くるーりくるくる

著者 :
  • 幻戯書房
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本棚登録 : 27
感想 : 2
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  • Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784901998062

作品紹介・あらすじ

時はめぐり、人はめぐる。父、母、祖父、伯母、幼なじみ、恋人-そして町。みんなどこへ行ってしまったのだろう。

感想・レビュー・書評

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  • 松山巖の文章には湿度がありながら、それでも、さらりとした触感がある。そこに本人の意志が比較的色濃く投影されていながらも、押しつけがましいところが一切無く、空調によって作られたのではない自然な涼風が吹きつけてくるような清々しさが、読んでいて感じられるのだ。

    二周り程年上の人であることは書かれている逸話からも想像できるのだが、不思議なことに描かれる風景などに、どことなく、いや、はっきりとした懐かしさを感じてしまう。著者が東京近郊の歴史を昭和30年代前後で区切って捉えていることを考えると、自分は明らかに、東京が変わった後の時代に属しているにもかかわらず。もちろん、著者にとっての東京は、本当の東京のまんなかであって、そこで起きた変化が常磐線に乗って柏の辺りまでやってくるまでには、少し時間差がある。事実、記憶にある柏の駅前商店街は、引き戸のお店や、土間のあるお店も存在しており、松山巖が回顧しているそのような符牒による区切りは、自分にとっては昭和40年代に、ずれて、いるのだと思う。「くるーりくるくる」の中でも、松山巖が上野から常磐線快速電車に乗り、背負子を担いだ行商のおばさん達を見て「未だに。」という感慨を述べている箇所(くだり)があるくらいだから、この時間計算はあながち間違いではないだろう。

    行商のおばさんといえば、取手の東口にはつい最近まで、背負子を置いて一休みしたり、担いで立ち上がるための荷台のような幅の狭くて横に長いしっかりした台が幾つもあったものだが、いつの間にか撤去された。それでも、通勤時間から少しずれた時間に駅に行くと、あちこちで新聞紙などを広げた上に、草餅や、獲れたての野菜などを背負子から出して並べている人々はまだ居る。そんなこの町の持っている、変化の流れを撥ねつけるのというのでもなく、それでも流されている訳でもないところが、実はとても気に入っている。なんとなく、自分の周りの失われてしまったと思われつつ、しっかり残っているものの存在のいとおしさが、この本を読んでいる内に次から次へと沸いてくる。

    とにかく、読み始めた瞬間に、うわあいいなあこれえ、と、だあとした表現で受け入れてしまう本である。自分の嗅覚でこの作家に出会えていたらもっと誇らしい気持ちがしたのだろうけれど、またもやこの本を読んだのは川上弘美の書評がきっかけとなっている。それでも、自分の記した冒頭の言葉と、彼女の記した印象がそれ程ずれていないことを再発見して、少し嬉しい気持ちにもなる。川上弘美は松山巖の本を待ちかねているのに中々でないと優しくなじった後こう記す。「その記述のユニークさは、失われゆくものを描くときにおちいりがちな、郷愁や批判を前面に打ち出すという方法をとっていないことによる。半分嘆きながらも四分の一は面白がり、そしてあとの五分の一で苦虫をかみつぶし、残りのところで、氏はなにもせずにただナマケモノとして、見ている。受け入れず。かといって押し戻さず。共存はせず。でもそこに置いておく。」

    この本を読んでいると、自分の頭の中で眠っていた想いや記憶が、次々に覚醒してくるのが解る。それは単なる郷愁という感情だけではなくて、今の自分がどうして、あんなことや、こんなことが好きなのか、ということを説明してくれる、復習、のような思考プロセスでもある。ああ、あんなことや、こんなことが好きでよかった、と思わせてくれる、そんな連想なのだ。あんまり嬉しくなったから、杯をあげなくちゃいけない。誤解無きよう言っておくけれど、読んでいる時には素面で嬉しくなっているのであって、お酒が入っているから嬉しくなっている訳じゃないのだ。まぁ、その違いは「くるーりくるくる」的には、どっちでもいいじゃねえか、というような些細なちがいではあるけど。とくとく。

    それにしても、記憶の中の風景や人物たちの印象というのは、なんかの拍子に、急にぱっと色が付いたり、ミュートが外れたりするもんだと思うね。そういう話を人に聞かせても面白くはないと思うんだけど、なんでだろうね、松山巖の話はどれも面白い。可笑しいのはさ、子供の頃の話でも、視点が今の人格ってことだね。松山巖は、案外、大人びた子供だったのかもしれませんが、この乗り移りは自分でもよおくやるからよおく解る。少し脚色してるっていったら言葉が悪いかもしれないけれど、自分で理屈を考えちゃうんだよね、過去の自分の行動とかにね。嘘をつくつもりじゃないんだけど、結果として嘘になってるかもなあ、ということは一杯あるしね。松山巖もこんな風に言ってる。「常日ごろ、心身ともに風通し良く暮らしたいと希(ねが)っている。したがって嘘をつくことも、つかれることも好まない。好まないけれども止む得ぬ場合は、嘘をつくこともある。正直にいえば、その止むを得ぬ場合がじつに多くて困るのである。さらにいえば、その状況が果たして止むを得ぬ場合であったのか、そうではなかったのかの判断がつかぬことも多くて困るのである。」 ああ、よおく解るね、そんな感じ。

    酔ったついでにもう少し言うとさ、単純になになにが好きなのさ、という風に言い切ったりするのは好きじゃないんだな。そりゃ例外もあるし、好きだなぁ、ていう感覚が先行してる場合もあるんだけど、なにか理屈が、いやそんなに大した理屈じゃなくていいのよ実際は、でもそういうもんが欲しいんだよね。それって、今の自分の、心の中や、頭の中を、いくら一所懸命に探してもわかんないことが多いんだよね、当たり前だけど。でもさ、この本を読んでるとさ、なんか解る気がしてくるんだな。合唱に熱中してた時よくやった音楽のアナリーゼみたいなことと、似てなくもないんだけど、そういう理の勝った理屈じゃなくて、あの時のインプットがこういう結果になってるんだよお、ていうゆるゆるした理屈、ああ理屈になってないか、まぁ、そんなようなものが少し解ってくるっていう感じだな。本来的に理屈じゃないから、そこから先にはどこにも行かないんだけど、ああわかった、うれしいな、って気持ちになるんだよね。

    写真に残すことと、ビデオに残すことの違いがさ、実は重要じゃないかなあって気がしてるんだよね。もちろん、記憶には写真のように残すことが大事なのよ、絶対に。そんな記憶の残し方がね、松山巖のやってることなんだよね。それで、そのことに気付いて、ああ、おんなじだって、うれしくなっちゃたりするんだよね。

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