    一言でいってしまうのなら、これは妄想の書である。それも相当に執念深い妄想である。理路整然としたところはある。つまりは偏執的でもあるということである。読み進めるうちに、この妄想の拠り所らしきものが徐々に垣間見えてくる。そして、それについて語るマルテが、あるいは、語らせているリルケが哲学的になればなるほどに、自分はそれをさっと断ち切ってしまいたい衝動に駆られてしまう。それはただの偶然なのではないか、と。

    二つの事象の間に何か相関らしきものが観測されることと、二つ事象の間に因果関係のようなものがあることとの間には、似てはいるけれど雲泥の差がある、というのがデータを扱う技術者としての自分の信条である。何故、敢えてそんなことを言うかといえば、人は物事の間に相関を見出した途端に、その因果関係のような関係性を信じてしまう傾向があるからだ。そしてその関係に合理的な説明が与えられ得るか否かは二の次になりがちである。あるいは、傍からは不合理とも見える曲がりくねった「風が吹けば桶屋が儲かる」的な説明を考えついたりもする。このことは、技術者のというよりは、むしろ人間の癖の問題であって、だからこの「マルテ・ラウリス・ブリッゲの手記」に同じような構図があるのではないか、と訝ってしまうのである。

    それにしても「妄想」とは、どうして、亡き女を想う、と書くのだろう。マルテがその妄想の中で語るのがいずれも理想化された女性であるということと、この言葉の見てくれがするすると結びつく。まるでシナプスが触手のように伸びて、意味と呼ばれるものの実態であるエレクトロ・ケミカル的な反応を引き起こしているかのようだ。もちろん、今や老いたマルテの思う女性はいずれも亡き女であることは言うまでもない(かくも左様に、人間は不可思議な関係性を勝手に見つけ出すのだ)。

    ひとつ思っているのは、マルテにとっての理想郷が、プラトンのいう所のイデアと重なり合って見える、ということだ。そして、マルテは(すなわちリルケは)それを確実に自覚している。しかしイデアの住人ならぬ現世の生身の人間であるマルテにとって、それは悲劇の根源ともなる。何故なら、イデアに存在するものは、常に現世においてはその投影された姿しか見えず、その真の姿を「見る」ことは叶わないものであるからだ。であればこそ、マルテは「視る」ということにこだわるのだ、と理解できる。

    しかしマルテが「視る」ことが可能であると主張し、イデアにしか存在しないものを現世に「表象化」できると主張すればする程に、そこに悲劇を見取ってもしまう。その悲劇性は二つの要素が互いに響き合い、ハウリングを起こすように大きくなる。二重の悲劇の一方は、マルテ自身がその不可能性に気付いているという点、他方は、それが可能であると主張するならマルテがこの世ではなく別の世界に(イデアに)移動してしまっていて現実の世界からは切り離されてしまうという点。それを両立させることはできない。言ってみれば、神という存在を否定しつつ、どこかでそれに依頼するような生き方である。

    あるいはそれを、近世ヨーロッパ的因習から解き放たれたいと願う一方で、精神的なバックボーンはその世界を構築する文化に頼らざるを得ない一人の文化人のジレンマの告白、と見て、この書を読み解くこ... 続きを読む

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