おせっかい教育論

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  • 140B (2010年9月28日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (218ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784903993102

おせっかい教育論の感想・レビュー・書評

  • 三葛館一般 370.4||WA

    教育に携わる3人に当時の大阪市長を加えた4人の、教育に関する座談会をまとめたもの。大阪市中央公会堂で行われた第一夜と、4人だけで行われた第二夜が集録されています。現在の教育事情や、それぞれが影響を受けてきた教育について語ります。教育の本質は「おせっかい」である。とはどういうことでしょうか。
                                  (うめ)

    和医大図書館ではココ → http://opac.wakayama-med.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=58650

  • 個人の目標と社会への貢献の合一
    多様な評価軸の認識
    「恫喝ではなく敬意を,査定ではなく支援を」
    教育の危機に対しては教師のパフォーマンスを向上させる→自分の仕事に誇りを持ち,機嫌良く仕事をしているときに,仕事の質はもっとも高くなる。怒っている人間や怯えている人間や恐怖にすくんでいる人間が質の高い仕事をすると言うことは,ふつうない。まして,手詰まりの状況を切り拓く起死回生の知恵を思いつくというようなことは絶対にない。

  • 阪大総長の鷲田氏・内田樹氏・釈徹宗氏・元大阪市長の平松氏の
    対談本。チーム内田的な人々の集まり。(帯に中沢新一氏の『僕も仲間にいれてくれたらよかったのに』というコメントが面白かった)
    教育について同意することが多いと思います。
    大阪論・教育論・橋下氏の教育論に対しての警告もちょっとあり。

  • 豪華メンバーによる、教育談義。
    やはりこのひとたちの話がいちばん共感できる。人間観が、深い。
    家庭教師を去年から始めたこともあってか、「基本的な生活習慣ができていない子の成績を上げることは難しい」というところに、すごく、複雑な気持ちで共感できてしまった。
    子どもを大らかに、無条件に包み込むことはできへんのかなあ…。

  • 教育とはおせっかいであり、場が作れれば、教師が何を教えたか、なんて細かいことを教師自体が覚えていなくても、生徒は学んでいく。文科省はシラバス主義で、シラバスをきちんと書かないでいたら助成金を削られた、なんていう話がある。なんたることか。おせっかいと勘違いの線引はむずかしいというか、多分できないだろうけど、それをワイワイガヤガヤやりゃあいいんじゃないの、と。確かにシラバス主義ではそれはできまい。共著の平松氏が大阪市長であるころの話で、その後の大阪市の教育へのおかしなコミットはまだないころの話。大阪は本来、非イデオロギー都市だったので、町で学問がそだった、という。東京にいると、そういうこともわかんなくなるのだ、とか。

  • 大学受験が終わり、予備校の先生に勧められ読んだ。読みやすくアイデアも面白い。教育に興味がない人もおすすめ。

  • この中のお三方が出ているので、この本にした
    ※平松邦夫のツイートから
    「平松邦夫 ‏@hiramatsu_osaka
    6月22日土曜日、午後6時半から、場所は天六の大阪市立住まい情報センターです。タイトルは出版記念シンポジウム「脱グローバル論 日本の未来のつくりかた」で、内田樹さん、中島岳志さん、釈撤宗さんと私です。」
    公共政策ラボ
    http://www.with-ppl.jp/ppl/

    中島岳志は、こちらの新刊を
    「脱グローバル宣言 日本の未来のつくりかた」
    http://booklog.jp/item/1/4062184273

  • こんな教育の危機に対処できるのは教壇に立っている人間だけだ。
    「教師のパフォーマンス向上」が急務。
    しかし、教育行政は現場の教員を査定し格付けすることで
    「恐怖し、萎縮し、怯える」人間を作ることに努力を傾注してきた。
    その結果、イエスマンタイプの教員と勤務考査に嫌気がさしたふて腐れタイプの教員が増えた。
    「人間は処罰の恐怖にさらされたときにパフォーマンスが高まる」という
    偏った人間観によってこれは行われている。

    現場の人間としてできること。
    ふて腐れず(って、よくため息ついてます)
    何でもかんでもヘイヘイ上に従わず(これはトップクラスに実現できてます!)
    敬意・支援を同僚に送ることで、全ての教員が誇りと自信を持ち、笑顔で仕事ができるようにね。

  •  鷲田清一、内田樹、釈徹宗、平松邦夫(当時は大阪市長)4名による2回の座談会の記録。教育について自由闊達なおしゃべりが記録されていて面白い。
     内田氏は、「教育を語る時に僕たちは、ひとりひとりが実はすごい<教えたがり屋>なんだということを忘れているんじゃないか」と言っている。だから、教えられる姿勢(=学ぶ姿勢)を持ちさえすれば、我々は誰からも学ぶことができるはずだ。「我以外は、すべて師」と誰かが言っていたような・・・。
     鷲田氏は「出会いをきっかけに<もっと見晴らしのよい場所に出る>ということが、<学び>の意味だ。<学び>は他者をとおして起こるものであり、あのときはわからなかったが今だったらわかるというふうに、長い時間の中でじっくり醸成されてゆくものなのだ」と記している。教育は商品提供とはわけが違うということは肝に銘じておきたい。
     あとがきで内田氏は、当時まだ大阪市長の職にあった平松氏に対して、「地方自治体の首長は教育行政にできるだけ介入しないでいただきたい」と述べ、「教育現場に今必要なのは、<敬意>であって<恫喝>ではない。<支援>であって<査定>ではない。<フリーハンド>であって<管理>ではない」と具体的な提言をしている。
     しかし、その後、大阪市民が市長に橋本徹氏を選び、教育現場に<恫喝>と<査定>と<管理>が持ち込まれてしまったという現実を知っているだけに、暗澹たる気分になってしまう。この座談会の1回目は、2009年12月、大阪市民500人の前での<公開トーク>だったというが、それが今では、<後悔トーク>になってしまうとは・・・。

  • 主題とはちょっと離れたところですが、もっとも印象深かったのはこのような内容でした。

    「学力」とは成績や点数ではなくて「学ぶ力」のことである。
    それは「消化力」や「睡眠力」とかと同じで、生きるための基本的な力。ご飯をちゃんと食べられて、どこでもぐっすり眠れる力というのは人間が生きてゆく上で必須の能力である。しかし、それを他人と比較して格付けする人はいない。
    それを使って「何をするか」が問題なのであって、その力自体は考量したり数値化するものではない。

    教師として生徒に何を教えられるか、もっと深く考えないといけない。

  • (以下引用)
    内田:学校教育が今歪んでしまったのは、教育活動を行うのは共同体の利益のためでなく、教育を受ける個人がそこから受益するためのものだという勘違いが広まったからだと思います、個人が学校に通って、しかじかの知識を得たり、技術を身につけたり、資格を取ったりして、それで高い年収を得たり、社会的地位や権威を獲得したり、そういう事故利益を達成するために人は教育を受けるのだという思想が広まってしまった。(中略)学校教育を授けることによって、最大の利益を受けるのは共同体そのものなんです。共同体を支える公民的な意識を持った人間、公共の福利と私的利益の追求のバランスを考えて、必ずしも私的利益の追求を優先しないようなタイプの大人を、社会のフルメンバーとして作っていくということは、共同体の存続にとって死活的に重要なわけです。(P.27)

    内田:「21世紀の懐徳堂プロジェクト」をやるとしたら、どんなことがあっても絶対そこに経済的合理性を入れちゃいけない。教える側の「持ち出し」でやる。やりたいからやるんだよ、と。長い目で見れば、結果的にはわれわれ社会全体が利益を受けるわけだから、「まず先に俺が金を出すよ」と言うべきなんです。ニーズがどうたらとかマーケットがどうたらというようなことばかり言ってたら日本の教育は今こんなふうになっちゃったわけです。やっぱり教育する側の正しい姿勢というのは「時間も金も俺の持ち出しをするから、いいから黙って俺の話を聞け」というものではないかと(笑)。(P.29)

    内田:どんな共同体でも、どんなきちんとした集団でも、そこからこぼれ落ちていく人たちが必ず発生する。でもその「落ちこぼれていく子たち」のうちから次代を担う「イノベーター」が生まれてくる。これは必ずそうなんです。どんなによくできた共同体でも、いつかどこかで制度疲労を起こして壊れてゆく。だから、その壊れていきそうなものにいちはやく気づいて、そこを補正して制度を再構築できる人が絶対必要なんです。でも、そういう仕事をする人間は既存の制度の中の「秀才」からは出てこない。絶対出てこない。イノベーターは常に「落ちこぼれ」の中から出現する。ですから、制度の中長期的な安全保障を配慮したら「落ちこぼれたち」を切り捨てなきゃいけない。彼らを支え、彼らが自尊感情を持て、生き延びてゆける場所を提供することが必要なんです。(P.37)

    鷲田:内田樹さんがどこかで書いておられたと記憶するが、実在の、あるいは書物のなかとのひととの出会いをきっかけに、それまでより「もっと見晴らしのよい場所」に出るということが「まなび」の意味だと、わたしは思う。

    内田:先生という存在にはいろんな意味があって、教育するというのもあるけれど、乗り越える対象でもあるわけじゃないですか。だからある程度乗り越えやすいハードルとして自分を提示していくというのも大事な仕事だと思うんですよ。乗り越えやすいようにはしごを架けておいてあげる、という。(P.143)

    内田:「土壌を耕す」というのは実は日本の中学生や高校生相手に「フランス文学は面白いよ。ぜひおやりよ」ということを忍耐強く知らしめるということなんですよ。自分の自己利益を優先させて、その作業を怠っていれば、自分の仕事そのものがなくなる。(P.170)

    鷲田:教育とか学術とか芸術とか、そんなクリエイティブな仕事には、達成度評価というのはなじみません。だって達成度は計画に対して測られるもの。けれども創造的な仕事とは、想像だにしていなかったものが生まれることだからです。(P.186)

  • 大いに、おせっかいしていこう。

  • ■おせっかい教育論
     とてもまとまりの無い話が詰まった本。現代と江戸時代の比較や、大阪と東京の比較、現在大阪が抱えている問題や「労働とは何か」など、様々な議題が結論を出さないまま宙ぶらりんの状態で話が推移していく。
     本文中に出てきた元禄バブルの話や近江商人の流れを引く企業の注釈、ベトナム戦争に関してニュース番組で自分の意見を述べたウォルタークロンカイトさん話など、面白い話も多かった。
     最後になんとなく印象に残ったフレーズを載せる。

    ・鷲田さん
    「他たちから自分が何をすべく待たれているかという視点が欠落している」

    ・内田さん
    「自分に対する勘違いから努力kの気持ちが生まれる」
    「アクティビティの高い教師が1年後どのような論件に興味があるかなんて分からない」
    「教育のことは現場に任せて欲しい」

    ・釈さん
    「「おかえり」と言ってもらえるだけで辛くても生きていける」

    ・平松さん
    「そこで子供たちが活動することによってその場所に意味が生まれる空間」

  • 出国前に読み切った最後の本になるのかな。
    内田樹を含む4人が大阪の教育の話を中心に対談。
    内田樹の主張は、下流志向や街場の教育論に見られるものとほぼ同じだったが、一箇所だけ新しいものがあった。

  • ふむふむでした。
    こんな座談会が出来るということって、まだまだ捨てたもンじゃないかもね。
    ガンバレ、教育再生。。

  • ナカノシマ大学の最初の講義として開催された
    4人の座談会を収録した1冊。

    リッパなおじさまたちが、教育をキーワードに
    自分たちの子ども時代から現代の問題点まで
    好き勝手縦横無尽に話を交わす。

    「教育の本質はおせっかいやね」という
    いかにも大阪らしい発見がなされている。

  • 大阪目線からの教育論.2回の座談会を一冊にまとめたもので,散漫な感じは否めないが,納得がいく点もちりばめられている.

  • 関西の教育事情。
    鷲田清一、内田樹、釈徹宗が大阪市長・平松邦夫と対談した内容をまとめた本。教育とはおせっかいな人が社会で生きるための知恵を授けるものであり、そのような環境の中で子供が学ぶものである。現在の教育事情は、生きるための知識や知恵を伝授するのではなく単に自分の目的を達成するための手段になっている。
    大阪府知事の学力問題への対応の話が面白かった。橋本知事が主張する一斉テスト結果の公開は、結局、県・自治体・学校レベルでの競争を生むことになり、目的論的な教育体制になってしまう危険性がある。教育が商業化され、本来の教育の目的から離れていってしまうことになる。自治体の首長は教育には口出しすべきではないというのが対談者の考え。政治家が言う教育改革なんてナンセンス。
    教育は時間が掛かるものであるし、現場を知っている当事者に任せるべきという主張です。なるほどね。

  • 大阪中之島の公開セミナーとフランス料理を食しながらの討議再録。ゆえに、話題があちこち広がり、繰り返される内容も多いのです。が、さらっと読めて、ときどきなるほどねーという名言を見つけることが出来ました。鷲田センセイの言葉にあった、職業、天職、使命を英語でコーリングという、その含みに自分が何かをすべく誰かから呼びかけられているという感覚がこもっている、だから就職活動を前にして「自分がしたいこと」から考えることは務めの観点が欠落している…目の前クリアになる説明でした。

  • 朝ヌキで、ハラヘッタハラヘッタと思いながら健康診断へゆくと、なんやかや待って、予約した時間を半時間あまり過ぎてスタート。行きの電車の待ち時間と、診療所での待ち時間のあいだに、ハラヘッタを追い払いつつ読んだ本。

    ナカノシマ大学のことは、ごくたまに『月刊島民』を拾って読んだときに知っていた。そのナカノシマ大学のキックオフセミナーでの話の記録と、第2夜としておこなわれた4人の教育談義の記録をまとめた本。タイトルにあるように、教育の本質は「おせっかい」にある、というのがこの本の基調。

    「遊園地」ではなく「原っぱ」的学びを(そこに行ったらメニューがあって、その中で何を選ぶかというのではなくて、自分たちで何かをすることでその空間の意味を作っていく)とか、「まなび」とは「自分が打ち砕かれる経験」(いままでより、もっと見晴らしのよい場所に出ることが学び)とか、子どもの訳の分からなさと同じくらい訳の分からなさの多様性が必要(子どもの個性と同じだけの数の個性の教師が並んでいることが理想)とか、わりとええなーと思うことが、語られている。

    ええな~と思うけど、なにかひっかかるところもあって、私は何がひっかかるんかなーと、ハラヘッタを追い払いながら読んでいた。(おっさんばかりがしゃべってるやんけ、というだけかもな。)

    脚注に出てきた、青木淳の『原っぱと遊園地―建築にとってその場の質とは何か』を読んでみたいなと思ったけど、近所の図書館になーい。もう1冊、『原っぱと遊園地 2 見えの行き来から生まれるリアリティ』というのもあるようだが、これも図書館になーい。そのうち相貸で。

  • 「見ていないようで見ている」という言葉が一番印象深かった。
    いつでもどこでもどんなときでも寄り添って受け止めるってのが大事なのだなと思った。

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