無伴奏──イザイ、バッハ、そしてフィドルの記憶へ

著者 :
  • アルテスパブリッシング
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  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784903951119

作品紹介・あらすじ

今年生誕150年を迎えるベルギーの作曲家ウジェーヌ・イザイの生涯と、彼が1924年に作曲した《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ》全6曲を中心にしながら、バッハをはじめとする無伴奏ヴァイオリンのための作品を俯瞰し、さらにこの楽器が民衆のあいだで「フィドル」とよばれていたころのいにしえの記憶にまでさかのぼって、「ひとりで音楽を演奏すること/聴くこと」についての根源的な問いを提示した音楽論。

感想・レビュー・書評

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  • 映画「URLはこちら http://paganini-movie.com/ 『パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト』 : 」 2014年7月11日(金)公開 TOHOシネマズ シャンテ 

    借りては見たが、表紙がイマイチ寂しすぎ。
    無伴奏の曲が、孤独なイメージが伝わってくるけれど、そうじゃないと思う。
    そんなこともあったのか、なかなか読み始められず、今回は中止。

    内容 :
    バッハ、パガニーニ、バルトークなどの作曲家たちが生み出した、無伴奏ヴァイオリンの名曲の数々-。
    そこに屹立するイザイの「無伴奏ソナタ」を中心に、ひとりで音楽をすることの孤独と歓びに迫る。

    著者 :
    1959年東京生まれ。学習院大学文学部フランス文学科卒業。早稲田大学文学学術院教授。
    第8回出光音楽賞(学術・研究部門)受賞。
    著書に「魅せられた身体」「ミニマル・ミュージック」など。

    2014/06/30  予約 7/8 借りる。 読まずに返却

  •  ピアノだったら、「猫ふんじゃった」であっても、それはひとりで完結した音楽である。
     ところが弦楽器や管楽器の曲は多くにピアノ伴奏がつく。ピアノと違って基本的には単音の旋律楽器だからである。教本に載っている曲、あるいは合奏の曲を練習しても、どんなに完璧に弾いたところで、それは音楽のパーツでしかない。ピアノ伴奏者や合奏の仲間がいればいいが、いつでもいるわけではない。
     そこで無伴奏曲を探してみる。バッハの《無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ》を弾く力量はないが、《無伴奏チェロ組曲》の易しいページならヴィオラで何とか音符を追うことはできる。練習と楽しみを兼ねて弾いていると、それは合奏曲の練習とはずいぶん違う。自分の追った音符だけで音楽は完結しうるからである。自分で弾きながら自分でその曲を聴いている。もちろん、合奏のパート譜を弾いても自分の出した音に聴き入って、絶えず求める表現に向けて修正を図っていかねばならないことに違いはないのだが、無伴奏曲の場合はやはり違う。話しつつ聞くという人間の言語活動のように、相即な現象が生じ、精神はどこか沈潜して自己に向かうとともに、音を出す行為は祈りにも似てくる。

     これまで音楽にまつわる幾多の刺激的な本を書き、「音楽文化論」を提唱する小沼純一氏が『無伴奏』なる本を上梓したと聞いたとき、評者がイメージしたのは、そのようなことであった。しかし、面白いことに小沼氏が親しまれる楽器はピアノなのだ。まず、幾多のイメージが提示される。無聊をかこってコカインを打ちながらヴァイオリンを弾くシャーロック・ホームズなど物語の登場人物。ストラヴィンスキイの《兵士の物語》で兵士の持つヴァイオリンを所望する悪魔。祭りや都会の路上で楽器を弾くフィドラー。
     そして無伴奏ヴァイオリン曲を弾くべくステージに登る演奏家。小沼氏自身はおそらくそんなコンサートの聴衆かつ自身はピアノ弾きとして、ピアノの独奏とは違う「無伴奏」の世界を奇異な思いとともに見詰めたのであろう。そこから詩的なイメージが膨らむなか、ことさら「無伴奏」と言うこの言葉に衝突し、そしてヴァイオリン1挺で音楽を作るということの意味をいささか理屈っぽく敷衍する。小沼氏がフランス語の「s'entendre parler」という言葉を引くとき、議論はほとんど楽器によって幻聴を奏でるような領域をかすめる。

     そこで翻って、無伴奏ヴァイオリン曲の音楽史がひもとかれる。もっとも有名なのは上述のバッハの《無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ》であるが、それに先立つ人々、そこから下る時代の作品が言及される。いずれにしてもそう作品数は多くない分野において、以前は一種の秘曲のようであったが、最近とみにヴァイオリニストによって取り上げられる作品にウジューヌ・イザイの6曲の《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ》がある。そしてこれが本書の核である。
     イザイはエネスク(エネスコ)などと並んで19世紀から20世紀に掛けて活躍したヴァイオリンの巨匠であり、フランクのソナタやショーソンの《詩曲》が彼のために作曲されたというだけでも音楽史に明記されるわけだが、作曲もし、晩年には生地のワロン語でオペラを書くという宿願を達成する。ここでイザイの生涯が語られる。はしがきで「イザイ自身の生をめぐる情報が、ほんとうに、必要だろうか」と自問されるにもかかわらず、である。
     そして作品の詳述。当初は馴染めなかったこの曲を小沼氏は咀嚼しようとしているのだ。もはや満足にヴァイオリンを弾けなくなった老巨匠が後世にヴァイオリン技法を伝えようという意志。しかしそれはヴァイオリンを一人で弾くという、問題の行為へと連なる。ヴァイオリンを一人で弾くというのは何なのであろう。ひとまず小沼氏はヴァイオリンではなく民族楽器としてのフィドルが祭りや路上で一人で弾かれるという情景、その「記憶」を引いてくる。いくつかの論点が重畳し、輻輳して、そんなイメージを呼び込む。
     いや、答えは与えられない。問いは開かれたまま置かれる。それが本書を詩的なものに留める。私はツェートマイアのイザイを聴く。

  • 無伴奏ヴァイオリン曲に関する本だが、音楽論ではなく、お手軽なエッセイといったところだった。「無-伴奏」であることの孤独感とか、そういうことはとっくに想像のつくことで、この本を読んで新たに得たものは何もない。かろうじて、イザイの伝記をはじめて読んだ、といったところ。
    しかし、名曲ガイドから引っ張ってきたような、イザイのヴァイオリン独奏曲の形式的な解説なんか、巻末に延々と書かなくてもいいのになあ、と思った。
    まあ、この本を読んでイザイを初めて聴いてみようとする人もいるのかもしれない。
    私も、バッハの無伴奏ヴァイオリンは早くから聴いていたものの、音の欠落した曲としか思えず、その価値をよく理解できなかった時期があった。そういう人に向けて書かれたエッセイなのかもしれない。しかし、「無伴奏」ということに関する深い洞察とかは特にない。

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著者プロフィール

1959年東京都生まれ。早稲田大学文学学術院教授。専門は音楽文化論、音楽・文芸批評。第8回出光音楽賞(学術・研究部門)受賞。創作と批評を横断した活動を展開。主な著書に『無伴奏──イザイ、バッハ、そしてフィドルの記憶へ』(アルテスパブリッシング)、『武満徹逍遥──遠ざかる季節から』『魅せられた身体──旅する音楽家コリン・マクフィーとその時代』(以上、青土社)、『本を弾く──来るべき音楽のための読書ノート』(東京大学出版会)、『映画に耳を──聴覚からはじめる新しい映画の話』(DU BOOKS)、『音楽に自然を聴く』『オーケストラ再入門』(以上、平凡社新書)ほか。創作に『しっぽがない』『ふりかえる日、日──めいのレッスン』(以上、青土社)、『sotto』(七月堂)ほか。

「2023年 『小沼純一作曲論集成』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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