街場の戦争論 (シリーズ 22世紀を生きる)

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著者 : 内田樹
  • ミシマ社 (2014年10月24日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784903908571

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街場の戦争論 (シリーズ 22世紀を生きる)の感想・レビュー・書評

  • 僕とミシマ社との付き合いは2008年の「謎の会社、世界を変える。~エニグモの挑戦」に遡る。当時の勤務先が表参道だったため、よく青山ブックセンターや山陽堂書店に通っていた。そこでよく平積みになっていたのがミシマ社というよくわからない出版社の本だった。今では書店の必須アイテムになった手書きPOPの走りだったかもしれない。

    次いで新潮新書「日本辺境論」で内田氏の著作に出会い、読み進むうちに気がついたら合気道多田塾に入門するほどに傾倒してしまった。(ミシマ社代表の三島邦弘さんも多田塾生なのでおふたりとも僕の兄弟子というわけ)

    そんなわけでミシマ社から出る内田先生の本はちょっと襟を正して読むのだけれど、これはいつもとちょっと雰囲気が違った。ミシマ社と内田先生に底通しているのは、真面目ななかにもどこか(いやかなり)楽観的なところがあって、世の中の問題を真っ向から見据えて取り上げながらも最後はなにか希望を抱かせてくれる、そんな空気ではないかと思う。しかし、現在の第二次安倍政権が向かっている先にはかなりきな臭く、悲惨なものを見ているようで、すこし筆致が重いように感じる。

    日本が60年間忌避してきた「戦争」というものを、わざわざたぐり寄せようとしている人間が、少なからずいるという事実。彼らはもちろん自分自身が戦場に行って危険にさらされることも、自国が戦場になって自分や家族が殺されることも想定していないだろう。「自衛隊員のいくらかは死ぬかも知れないが、その損失を補ってあまりある利益、国益があれば良いだろう」と考えているはずだ。あるいは「戦争ができる能力を高めるだけで、まさか戦争にはならないだろう。万一そうなったら、自分と家族は安全な国に逃げることはできるだろう」か。

    そうした人間が政治や経済を動かしている現状。そしてそんな政治家を選んでしまう(あるいは投票すらしない)国民。

    そこへの諦観が、本書では少しずつ強まっているような気がする。

    東日本大震災と原発事故。

    あれほどの災害と事故があってなお、そこから何も学ぼうとしない日本人に、やや絶望的な気分になってしまうのは僕だけではないと思うけれど。

    微力だけれど、ひとりひとりの意識が変わっていくことがただひとつの方法だと思う。そのために理想を掲げること。文芸や芸術にできることはそれしかないのかもしれない。

  • 内田先生の本を普段は手に取られない方はタイトルで敬遠するかも…とちょっと思っていましたがこれは今こそ読まれるべき本だと感じましたね。
    出版からちょうど一年ほど経つのですが、今の日本の現実は(残念ながら)内田先生のおっしゃる通りになってきています。出版当時出なく1年後の今読んでよかったととても思います。

    何だかよくわからなかった「戦争へ向かいたがる空気になっていく」理由や過程、そういう人たちが目指しているものが良くわかりました。次の日の新聞の記事を読む目が前の日と変わっているのを感じました。
    本書を読んでいる最中、目からうろこが落ちっぱなしの気持ちでした。良い悪いではなく「全く違う文脈の中で眺める」「みんながいつも同じ枠組みで賛否を論じていることを、別の視座から見る」ということはものすごく重要なことだと思いました。
    自分と違う視点や考え方であっても否定や反論をせず、ちょっと止まって考えてみるのも必要なことだなと考えました。

    内田先生のおっしゃるように「想像力を広く使う」のを忘れずに社会を見てゆかなければと思いました。
    これからも内田先生の刺激ある言葉を受け止めて続けて行きたいですね。

  • 今の政治に疑問を少しでも疑念を抱いている人は読んでいて本当に損はない本だと思います。

    戦後70年のアメリカとの関わり、大きな大きな見えざる力が働いていること、そして人類の歩んできた民主主義の歴史に逆行するような改憲の動き。
    根本に流れているのは経済成長を最優先させる政治・スタイル。国民も踊らされていないで、意を持って行動をしよう。
    私は内田さんの考えにはすごく同感できることが多い。

  • いつもながら、著者の本を読むと、自分で考えることの大切さを教えてくれる。この本も例外ではない。
    あとがきにある「まったく違う文脈でながめる」ことを実践してくれるからだろう。
    平日は朝から晩まで企業に勤め、大新聞を毎日読んでいる私の様な人は、まさに読むべき一冊。

  • 「現代の窒息感を解放する、全国民必読の快著。」

    ミシマ社のPR
    http://mishimasha.com/books/machiba5.html

  • 戦争論だから仕方ないけど、ひたすら戦争の話。危機的状況に対応できる人の話は「たしかにそういう人いるなあ」と共感。

  • これは2014年の内田樹の本である。
    ここで彼がいってるのは、ここ何年かのみんなの理由のわからない焦り、や不安といったものは、いまが戦争と戦争のあいだの期間だから、ではないだろうか、というものだった。
    もちろん、第二次世界大戦と第三次世界大戦でございますよ。
    そう、私もそう思う。
    二年たって2016年にアメリカはトランプを大統領に選んだ……。
    オーストリアはかろうじて極右政権になるのを免れたが危機一髪だった……。
    48対51なんて、おせじにも差があったとは言えない。
    これでしばらくは保つだろうが、いつまでもたせられるか……。
    来年にはフランスとドイツの選挙があるのだ。
    とりあえず北欧とイギリスがひっくり返ることはないだろうが、フランスが極右になったらドイツはもう、もちこたえられなくなるだろう。
    いくらナチスに対する反省を引きずっていたとしても……。

    もちろん彼はこの本の終わりのところで、10年後に、そんなことはなかったよ、世界は平和を保ってる、内田さんの思い過ごしだったね、と笑って言えるようになっているといい、といっている。
    私もそう思う。

    でも、2017年を迎える前に、もう一度この本を読んでおいたほうがいい、とも思うのだ。

    というわけで、これも司書は読んどけ本である。

    いくさが始まればどっちの陣営も一番ひどい目に遭うのは子どもに決まっているのだから……。

    2017/02/13 更新

  • メディアが語ろうとしない、いまの日本の現状を赤裸々に語っている。第四章「働くこと、学ぶこと」、第五章「インテリジェンスとは」は、示唆に富む内容。
    多くの人に読んでもらいたい一冊。

  •  どうか、これから先を生きる未来の日本人が、苦しく、自国を受け入れられず、更なる未来を思い描けず、辛い思いをしながら、生きることのないように、

    私たちはもっと、先のことを考えて、(それは未来の「自分」ではなく、もっと大きな流れのこと)生きねばならぬのです、

    と、言われた気がした。



    最近ネットのニュースで、「世界の全寮制の学校の学費ランキング」というものがやっていた。高い順にランク付けがされているのだが、そこの出身者も載っていて、

    「あぁ、なんだ。お金持ちのコミュニティは、こういうところで作られて、こんな風に壁が作られていくのだ。」ということをまざまざと思い知った気がした。

    何を今更、というような感想かもしれないが、
    「意外にこの人も」という人がすごくお金持ちの全寮制出身だったりして、世の中のコネの強さを思い知ったというか、今表舞台に立っている人は、その人の実力のみで立っているわけではないんだ、という現実を突きつけられた気がした。


    それと同時に、「日本にはこういうシステム、ないな。」と思った。いや、もちろん似たものはあるよ。お金持ちやコネがものをいう学校は。ただ、規模が違うというか、世界に比較したら猿真似に過ぎないというか、日本人で本当に今あるコネなり財力活かしたかったら、外国の全寮制行くよね、みたいな。たとえそこで行けたとしても、「代々お金持ち」とかじゃない、成金扱いというか、新参者感否めないよね、みたいな。


    まぁ勝手にそんなことを思ったわけですが、

    それと同時に、「なんだ、世界って思ったほど変わってないんだ。リベラルを、私は語るべきじゃないんだ。」と、脳天勝ち割られたような衝撃を受けた気がする。


    いや、分かるのよ、気づくの遅すぎるって。

    「私が、文化的なことに理解を務めようとしても、それは結局猿真似に過ぎない。」
    「猿が人間の真似しようとしてるに過ぎない。」
    「お前は地球が裏返っても、『リアル』にはなれない。」

     

     じゃあ、どう生きるのか。


     やはり、手の届く範囲のものを、手に届く範囲で、慈しむことしかできないのだろう。


     自分から、価値の転換を求めて、あれやこれや画策し、行動するのは、どうも身の丈に合わない。

     私は、この本でいう「強い現実」に、自分の足場を固めていたい。

     でもそれと同時に、自由でありたい。


     わたしはそのわがままな意思を貫こうと、今までもがき苦しんできました。いや、今でももがいています。


     どうやら、強い現実に身を置いていたければ、「自由」であることは諦めなさいよ。


     そう言われているみたいで。


     できそうな気がするんですが、集団の価値はそれを認めないというか。「俺が、私が諦めたもん、あんたは両方手に入れようったって、そうはさせない。」という圧力に引っ張られるようです。


     だから、しばし日本を離れる選択をしたのですが。

     やはりわたしはわがままなのかもしれませんね。

     ここまで自由を求める人間んであるとなると、

     わたしは余程、(日本にとって)変な人間であるはずです。でもそれが悪いだなんて、つゆほども思いません。

     自由であることって、なんなのでしょうね。

     責任を負わないことでしょうか。

     それだけでは、ない気がします。

     自分が大切にしている価値を、守れる、ということではないかと思います。

     でも、その価値が、「自分」であればあるほど、「集団の価値」から離れれば離れるほど、「我が強い」「面倒くさい」人間となり、孤立する。

     「それ、当然でしょ?」?

     本当に?

     
     随... 続きを読む

  • この人の本は油断するとすぐに理解不能になる(笑
    私に読解力がないだけなのだろうが。繰り返し読めばよいのだろうが、いつも1回読んでわかったような、わからないような・・・になってしまう。

  • 2015/08/16読了
    和光図書館

  • 街場の戦争論が書かれたのは、昨年の総選挙前、実際にそれに合わせてミシマ社のHPはじめこの著書のまえがきが公開され、徐々に外堀りを埋めながら、少しずつ政治的に戦争へ加担していく様子を危惧しているのが分かる。

    経済政策の圧倒的な強さは、すごい。雇用が回復し、企業の業績が伸び、株価が上がったことで得た信頼は、多少の反知性を全て見逃してくれる。

    そうした経済的なものから一歩離れたところにいる知識人たちは、経済政策だけが有効に作用しているあいだに、次々と自由が奪われていくさまに警鐘をならす。

    2015年の夏、そうした知識人の警鐘がついに表面化しつつある。国民の多くが疑問を抱えたまま、既定路線として決められた政治的な行程だけが進んでいく。

    集団的自衛権、武器輸出、防衛費の増大、非正規労働者の増加、原発再稼働、外国人労働者の受け入れ、貧困格差の拡大。
    全ての符号がいくストーリーは内田氏の指摘する通りだと思われる。軍需産業による経済発展はどれほどの効果をもたらすのか、一方で人を殺すための武器を作る人は何を思うのか。事故を起こしてもまだ共依存の関係にある原発で、過酷な労働を行う下請けの労働者は、声を上げることもできず、また仕事を続けるのか。その道しか本当にないのだろうか。
    搾取される側の意識、権利といったものの議論のないままに、ただただ一方的にいろいろなものが決められていくことの気持ち悪さを、本著は正しく丁寧に説明していく。
    少なくとも、学者や知識人だけは、サイレントマジョリティになることなく、声を上げてほしい。

  • 内田樹の文章はいつも新たな発見があり、ためになる。
    まずは敗戦について。戦後日本が主権国家になれなかったのは、負けたからではなく、負けた後に、自力で戦争責任を糾明し、「次は勝つ」ことを目指してシステムを再構築するという「ふつうの敗戦国」の取る道を取れなかったから。ド・ゴールやシュタウフェンベルク大佐のような戦前と戦後を架橋できる英雄がいなかったから。主権国家だった頃の大日本帝国憲法下の臣民がいなくなってしまったからだという。なるほどもっともだが、著者は天皇の立場や戦争責任はどう考えているのだろうと疑問だった。
    「戦後レジーム」とは、主権のない国家が主権国家であるようにふるまっていること、であり、今の政権はまさに「戦後レジームの最終形態、そのグロテスクな完成形」である。
    この国は重要な政策について久しく自己決定権を持っていない。重要な政策についてはアメリカの許可なしには何もできないので、すべての政策が「アメリカが許可するかどうか」を基準にして議論される。そしてアメリカが受け入れてくれそうな政策だけを忖度して採用するようになった。それが70年二世代にわたって続いている。オリバー・ストーンにこういわれている。「あなたがたはアメリカの衛星国であり、従属国である」と。そしてこれだけ長い間アメリカに尽くしてきたのに、当のアメリカ人はこの「従属国の忠義」にいっぺんの感謝も抱いていない。
    日本にはヴィジョンがない、範例的な「おとな」の像が描かれていない。社会の指導的地位にある人々でさえ、自分をロールモデルにして自己形成すれば「おとな」になれるというようなことを口にしないし、思ってもいない。むしろ、自分のような人間は自分ひとりいれば十分だと思っている。現に、政治家、官僚、財界人、学者にしても、自分のような人間が少なければ少ないほど自己利益が増大するような生き方をしている。自分と似た人間たちとの競合で、今の地位が脅かされるから。自分みたいな人間はいないほうがいいと思っている。当然ながら、そんな人間が未来社会のロールモデルになれるはずがない。今の世の中でさかんに言われている「自分らしさ」とかは、「オレの真似をするな」と言っている。自分は余人より卓越しているところがあると思っている人は、自分と同じような能力を持っている人間がたくさんいると「食えなくなる」と思っていから、自分の属する集団の仲間たちが自分より無能で愚鈍であることを願うようになる。
    株式会社は利益だけを追い求める。何かを決定するとき、末端の従業員全員にまで意見を求めるなんてことはない。民主制は決定を遅らせることだから、ビジネスマインドの人間からは非常に効率が悪く見える。「マーケットは間違えない」という原理を深く内面化した人々が、立憲主義とか民主制というものに意味がないと思うのは仕方がないことである。そんなものは会社にも学校にもなかったのだから。表現の自由も、集会結社の自由も、どこにもなかった。見たことないものがなくなったってなんとも思わないのである。
    日本の改憲派の人たちは、民主性よりも効率の良い独裁制を目指している。選択肢は「民主制か独裁制か」ではなく、「民主性か金か」なのである。そして「金」を選ぼうとしている人が多い。「民主制や立憲主義を守っていると経済成長できないなら、そんなものいらない」と思っている。
    グローバル企業は、コストを国家国民に外部化し、最低賃金で人を雇い、何の社会的責任も果たす気がない企業が勝ち残ることが「フェアネス」だと信じている。自分さえよければ日本なんて滅びても構わないと本気で思っているのが、トップの人間ならまだ仕方ない。しかし、会社の利益のためなら自分の健康を犠牲にしても構わない、自分たちを「資源」として収奪しようとしている企業のためなら、戦争をして... 続きを読む

  • アメリカから憲法改正を止められたところから始まる安保改正。必然性のない政治の季節。

  • 少しだけあとがきが良かったです。『「みんながいつも同じ枠組みで賛否を論じていることを、別の視座から見ると別の様相が見えます」ということを述べているだけです。』議論をするとき、収束に向かうよう土俵に乗っていないといっていろいろな発言を排除していく進め方が多いような気がしますが、土俵から転がり落ちたときに見えたものの中に良いありようが含まれている可能性があることを忘れないようにしたいと思いました。

  • 最近の内田先生の本の中で特に良かった。語り下ろしが良かったのだろうか。

    "僕たちは未だに韓国から先の戦争中の従軍慰安婦制度について厳しい批判を受け、謝罪要求されています。日韓条約で法的には片がついているとか、韓国には十分な経済的な補償を済ませているから、いつまでも同じ問題を蒸し返すなというようなことを苛立たしげに言う人がいますけれど、戦争の被害について敗戦国が背負い込むのは事実上「無限責任」です。定められた賠償をなしたから、責任はこれで果たしたということを敗戦国の側からは言えない。戦勝国なり、旧植民
    地なりから、「もうこれ以上の責任追及はしない」という言葉が出てくるまで、責任は担い続けなければならない。”  21ページ

    "靖国神社に終戦記念日に参拝する政治家たちのうちには「中韓に対する謝罪は済んだ。いつまでも戦争責任について言われるのは不快である」と言い募る人が少なくありません。僕はこの考えがどうしても理解できないのです。彼らがもし自分たちのことを大日本帝国臣民の正当な後継者だと思っているのなら、祭神である死者たちに深い結びつきを感じているつもりなら、死者たちに負わされた「責任」の残務をこそ進んでわがこととして引き受けるはずです。それによって死者たちとのつながりを国際社会に認知させようとするはずです。”  79ページ

    ”民主制も立憲主義も意思決定を遅らせるためのシステムです。政策決定を個人が下す場合と合議で決めるのでは所要時間が違います。それに憲法はもともと行政府の独創を阻害するための装置です。民主制も立憲主義も「物事を決めるのに時間をかけるための政治システム」です。だから、効率を目指す人々にとっては、どうしてこんな「無駄なもの」が存在するのか理解できない。
     メディアも理解できなかった。そして「決められる政治」とか「ねじれの解消」とか「民間ではありえない」とか「待ったなしだ」とかいう言葉を景気よく流した。そうこうしているうちに、日本人たちは「民主制や立憲主義は、『よくないもの』なのだ」という刷り込みを果たされたわけです。
     現在の安倍政権の反民主制・反立憲主義的な政策はそのトレンドの上に展開しています。国民たち自身が自分たちの政治的自由を制約し、自分たちを戦争に巻き込むリスクが高まる政策を掲げる内閣に依然として高い支持を与え続けているのは、「民主制や立憲主義を守っていると経済成長できないなら、そんなもの要らない」と思っているからです。  143ページ

  • 非常時にフリーズするのではなく動けるように、歴史を学び、もしもを想像し続けていきたい。

  • 著者とは年代がほぼ同じ。安倍政権の右寄り危険性については私も全く同感。日本は中韓にいつまで謝らないといけないのか。著者は相手が「もういい」というまで、無限責任という。舌鋒鋭く読んでいて痛快である。「狼少年心理」で危険性を訴えるあまり、その不幸の実現を望んでしまう!ということは著者の言うとおり。心せねばならない。日本が未だ米国の属国であるという主張は些か極論のように思えるが、恐らく講演での内容を文章化するとこのようになるのかもしれない。歴史に「もしも」を導入して、その場合の動きを推測するという提案は、知的な訓練として重要なことだと思った。「1942年6月のミッドウェイ後に戦争を止めておれば」その後の展開が大きく異なったことはいうまでもないが。鶴見俊輔は「戦争が終わったときに負ける側にいたい」という理由で開戦後、米から帰国した!本当なら凄いこと。

  • 太平洋戦争で日本が失ったものは何かを、じっくりと炙り出す骨太な一冊。見えてくるのは戦後という時代の歪み。白井聡の『永続敗戦論』と合わせて読みたい。

  • 2015.4.30
    前半部分で日本はアメリカの従属国であることがしつこく書かれていて、あまりというか全然普段はそんなこと考えてないんだけど、きっとそうなんでしょう。ほんとアメリカってのは巧妙ですね。日本の政策決定とか選挙結果とかほとんどはアメリカの意向のままに動いてるのかもしれません。太平洋戦争までの日本(大日本帝国)の勢いを完全に、徹底的に潰したかったんでしょう。

  • 当初『街場の二十二世紀論』というタイトルになるはずが、「どこかで読んだ話」をばっさり切ったら「戦争の話」と「危機的状況を生き延びる話」しか残らなかったことから『街場の戦争論』になったと。副題をつけるとしたら「想像力の使い方」になるだろうとのこと。

    確かに日頃から内田先生の著書や発言に親しんでいる人にも新鮮に映るはず。とはいえ、先生の思考の深め方が変わるわけではないから、違和感なく馴染める。

    どうか、内田先生の予測が大外れしますように。全てが先生の杞憂でありますように。刊行から半年足らずで既に当たりかけているような気がしてしまう不安を抱えつつ・・・それでもそう願うしかないのだけれど。

  • 先の大戦で日本が喪ったものは何か。著者はそれを主権だという。勿論国家として独立を認められているのだから、その意味で主権を持たないということは形式的にはないはずだが、実質的な意味ではどうなのかという議論だ。実質的に主権を持つために力が必要だ、という理屈はわかりやすいけれど、個人的には正しくないと思う。何故なら、どれだけの力が必要で、その力を得るためにどれだけのコストがかかるのかという議論がなされないまま一人歩きしているように見えるからだ。

  • ぼくたちが敗戦で失った最大のものは、「私たちは何を失ったか?」を正面から問うだけの知力です。あまりにも酷い負け方をしてしまったので、そのような問をたてる気力さえ敗戦国民にはなかった。その気力の欠如が戦後70年続いた結果、この国知性は土台から腐食してきている。僕にはそのように思えるのです。ですから、僕たちはあらためて、あの戦争で日本人は何を失ったのかという痛々しい問を自分に向けなければならないと思います。

    ミッドウェー敗戦の時点で、「これまでの政策は失敗だった」という判断を下し、戦争指導部を「全員入れ替える」くらいのラディカルな組織改編が出来ないのであれば、もうその時点で降伏すべきだったのです。

    普通の敗戦国 
    異常な敗戦国
    アメリカに負けた後に、次にアメリカに勝つためにはどうすればいいかという発想をまったくしなかった。できなかった。はっきり指摘すべきですが、これは異常なことです

    高い城の男 フィリップKデック

    敗北の検証が自力でできないくらいにまけた。これが日本の問題
    戦後の日本のこの体制というのは、「敗戦した」という事実の帰結ではなく「敗戦の原因を自力で検証できないくらい徹底的に敗戦した」という事実の帰結だと思っています。「敗戦の否認」というのは「不愉快な事実から目を背ける」誰にも見られる病的傾向というよりはむしろ「不愉快な現実を直視するだけの精神力も体力も残らないほど徹底的に負けた」という日本に固有の具体的事実に由来するのではないかと僕は思います。

    ドイツとイタリア 最終的に「自国民による敗戦原因の究明と戦争指導部の訴追」というぎりぎりの最低限は戦後何とか持ちこたえた

    イタリアは最後の一年枢軸国側と連合国側についてイタリア人同士で内戦が行われていた

    ドイツ ヒトラーとナチスにすべての戦争責任を負わせて、彼らを排除することで穢れを祓うという手が使えた

    ヒトラー暗殺計画
    ヒトラーと戦って英雄的に死んだ、顔と固有名詞をもった生身のドイツ人がいて、エリート軍人で伯爵だった(シュタウフェンベルグ大佐)

    司馬遼太郎 幕末から日露戦争までの日本を「ほんとうの日本」 1906-1945までの40年間の魔の季節においていつわりの日本、戦後また本体にもどったという物語をつくろうとした。(ドイツ人が作ったように)

    日本のシュタウフェンベルグ大佐はいなかった

    日本には亡命政府がなかった。レジスタンスがいなかった。パルチザンがいなかった。

    戦争中にも一貫して戦争指導部に反対し、戦争が終わった時に国民を代表して大日本帝国の引き継ぎを要求できる人がひとりもいなかった

    戦後日本が主権国家になれなかったのは戦争に負けたからではありません。負けた後に、自力で戦争責任を糾明し、なぜこんな戦争を始めてしまったのかを明らかにし、「次は勝つ」ことをめざしてシステムを再構築するという「ふつうの敗戦国」の取る道をとれなかったからです。ド・ゴールやシュタウフェンベルク大佐のような戦前と戦後を架橋できる戦争主体を引き受けることができる人間がいなかったということです。東京裁判が明らかにしたのは、戦争指導部には戦争主体を引き受けることができる人間がいなかったということです。司馬遼太郎の企てが挫折したのは、第二本帝国臣民としてまっすぐに戦争責任を引き受け、それによって戦後日本国民の自己陶冶の範となるような「英雄」がいなかったからです。


    アメリカの許可を得ずに日本が展開した外交の最後の企ては、1972念に田中角栄と周恩来の間で取り交わされた日中共同声明だったと思います。
    戦後アメリカに逆らって独自外交を展開しようとした総理大臣が長期政権を保った事例はありません。

    戦場にいたことのある人達は、「カオス的世界にも一筋の条理があり、それが見える人間がいる」ということを経験... 続きを読む

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街場の戦争論 (シリーズ 22世紀を生きる)の作品紹介

日本はなぜ、「戦争のできる国」に
なろうとしているのか?

安倍政権の政策、完全予測!

全国民の不安を緩和する、「想像力の使い方」。

シリーズ22世紀を生きる第四弾!!

改憲、特定秘密保護法、集団的自衛権、グローバリズム、就職活動……。
「みんながいつも同じ枠組みで賛否を論じていること」を、別の視座から見ると、
まったく別の景色が見えてくる!
現代の窒息感を解放する、全国民必読の快著。

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