定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)

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制作 : 白石隆 白石さや 
  • 書籍工房早山 (2007年7月31日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (400ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784904701089

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)の感想・レビュー・書評

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  • そのスジ(?)では割と有名な本らしいので、購入して読んでみた。原著は1983年である。
    先日読んだ橋川文三『ナショナリズム』(ちくま学芸文庫)と比較し考えながら読んだが、橋川がナショナリズムの起源を端的に「ルソーの思想を部分的に受け継いだフランス革命」としていたのに対し、本書の著者ベネディクト・アンダーソンは、ナショナリズム醸成の土壌はヨーロッパにおいて(特に印刷術の発明と発展を画期として)つちかわれてきたが、最初にナショナリズムが明確に誕生したのは南北アメリカだと述べている。確かにフランス革命よりアメリカ独立宣言は少し早い。
    この本の凄いところは、ヨーロッパ史に留まらず、中南米からアジア(日本もしっかり分析されている)、北欧まで、およそあらゆる領域の国々を深く探究しているところだ。
    さて、ナショナリズムという語は「国民(ネーション)主義」を指すのであって、「国家主義」と混同するのは完全に間違いであるらしい。だからこそ、ナショナリズム的な像が「想像の共同体」と呼ばれるのである。
    こんにちの観点から見れば、私たちにとってナショナリズムはどうも悪い面が気になってならないが、アンダーソンは
    「我々はまず、国民(ネーション)は愛を、それもしばしば心からの自己犠牲的な愛を呼び起こすということを思い起こしておく必要がある。」(P232)
    と、肯定的な評価を下している。橋川文三『ナショナリズム』の論からすれば、アンダーソンはナショナリズムと原始的な郷土愛である「パトリオティズム」とを混同しているのではないか? とも思えるのだが、考えてみるとなかなか厄介な問題だ。
    しかしアンダーソンの、上記の引用「自己犠牲的な愛」について言うならば、自爆テロだって聖戦への「愛」だろう、と指摘することも出来るし、一概に良い悪いを判断することはできない。
    日本では特に東日本大震災以降、異様なまでに「今さら」なナショナリズムの心情が多くの国民を包んだ。たとえば、あの「がんばろうニッポン」みたいな、よくわからないスローガンに現れたように。このナショナリズムの心情は、一方では安倍内閣とそのシンパのような<民主主義の無法な破壊者>という<悪>に結実した面もあるし、逆に、<マナーの良い、親切な、助け合う日本人の連帯>を現出させた面もあるだろう。
    要するにナショナリズムそのものは良いとも悪いとも言えない。そこには確かに「愛」があるかもしれないが、その「愛」は排他的な紐帯の形を取るならば、それはやはり<悪>である。
    それといま気になるのは、「ナショナリズム」が国民同士の共同-想像-体であるとしても、それが即「国」と結びつく日本語体系においては、やはり「国家主義」との隣接を否定できないのではないか? 現在の日本人はスポーツの国際試合を見ていても「がんばれニッポン! よくやった、すごいぞニッポン!」とすぐに「国」と結びつけてしまう。頑張ったのはその選手や、選手同士の連帯が構築した組織体としてのチームに他ならないのに、なぜかそれが、日本国民や日本国というイメージに置換されてしまうのだ。
    最近は「日本」を褒め讃えるオナニー的な本が書店の店頭をにぎわせているようだが、そういう本に飛びつくのは、全然凄くない、生きていても全然意味ないようなくだらない自己を、「日本」というくくりに結びつけることで何とか美化させたいという、しょうもない欲望から来ているのだろうか?
    ナショナリズムと国家の関係についてはもっといろいろ読み、考察してみたい。

  • ある時、ある頭の良い人が昔に起こったことを文章にまとめました。
    皆にわかり易く伝えるために比喩を使います。タイムマシンがないので想像して補足する部分もありました。
    やがてそれがあたかも皆の記憶にあったかのような事実になりました。

    文章は印刷されて様々な土地に広まって生きます。

    ある土地では、ある頭の良い人が言語が異なる人に伝えるために文章にまとめました。
    伝えるためには比喩が必要でした。対比する言葉がなかったり文化の違いで理解しにくいことがあったからです。良い例えにするためにも様々なことを想像して言葉にします。

    やがてそこに住む人たちは国について想像するようになりましたとさ。

    ・・・読み進めることが難しかったです。なのでこの程度の理解度・・・
    自身の読解力のなさが原因ですが、接続詞の「しかし」が多いと読みすすめにくいんだなぁと感じました。

    プレゼンすることや、翻訳することにもクリエイティビティーが求められていますね.

  • ナショナリズム論の新古典。その論旨は、いろいろなところで紹介されているので、読む前から、知っている気になってしまう。が、一応、確認のため、読む。

    基本的には、タイトルから想像されるような内容で、タイトルだけで、言いたいことを言い切っているかな。タイトルの明快さは、ドーキンスの「利己的な遺伝子」に匹敵するか?

    内容的には、「そーなんだろーな」と思うのだろうが、なんだか、これだけで良いかなという疑問は残る。

    つまり、ナショナリズムの起源として、言語とか、知識の重要性を強調しているわけだが、経済とか、政治の重要性というような「下部構造」的なものも大切なんじゃないの、なんてことをガラにもなく言いたくなるわけだ。

    例えば、国民国家の成立として、ウェストファリア条約みたいなのに言及がないというのもどんなものだろうか?と思った。まあ、そういうのは常識に属することで、この本は、そうした国民国家の成立のなかでの、知識の重要性という本だと割り切って読めばよいのかな?

    ちなみに、知識と権力という観点は、フーコーの影響が極めて大きいと思う。日本でのフーコーって、どちらかという哲学者という受け止めなのかなと思うが、英米圏では、ポストモダーンな歴史学者、政治学者と言う感じで、受け止められていて、フーコー的な問題意識をストレートに継承した研究がこうしてなされているのかなという気がした。

    最近、読んだサイードのインタビューで、「ディスクール」という言葉を使ったあとで、苦笑まじりで、「あのころ(70年代)は、フーコーの影響は絶大であった」みたいなコメントをしているところが、すごく印象的だった。なるほど、今読み直してみようとしている「オリエンタリズム」や「イスラム報道」は、もろ「知識と権力」だからなー。

    もうすこし、まっとうなナショナリズムの本も読んでみよう。

  • 多分名著なんだと思うんだけど、自分の理解力が低くて消化不良。もう少し色々な本を読んで、深く読み込めるようになってから、改めてじっくり取り組もう。

  • k

  • たぶんこれまで3回以上本書を読んでいる。そして今回別の本で本書の引用があったため再々々読したのだが‥。本書の中身は何度読んでもすんなり頭に入ってこない。それだけ幅広く奥深い。
    本書は既に古典的名著と位置付けられるだろうから、本書に書かれた内容に興味があるのならば、本書の影響を受けた後発の関連書籍を読むことをお薦めする。

  • 【久保田和男先生】
    ナショナリズム研究の古典である。近代現代の新興国家(日本も含む)がかつてもその民族的共同体として存在しており、伝統ある歴史を持っていたと考えるのは、想像(フィクション)なのだという衝撃的な結論が導かれている。われわれは、近代になってからつくられた伝統のシンボルを、古代からあったかのように信じ込まされているのだ。それは、国家統合を目指した勢力の戦略だったのである。どのようにして民族や国家というもの、いわゆるナショナリズムが近代になってから成立したのだろうか。この書を理解することで、一段階高い知の水平にたつことができる。

  • 国民を「想像の政治共同体」というイメージで定義するならば、ナショナリズムとは、さしずめ「虚像の運命共同体」と言いたい。普段は懐疑的に見る赤の他人でも、国家的イベントになると突然「ニッポン」コールとともに仲間になる。そして終わればまた見知らぬ他人へと戻る。これを虚しい以外に何と言おう?

  • 2013年8月

  • 2013 11/6パワー・ブラウジング。Amazonで購入。
    図書・図書館史の授業用に読んだ本。
    以下、授業時のメモ。

    ===
    ・従来・・・ラテン語(他にはアラビア語、中国語など)からなる「聖なる想像の共同体」  ・それが俗語等による国民国家的、想像の共同体になっていく要因・・・出版資本主義
     ・16世紀の出版・・・資本主義的企業
      ・「書籍商はなによりもまず生産物を売りさばいて利益をおさめようとし、そのため、この時代のできるだけ多くの人々の好みにあった著作を求めた」
      ・ラテン語を話せるのは二言語を使えるエリートだけ・・・その市場が飽和すれば、当然俗語出版に行く
       ・ラテン語の地位の変化・・・人文主義
       ・宗教改革・・・俗語出版を利用
       ・絶対君主による俗語の行政中央集権化手段への採用
      ・俗語はもともと多様・・・口語俗語レベルでは、ちょっと離れたところ同士では会話は理解できない/テレビができる前の津軽弁VS薩摩弁とか想像してもらえれば
       ・そんなごく小規模な範囲での出版じゃ儲からない・・・ある程度、共通している範囲内で組み立てなおした「出版語」にまとまっていく
      ・「多様なフランス口語、英口語、スペイン口語を話す者は、会話においては、おたがい理解するのが困難だったり、ときには不可能であったりするのだが、かれらは、印刷と紙によって相互了解できるようになった」(p.84)
      ・「この過程で、かれらは、かれらのこの特定の言語の場には、数十万、いや数百万もの人々がいること、そしてまた、これらの数十万、数百万の人々だけがこの場に所属するのだということをしだいに意識するようになっていった」(同)
       ・この「読書同胞」の存在・・・国民的なものと想像される共同体の胚である

     ・言語の固定・・・写本作成においては、意識的/無意識的に写字生は時代の状況にあわせて手を加えてしまう
      ・その結果、たとえば12世紀と15世紀ではフランス語は全然異なってしまっている/理解し難い
      ・印刷によって一度刷られたテキストは固定されるようになる/書き言葉の変化の速度は決定的に鈍化
      ・その結果・・・「古さ」のイメージが生まれる=「伝統的」的なイメージができる

     ・ブルジョアジー階級・・・「本質的に想像を基礎として連帯を達成した最初の階級」
      ・文字を読める+同じ文字を共有する他のブルジョアジーに、会ったことがないどころか存在すら知らなくても共鳴できる
       ⇔・それまでの婚姻や友情を基板とする貴族階級等とは異なる存在
        ・ただし言語によって範囲は規定される
      ・「人は誰とでも寝ることができるけれども、ある人々の言葉しか読むことはできない」(p.132)

     ・ネアンの引用:「ナショナリズムを唱導する新しい中産階級インテリゲンチアは、大衆を歴史に招じ入れなければならなかった。そしてその招待状はかれらの理解する言語で書かれねばならなかった。」(p.135)
      ・ある言語の話者がその言語による国家創設がふさわしいと考えるのであれば、その言語の話者はすべてその国家の範囲に入れることを認める必要があり、そうなると農奴制のようなものは捨てざるを得なくなる・・・人民主義的性格
      
     ・王朝国家/帝国(国内に複数の出版俗語話者が存在する国家)はどの出版俗語を選ぶかで苦慮することに・・・
      ・ある語を選べば過度に肩入れしたとみなされ他の言語話者に攻撃される/譲歩すると採用した言語の話者に攻撃される
      ・オーストリア・ハンガリー帝国/オスマン帝国

     ・p.157・・・日本の場合の事例紹介あり。後の回で使えるか?

     ・p.216・・・ナショナリズムというものが知られてから後には、出版俗語を異にする人々による国民国家も成立しえている。例えばスイス。ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語話者が入り乱れている
      ・これはかなり遅れてきた波

     ・最終層・・・Open Society Foundationが出てきている。授業とは別件であとで読み返す

     ・基本的に自分が書いてた筋とまあ大筋で相違ないことは確かなようである・・・王朝国家はそれで統一性を保とうとするし、それが倒れれば民主的に進められる、と
      ・音声メディアがない時代にはますます大事・・・文字を読めること/想像できること
      ・そのためには・・・教育が必要である
       ・公教育を補う存在としての公共図書館、国あるいは自治体が予算を支出し、人々の社会教育を担う機関としての図書館は、ゆえに近代以降の産物である

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