何も共有していない者たちの共同体

  • 洛北出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (281ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784903127026

感想・レビュー・書評

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  • 『けれども私は、すべてを残して去っていく者、すなわち、死にゆく人びとのことを考え始めた。死は一人ひとりの人間に一つひとつ別のかたちで訪れる、人は孤独のなかで死んでいく、とハイデガーは言った。しかし、私は病院で、生きている人が死にゆく人の傍に付き添うことの必然性について、何時間も考えさせられた』(序文)

    この、ともすれば抽象的と表現したくなる文章群は、その文体故に読者に言葉を越えた所での共鳴を促す。それが著者の意図ならば、重厚な解説に目を通す前にその印象を綴っておきたい。

    例えば言葉の持つ二つのレベルの特性をシニフィエ・シニフィアン(意味されているもの/記号内容・意味しているもの/記号表現)と幾ら分析してみても、コミュニケーションにおいて伝播するものの全てを表すことは出来ないのだとアルフォンソ・リンギスは説く。もしコミュニケーションが言葉という要素に分解できる言語的側面に限られるのであれば、充分な帯域幅と極限までに雑音の取り除かれた会話は「対面」であろうと「オンライン」であろうと違いはない筈だが、そのことを確信をもって肯定できるのは極端に情報に依拠した生活習慣に耽る一部の人々だけだろうという予感は、確かにリンギスの言明の正しさを示しているように思う。

    では何がコミュニケーションを成立させるかと問う時、リンギスは共同体という概念を持ち込む。しかしその共同体の何たるかを説くために費やされる言は如何にも曖昧に響く。それもその筈で、敢えてソシュールに倣うなら、言葉に付随するシニフィアンを共有できない他者に特定の概念の意味するところを説明する困難さに加えて、共通するシニフィエを持たない他者に特定の概念を伝える為には、言葉の前段で励起される情動の共鳴を探ることを何度も繰り返し、自分と他者の間に疎通するものを通して意味世界構築しようとする行いなのだから。むしろその困難な伝播の過程を、執拗に表現し直される言葉の羅列によって具現化して、気付きを促しているのかとさえ思えてくる。しかし、その言説を詳細に読み込もうとすると、逆説的にコミュニケーションの総体を、言語以外のもの(例えば環境雑音や、顔に現れる表情、俗に言われる言葉の抑揚に含意されるニュアンス)も含めて、ひとつずつの要素に分解しその変化を詳細にコマ送りで観察することになる。それはリンギスが否定したい筈のソシュールの試みにも似た還元主義的な分析とも映る。その禅問答のような過程を通して、その未知の概念に含まれ得ることを幾つもの類推を引き寄せて考察することにより、リンギスは言葉にならなないことを言葉の余韻の中に蘇らせようと試みているようにも読める。

    とは言いつつ、言葉の意味を越えたものの伝播の工程といったものはある程度理解できるものの、その先にある筈の共同体という言葉のシニフィエの心象の再構築は余りにも心許ないのも事実。だからリンギスの言いたいことを理解したとは決して言えない。けれど、判りそうで分からない、その時は判ったつもりだったが後から言語化してみると意味が解らない、という会話は幾らでも経験している。対面でないことの不自由さも痛いほどに判る。何かを伝える為に相手との間に構築する基盤は、互いに差し出す手のようでもあり、互いに差し出す剣のようでもあり、疎通される意思、という意味では変わるところはないということも解る。そのようなコミュニケーションの本質を説いているのだとすると、リンギスが書いたこの書の重要性は、汎世界的な感染症の広がる環境で、コミュニケーションの意味するところがますます研ぎ澄まされた「記号的言語の伝達」--それはデジタル化された文字による、意図しない限り極端に雑音の排除された言葉の遣り取り--という側面に集約されてしまっている中、一段と増しているだろうことは言わずもがなだ。特に「世界のざわめき」と題された一説には多くのことを考えさせられる。その中からひと際示唆的な文章を、少々長い引用となるけれど引いておきたい。

    『ある人が述べることが、別の人の言うことに対立し、疑義を唱え、否定し、あるいはまた反駁することがあるかもしれないが、互いの応答として反対意見を述べる際に、対話者は互いを排除して安全な場所に引きこもるわけではない。というのも、話者と聞き手は対話のなかで、あるリズムにしたがって役割を交換しあうからである。発信者が受信者となり、受信者が発信者となる。他者は〈同じ人間〉の変形にすぎなくなる。議論は闘争ではなくなり、対決は相互交換に姿を変えてしまう。しかしながら、二人の人間が暴力を放棄してコミュニケーションをとり始めると、彼らは外部の人間とはコミュニケーションのない暴力的な関係に入る。コミュニケーションを阻もうとする外部の人間は、十分存在しうるし、実際つねに存在している。個人間のあらゆる会話は、ある確立された秩序、価値体系、あるいは既得の利益を覆そうとするものである。そこにはつねに敵が、私たちの会話のすべてに耳をそばだてているビッグ・ブラザーがいる。だから、私たちは閉ざされたドアの背後で、静かに話すのだ。生中継のテレビカメラが私たちに向けられていれば、話し相手に向かって何も話さないであろう。あのことではなくこのことが伝達されるのを阻むことに利益を見いだす外部者がいる。彼らは「あのこと」のために論じることによって、そして「あのこと」を魅惑的に、かつ人を虜にするやり方で表象することによって、あるいは、「あのこと」で時間と空間を満たしてしまう手を使って、その目的を達成する。また、私たちのコミュニケーションを完全に妨げてしまうことに利益を見いだす外部者も存在する。彼らは、無関係で矛盾するメッセージ、すなわちノイズでコミュニケーションの時空を満たすことによって、その目的を達成する』―『世界のざわめき』

  • ノイズの中からあなたの顔が弁別される。

  • 旅する哲学者アルフォンソ・リンギスの著作。コミュニケーションの意味やあり方を言語の、文化の、時間の、そして生と死の境界から問い直す。論理から言語から離れたところにある価値を論理の集積としての学術書に落とし込むことの不可能さに挑戦するリンギスの文章は詩的で美しい。

    「自分自身の歌を歌うためには、ちょうど他者を自分固有の愛で愛するためには自分の理解と心のすべてを必要とするように、自分の感受性のすべて、悲しみ歓喜する力のすべて、そして自分の時間のすべてを必要とするからである」

    素晴らしかった。

著者プロフィール

 リトアニア系移民の農民の子どもとしてアメリカで生まれる。ベルギーのルーヴァン大学で哲学の博士号を取得。ピッツバークのドゥケーン大学で教鞭をとった後、現在はペンシルヴァニア州立大学の哲学教授。
 世界のさまざまな土地で暮らしながら、鮮烈な情景描写と哲学的思索とが絡みあった著作を発表しつづけている。
 メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』、レヴィナス『全体性と無限』、『存在するとは別の仕方で、存在の彼方へ』、クロソフスキー『わが隣人サド』の英訳者でもある。邦訳書籍に、『汝の敵を愛せ』、『何も共有していない者たちの共同体』(以上、小社より刊行)、『異邦の身体』(河出書房新社)、『信頼』(青土社)がある。

「2006年 『何も共有していない者たちの共同体』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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