大阪の神さん仏さん

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  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784903993140

感想・レビュー・書評

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  • 大阪に生まれ育ったのに知らないことばかり。

    もっともっと大阪を歩いて回りたいと思った。
    大阪の歴史を、文化を、知りたいと思った。

    宗教ってどこか立ち入りがたいイメージが強いけど、
    実際はとても身近で、自分の日常のあちこちに潜んでいるもの。

    もっといい距離感の取り方を探っていきたい。

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      「宗教ってどこか立ち入りがたいイメージが」
      だって、「信じる者だけが救われる」って胡散臭いですもの。でも合理的な考えを集約したモノだと思えば...
      「宗教ってどこか立ち入りがたいイメージが」
      だって、「信じる者だけが救われる」って胡散臭いですもの。でも合理的な考えを集約したモノだと思えば、別の顔が見えてくるかも知れません。。。
      2013/02/04
  • やっぱり読まなきゃ
    http://140b.jp/blog3/2012/11/『大阪の神さん仏さん』書評まとめ!/

  • 【大嘗祭と言いますが、その翌年には「八十島祭」が行われました。典侍という女性が天皇の御衣を収めた筥を携えて上町台地の北端にあった難波津に向かい、御衣に風を受けるのです。新しい天皇に国土の支配権を授けることを呪術的に保障するためだったと言われています。この八十島祭に祀られるのが、生島神と足島神で、今も生國魂さんに祀られています。】というのは、地元すぎる話だが、あらためて大阪城を歩きたくなった。
     あと、能の「白楽天」は観てみたい。「白楽天」は外国を意識した、ナショナリズム的な話っぽい(?)ので、面白そうだ。実際はどうかは観てみないとわからない。聖徳太子を本格的に読む前に、叡福寺、野中寺、大聖勝軍寺の三つは巡りたい。色々と勉強になった。

     あと、蓮如が「毛坊主」のように、仏の前では平等で上座も下座もないとして、蓮如は高いところから教えを述べたりせず、横並びであったという。浄土真宗の横並び感覚、信頼関係、そして、清めの塩や忌中などの宗教的な習俗や習慣を拒否したり、お上をあまり信用しない気質、古い習慣を壊すのもわりと平気である性質について、大阪の浄土真宗(蓮如)をからめて述べているが、納得はできる。その後に書かれている「ヒメヒコ制」について、「ヒコとは合理性や権力や秩序や論理性のことであり、ヒメとは不合理や情念や混沌を表す」のだという。古代社会ではこの両者の役割分担と協同によって、共同体の統率が可能となったのだとあるのだけれども、大阪人は、この蓮如と浄土真宗による「合理さ(ヒコ)」によって、ヒメが追い詰められ、ヒメヒコのバランスがくずれ、「ヒコヒコ」になり、ホモソーシャルになりがちな風土となっているのではないかとも思われる。

  • 大阪の信仰について興味深く読むことができました。
    仏さん編に関しては僧侶が真宗なので、本人も断っているが偏って説明されていますが。
    対談なので重複もあるがご愛敬とあとがきでもことわられている笑

    大阪で感じた人のクールさは、真宗の為なのかなあ、と少し納得したような。堺というギルドの成立もなんとなく納得。

    神道は、拝む人側の都合で変わっていくけれど、仏教は何ができるかお坊さん達が考えながら動かしていく(?)ものなのだなあという印象を受けました。語り手がそういう僧侶だからかな(語られた時期もあるが)

  • 大阪商人は浄土真宗の信者が多かった。浄土真宗は勤勉を奨励していた。そのため、資本を貯める商人も多かったという。日本が明治になって急速に資本主義になった土台は大阪の浄土真宗にあったおいう議論はおもしろかった。

  • 大阪に生まれた者としては無意識なことなのかもしれないが、大阪人は合理性(たとえば商売上の才覚、価値基準)と不合理性(情念や怨念、特に人情ともいう)というように相反する性質を兼ね備えているところがある。
    大阪人がこの相反する二つの性質をうまく持ち続けられている理由は、古代より重層的に積み重なってきた「神さん、仏さん」の宗教性の影響が大きいということ。
    そして、そこに住む大阪人は上町台地を宗教的背骨としながら、権力的指向の強い「タテの関係」よりも連帯的指向の強い「ヨコのつながり」を形成してきたということが本書を通じてよくわかった。
    その土地の宗教的土壌を知ることはそこに住む人々の特質ともいえる精神性を理解するこのなのだと。

  • 釈先生のお話は明快で、それでいてほんわかと優しい。その語り口で「仏さん」のことを聞こうと思って手に取ったら、前半の「神さん」についてのお話が面白いのなんの。あんまり考えたことのなかった「神道」だが、そうだったのか!ということが次から次へと語られて、目からウロコが落ちました。

    本書を読むと、多くの日本人の宗教性というのは、根っこの方に「神さん」がいて、それと渾然一体となりどちらがどうとも分かちがたく「仏さん」がいる、というふうに形作られているのだなあと、つくづく感じる。「神仏習合」なんて、およそばかげたものだと思ってきたが、いやいやこれぞまさに日本的宗教性の究極の形かもしれないなどと、いきなり宗旨替えしたりして。

    釈先生の本を読んで少し理解した限りでは、仏教では、己の苦しみを自らを変えることによって克服せよと教える。この世への執着を断ち切り、弱さ故の苦しみから出でよ、と。これに対して、「神さん」は時代時代で移り変わる人々の願いを常に受け止めるものであった。人間がその弱さ故に何かに頼ろうとしたとき、木であれ石であれ、そこにあるのが「神」である。なるほどねえ、そこが「創唱者」がおり「教義」があり「信仰の対象」のある仏教とは大きく違う。

    また、仏道を志すことは基本的に個人の内面の問題であるが、「神さん」は常に共同体とともにある。多くの人は無意識にその両方の領域を行き来し、この世とは別の、より次元の高い世界に漠然とした敬意や畏れをを抱いているのではないだろうか。

    高島先生が、自分にとって「神」とは何かと尋ねられて、子育てしたときの思いから答えておられたのが印象深かった。親は子の幸せを願う。辛いこと悲しいことに出遭わないようにしてやりたいと思う。しかし不幸に遭わない子供などいないし、乗り越える力にも限界がある。その先に一人一人にとっての神の存在を想定するしかないのかなと思う、と。これはしみじみ実感として胸にしみた。

  • 12/08/07。
    ナカノシマ大学での連続講義を起こしたもの。
    釈先生、序文から絶口調。高島先生は文章で読むと鋭さが際立つ。
    口調より文調のほうが良い。
    あらためて文章で読むと、これほど多くの内容をあの講義の中で話していたのかと驚愕。

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著者プロフィール

1961年大阪生まれ。僧侶。専門は宗教学。相愛大学学長。論文「不干斎ハビアン論」で涙骨賞優秀賞(第5回)、『落語に花咲く仏教』で河合隼雄学芸賞(第5回)、また仏教伝道文化賞・沼田奨励賞(第51回)を受賞している。著書に『お世話され上手』(ミシマ社)、『不干斎ハビアン』『法然親鸞一遍』『歎異抄 救いのことば』など。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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