絶対安全文芸批評

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  • INFASパブリケーションズ
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  • Amazon.co.jp ・本 (383ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784900785601

感想・レビュー・書評

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  • 「文芸誌的世界」の外部から批評をおこない、ますます閉じられていく「文学」にゆさぶりをかけようとする試みです。

    「文学」と呼ばれる界隈に対する著者の批判は納得できるところもあるのですが、そうした問題が単なる「文芸シーン」の問題としてしか把握されていないように感じられます。著者はなかば冗談めかしてではありますが、「みんな自分のことを書き過ぎ!」「みんなお話を作ろうとし過ぎ!」といった感想を述べていますが、そのことが縮小再生産のプロセスを歩んでいる「文芸シーン」の一局面を表わしているといった時評的なスタンスをとることが著者のいう「アウトサイダー」の立場なのであれば、「文学」を題材に「文学」そのものとは関係のない話をしたいだけなのだろうか、と思ってしまいます。

    たとえば著者は西島大介の『凹村戦争』などの作品をとりあげて、「西島大介は、おそらくはもっとも凡庸な「セカイ系」とも同じ問題を抱え持ちながら、それへの客観的で批判的な視座をも併せ持ち、しかしそこから逃れるという選択肢がないことにも、考えに考え抜いた末に気づいてしまった結果、「セカイ系」でないということをしない、という道を採った「デス・セカイ系」なのだ」と評価していますが、これは作者自身がこうした問題に自覚的であるかどうかはべつとして、「セカイ系」そのもののテーマです。こうした誤りが生じるのも、著者が「セカイ系」のブームをたんなる「文芸シーン」の出来事としてしか捉えていないことにもとづいています。

    ついでながら、著者は桐野夏生の『残虐記』をあつかった箇所で、斎藤環が執筆している文庫版解説を批判していますが、この点については疑問があります。著者は、斎藤がこの作品に「関係性」というテーマを見て取っていることについて、「関係性」とは何らかのレベルで「社会性」を必須とする」といい、「私見では、桐野夏生の世界は、そうした「社会性」とは完全に無関係」だといい、「そこにあるのは、まったく逆に、あらゆる「関係=コミュニケーション」ということを排除した、強度の自閉的かつ自己充足的な時空間のレイヤー」だとしています。しかしながら、斎藤のいう「関係性」は著者の理解するような常識的な意味での社会的な関係のことではなく、それの反復において社会性が可能になるような「関係性」というべきものであり、むしろ著者のいう「強度の自閉的かつ自己充足的な時空間のレイヤー」の起源に位置づけられるもののように思われます。

  • 本のアウトプットは読む作業と同じくらい楽しい。
    インプットする作業がより深まっていく。
    誰かと語り合えると新たな発見もある。
    中途半端に読みたいし書きたいよりもどっちかを極めたい。
    好きな作家がたくさん出てきて面白い。
    もっと読みたい。

  •  いわゆる今の「芥川賞・直木賞」なる日本の文学が、おおむね文芸誌五誌によって展開されているので、じゃあ、その文芸誌の外にある雑誌から、その五誌に載っている作品を批評してみよう、という試み。

     読んでみようと思ったのもその辺に興味があったからで、今の「文学」が世間一般に年二回、「芥川賞」および「直木賞」の発表という形でたまに出てくることで秘密主義的な権威を保ち続けている、という点に関しては大いに納得しました。
     今現在「文学が売れない」ということに関して、じゃあ、各自が文学というものに値段をつけて流通させればいいじゃない、という文学フリマ(大塚英志)の立場と、どうせ売れないんだからフリーペーパーにしちゃえばいいんじゃね? という早稲田文学の立場と。そのあたりの状況を知るためにはなかなかいい読み物だと思います。他は読み飛ばしてもいいから二つの対談だけ図書館で借りてもいいんじゃないか、みたいなところがある。

     で、アタシの素人考えで何が問題かと云うと、結局文芸誌の中でやっている「文芸評論」も、外の雑誌媒体から試みている「評論」も、結局やっていることや評価の基準にめぼしい違いが見られない点です。
     云ってることは正しいし共感できるんだけど、じゃあ作者自身のやっている書評がどうかと云うとまったくそんなことが無くて、正直気味が悪いくらいです。

     その、文芸誌がどうとか立ち位置がどうとかいう問題以前に、根本的に書評の仕事というもの自体が一般的なニーズと乖離してるんじゃないの? ということなのです。一節引きます。

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     第三位は円城塔「Boy's Surface」。(中略)それはさておき、主人公が「写像」という(!)この中篇もまた、表面的にはともかくも、ほんとうはサイエンスもテクノロジーもマセマチックスもフィジックスもコンプレキシティも何の知識も必要なく、ただ読みさえすればそこに素晴らしく含蓄に富んだ小説が演算され生起し存在するという誠にマジカルな秀作となっています。(後略、73ページ)
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     ここから、なにを、読み取って「わぁ、読んでみよう」と喚起するにいたるのか。「わけわかんねー」という括りにされないためにさ、モノカキって読者と対峙していくもんなんじゃないかなー、とか、そういうことを思ったりする。すくなくとも「文芸時評」なんだから。

     読ませたい読者がどこにいるのかがわからなくて、文芸評論という「型」にすがって、結局は読者のいないところに向かって文章を書いている感じです。だからこそ、「絶対安全」というのは一種の皮肉になって作者に帰ってきたりするんじゃないだろうかね。

     一般の人が読みもしないものを、どうして「中の人」が読もうとするだろうかね。そもそも、上に引いたような文で「OK!」にしているあたり、現世とかなり乖離しておるように思われる。発想そのものには共感するけど、やっぱり批評とやらに飲まれて、自分で気付いていないひとの仕事だなぁ、と。

     いや、アタシは批判すべき立場には無いと思います。それよりも、じゃあ、なんでこういう書き方に、方法になってしまったのか。むしろそっちの方に興味があるのです。
     どうかなぁ。ネットは広いようで狭いので、もしかするとなんらかのレスポンスが聞けたりとかしないだろうか。そんなことはないのか。

     ただ、こういう仕事が「批評」として普通なんだと思われているのんは(つまり、文学の伝え手がこんな調子である以上)、まずいと思うよ、文学。日本の。
     すくなくとも、ただの文芸好きである読者(あたし)は、ものすごい疎外感を感じるのだ。この人は、文藝を、どこへもっていくんだい、と。

  • 半年間の「文芸批評」を終えた佐々木さんの感想の中で、「おんなじような話を、おんなじような文章で書いた作品が、あまりにも多すぎる」、「私怨を他人に読ませるな。読ませるならせめて読めるように書け」、「才能や技術を云々する以前に、そもそも書きたい気持ちがあってこそ実際書いてしまうという、素朴な「やる気」の部分だけで小説家足り得ている方が多過ぎる。市場的な評価軸が第一義とはまったく思わないが、活字に出来る水準がここまで見事に落ちているとは思ってもみなかった」の3つがとても切実…胆に命じます。

  • 2012/1/1購入

  • 難しい問題だ。

    外から見れば、やはり新鮮な視線/視点を導入することができる。
    文学も例外ではない。
    分かりきったことだけど、演劇からもロック・パンク・その他音楽からも、芸人からも作家が出てきているのは自明。
    それに続き、違った分野の批評とか知識人とされていた人が、文芸誌に召喚されている。
    この本の著者も、そんな他分野からの刺客の一人だ。
    外からなので、利害関係がない、だから絶対安全なのだ、と氏は言う。その通りである。
    が、この頃の氏は確かに、「敷居」の外の人間であった。しかし、今、彼は「敷居」を跨いでしまったように思う。
    姿勢が変わったかは正直分からないが、これからの彼の態度の変化、向かう方向に注目していきたいです。

  • スタジオボイスでの連載をまとめたもの。佐々木敦さんの評価と私の好みは似ているので、連載中も読んでいたが纏まったので買った。

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著者プロフィール

佐々木 敦(ささき・あつし):1964年生まれ。思考家/批評家/文筆家。音楽レーベルHEADZ主宰。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。芸術文化の諸領域で活動を展開。著書に『増補・決定版 ニッポンの音楽』(扶桑社文庫)、『未知との遭遇【完全版】』(星海社新書)、『あなたは今、この文章を読んでいる。』(慶應義塾大学出版会)、『ゴダール原論』(新潮社)、『ニッポンの文学』(講談社)、小説『半睡』(書肆侃侃房)ほか多数。


「2024年 『「教授」と呼ばれた男』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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