定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)

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  • Amazon.co.jp ・本 (400ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784904701089

感想・レビュー・書評

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  • 「ナショナリティとナショナリズムが文化的人造物であること」、そして「この文化的人造物が、これほどにも深い愛着を人々に引き起こしてきたのはなぜか」を探求する著書。約370ページ。注釈が豊富で、全体の2割程度の紙数は原注と訳注に費やされる。全11章のうち、第10・11章は増補版で追加されたようだ。1983年の初版から四半世紀近く経って綴られたという巻末の「旅と交通」は、出版の経緯や各国での翻訳にまつわるエピソード、本書の立ち位置を確認するもので、内容についてはあまり触れられていない。

    本書を通して著者が一貫して主張していると感じるのは、国家を可能にした思考法が、第10章で指摘される「すべてをトータルに捉え分類する格子(グリッド)」「数量化そのものの理論」にあるということだ。そのための具体的な「権力の三つの制度」として、第10章では人口調査、地図、博物館が挙げられる。さらに、それ以前の本書の前半ではナショナリズムを後押しした重要な要素として、出版資本主義による影響として新聞、植民地支配下において敷き詰められた官僚や学校制度による均質化の推進がナショナリズムを成立させる前提となったことが繰り返し説明される。

    つまり、新聞や地図、時計といったツールが一般的になり、整備された官僚的な世界が受け入れられることによって、世界の時間と空間が均質で並列的なものとして認識されることが、「想像の共同体=国民」の意識を成立させる前提として必要だったことがわかる。そしてこれらを推進した植民地主義と資本主義についても、重要な題材として本書中で何度となく取り上げられる。

    国家のアイデンティティとして連想しやすい各国の「俗語」の重要性は、ナショナリズムを成立させる必須の要素ではないとして否定している点も興味深い。事実、アメリカ大陸諸国の言語は宗主国から受け継いだ言語がそのまま使われており、ヨーロッパ内であっても自前の言語を持たず複数の言語が用いられるスイスの例も挙げられていることからも了解できる。官僚的に線引きされた世界こそが国家にとってまず必須なのであり、その裏返しに言語や歴史といったオリジナルで自明と思われがちな要素がむしろ後付けだとする分析が面白い。

    もうひとつ、国家の成立のなかで注目すべき事実として、「(アメリカの)十三植民地の独立運動の指導者の多くが大奴隷農園主であったこと」、「世界史的観点からすれば、ブルジョワジーは、本質的に想像を基礎として連帯を達成した最初の階級」であった点がある。アメリカを端緒とした独立・開国の方法を「モデュール」として取り入れて自国を独立へと導いたのもやはり各地のブルジョワジーたちだったことを鑑みると、国家が元来誰のために立ち上げられた共同体なのかについても改めて思わせられる。

    現在、世界の多くの地域はいずれかの国家の領土として分類されているが、境界線を含めてその成り立ちのほとんどが支配と被支配を問わず植民地時代に大きく影響されていることを考えれば、それぞれの国家の歴史的な正統性も結局は便宜上の認識に過ぎないのだろう。にもかかわらずそのような危うい正統性を、生まれもっての誇るべきものとして人々に生命を差し出させるだけの力をもつナショナリズムは、均質化された世界における一種の宗教として意識されないうちに機能しているのかもしれない。同時に、国家といってもここ二世紀程度でひねり出された共同体ならば、長期的な未来に、人類全体が国家を必要としない社会に移行したとしても不思議ではない。

  • 21世紀はグローバリズムが進み、国という枠組みが希薄になる時代だと思っていたが、ここ数年、国益がやたらと語られるようになり、国家回帰の方向性も強まってきた。ナショナルなものは意外としぶとい。本書は80年代に書かれたその分野の古典的著作だが、得心するところが多かった。

    さて、本書の議論の多くはヨーロッパから広まった帝国主義的なものが植民地にどのようにナショナルなものを作り出すかに集中している。南米と東南アジアの事例が豊富で、それから初期のアメリカも分析されている。

    それらの事例からは帝国主義が単に支配者としての本国人、被支配者としての現地人という単純な二分法ではなく、現地生まれの本国人(クレオールと呼ばれる2世、3世)というどっちつかずの社会階層を生み、それが本国が植民地に持ち込んだ言語や社会制度を所有することで国家が生まれてくる。

    国家は一つの概念でまとめられるほど単純ではなく、王政から公共性が発展し国民国家へと看板を書き換えたヨーロッパ、帝国主義的な展開によってそうならざるを得なかった旧植民地地域(本書が主に扱っているのはここ)、ヨーロッパに遅れ独自の形で王政を近代化と合致させた国(例えばロシア、日本、それから括弧つきで中国など)と、その在り方も歴史的経緯によってかなりの違いがある。そこらへんを押さえると現在の世界情勢の諸問題をもたらしている歴史的背景がみえてくるように感じる。

    本書は「国家」のために命を捧げるネイション・ロマンティシズム(これは私がいま作った言葉)が近代の歴史を大きく動かしてきた事例も挙げているが、資本がネイションの枠を超えて広がり、急速に富を占有しているという現実下では、多くの国で民衆は権利を主張する対象として国家を捉えているように思う。例えば愛国心という言葉は現在どれだけの実体性を持っているのだろうか。とはいえもはや資本の自己増殖は国家も止められないところに来ており、蓄積された矛盾はやがて破裂するだろうし、そこで国家という概念もまた変容せざるを得なくなろう。

    国家の近代化を促したのは出版資本主義だったが、SNS、フィンテックやクラウド・コンピューティングは社会や国家をどこに導いていくのだろうか。

  • そのスジ(?)では割と有名な本らしいので、購入して読んでみた。原著は1983年である。
    先日読んだ橋川文三『ナショナリズム』(ちくま学芸文庫)と比較し考えながら読んだが、橋川がナショナリズムの起源を端的に「ルソーの思想を部分的に受け継いだフランス革命」としていたのに対し、本書の著者ベネディクト・アンダーソンは、ナショナリズム醸成の土壌はヨーロッパにおいて(特に印刷術の発明と発展を画期として)つちかわれてきたが、最初にナショナリズムが明確に誕生したのは南北アメリカだと述べている。確かにフランス革命よりアメリカ独立宣言は少し早い。
    この本の凄いところは、ヨーロッパ史に留まらず、中南米からアジア(日本もしっかり分析されている)、北欧まで、およそあらゆる領域の国々を深く探究しているところだ。
    さて、ナショナリズムという語は「国民(ネーション)主義」を指すのであって、「国家主義」と混同するのは完全に間違いであるらしい。だからこそ、ナショナリズム的な像が「想像の共同体」と呼ばれるのである。
    こんにちの観点から見れば、私たちにとってナショナリズムはどうも悪い面が気になってならないが、アンダーソンは
    「我々はまず、国民(ネーション)は愛を、それもしばしば心からの自己犠牲的な愛を呼び起こすということを思い起こしておく必要がある。」(P232)
    と、肯定的な評価を下している。橋川文三『ナショナリズム』の論からすれば、アンダーソンはナショナリズムと原始的な郷土愛である「パトリオティズム」とを混同しているのではないか? とも思えるのだが、考えてみるとなかなか厄介な問題だ。
    しかしアンダーソンの、上記の引用「自己犠牲的な愛」について言うならば、自爆テロだって聖戦への「愛」だろう、と指摘することも出来るし、一概に良い悪いを判断することはできない。
    日本では特に東日本大震災以降、異様なまでに「今さら」なナショナリズムの心情が多くの国民を包んだ。たとえば、あの「がんばろうニッポン」みたいな、よくわからないスローガンに現れたように。このナショナリズムの心情は、一方では安倍内閣とそのシンパのような<民主主義の無法な破壊者>という<悪>に結実した面もあるし、逆に、<マナーの良い、親切な、助け合う日本人の連帯>を現出させた面もあるだろう。
    要するにナショナリズムそのものは良いとも悪いとも言えない。そこには確かに「愛」があるかもしれないが、その「愛」は排他的な紐帯の形を取るならば、それはやはり<悪>である。
    それといま気になるのは、「ナショナリズム」が国民同士の共同-想像-体であるとしても、それが即「国」と結びつく日本語体系においては、やはり「国家主義」との隣接を否定できないのではないか? 現在の日本人はスポーツの国際試合を見ていても「がんばれニッポン! よくやった、すごいぞニッポン!」とすぐに「国」と結びつけてしまう。頑張ったのはその選手や、選手同士の連帯が構築した組織体としてのチームに他ならないのに、なぜかそれが、日本国民や日本国というイメージに置換されてしまうのだ。
    最近は「日本」を褒め讃えるオナニー的な本が書店の店頭をにぎわせているようだが、そういう本に飛びつくのは、全然凄くない、生きていても全然意味ないようなくだらない自己を、「日本」というくくりに結びつけることで何とか美化させたいという、しょうもない欲望から来ているのだろうか?
    ナショナリズムと国家の関係についてはもっといろいろ読み、考察してみたい。

  • 世論の形成には見知らぬ人と繋がっているという感覚が重要。新聞がこのつながりを作り出した。新聞は現実感と共感意識の幻想を生み出す。いま社会で起きていることを全国の人と共有しているという感覚が公衆を生む。ガブリエル・タルドTarde『世論と群衆』1901
    ※公衆は群衆と異なりマスコミを通じて成立、自然力に左右されない。cf. ル・ボンLe Bon『群衆心理』

    現実は所与ではない。客観的にそこに存在するわけではない。「現実」は言語によって作られる。例えば、社会問題は「その状態が問題だ」と捉える人々の言語活動によって構築される。スペクター&キツセ『社会問題の構築』1977

    数百・数千万の他の国民たち。遠くに住み、顔も知らない。しかし私たちは共同体のイメージを心の中に持っている。国民は空間的に区切られた場所に住んでいて、主権的なものだとイメージしている。深い同志愛をイメージしている。▼このイメージを可能にしたのは、新聞・小説などの出版物により記憶を共有するようになったから。新聞は1日だけのベストセラー。自分とほぼ同時に多数の人が同じ新聞を読んでいる。出版資本主義がネーションとしての意識を生む。ネーションは文化的に構築されたものだ。ベネディクト・アンダーソンAnderson『想像された共同体』1983

    昔からあると思われている「伝統」。実は最近何らかの目的のために作り出されたものかも。支配者が都合のいいように「伝統」を持ち出し、他者・外部に対する自分たちのアイデンティティの源泉として利用している。伝統を源泉とするネーション観は近代になって文化的に構築されたものだ。▼スコットランド。タータン(格子柄の織物)は氏族ごとに異なる模様だとされたが、これは生地を売るために最近創られた”伝統”。エリック・ボブズボームHobsbawm『創られた伝統』1983
    ※ユダヤ人。ロンドン大学バークベック・カレッジ。

    ネーションはあくまでも抽象的なもので、実際には存在しない。想像上の物語で結びついているだけだ。国家機能を維持しながら、ナショナリズムは捨て去ろう。市民による抽象的なステートに生まれ変わろう。ユートピア。ガヤトリ・スピヴァクSpivak『ナショナリズムと想像力』2010
    ※インド東部ベンガル出身。女性。

  • ナショナリズムについて書かれた本。ナショナリズムに関して考察したいのなら、この本は必ず読むべきと感じた。生まれてから漠然と慣れ親しんでいた日本人の共同体、国民性、愛国心というものに対して、初めて現象として認識し、疑念を抱くことができた。なぜ我々は会ったことのない他人について想像することができるのか。またこの我々という代名詞自体が共同体を想像しているという視点がとても印象深かった。

  • 元号も変わったし、国ってなんだろうと思って、積読の一冊を引っ張り出した。よく考えると不思議な共同体。大昔は、共同体って家族だし、せいぜい一族などの集まり。それが村になり都市になって、なんとなくの共同体意識が芽生えたんだろう。ただそれは人種とか民族というよりは、生活の安全を確保するための便利なご近所さんくらいの意識だったのではないか。さらに時代を進めても、メディチ家とかハプスブルグ家が広大な領地を納めていたわけで、ここにアイデンティティを持っていた一般市民はそうそういないのではないか。本書ではここから国という概念が進んだのは「共通言語」であり、その副産物である「印刷物」だという。確かに、高等教育含め、同じ言語で語られる歴史や文化には共感しやすいし、仲間意識も芽生えやすい。ところでこれを現代の地域活性に役立てようと考える。すると必要なのは「共有言語」であり、「印刷物」の役割を果たす「メディア」とか「イベント」ということになるだろう。なんだかカマコンに近い考え方である。

  • ベネディクトアンダーソン 「想像の共同体 」 ナショナリズムの系譜を論じた名著

    著者のメッセージは、暴力的な死の中に、ナショナリズムの病理性を見出すのでなく、共同体がどのような想像を経験してきたかを見るべきということだと思う


    ナショナリズムを、多様な政治パターンと合体可能な文化的人造物と捉え、言語的多様性、資本主義、印刷技術からナショナリズムを体系化し、同時性の時間概念から、国民が「想像の共同体」である点を論証している


    同胞愛や祖国愛についての論考は、想像の共同体の中で悲劇的結末を遂げる国民を描いていて、文学的な印象を受ける

    「国民はイメージとして心の中に想像されたものである〜同胞愛の故に、みずから死んでいった」

    「祖国への愛には、たわいのない想像力がはたらいている。恋する者の目にあたるのが、愛国者にとっての言語である〜その言語を通して過去が蘇り同胞愛が想像され未来が夢みられる」

    「忘却の中から物語が生まれる〜これらの物語は、均質で空虚な時間の中に設定される〜模範的な自殺、感動的な殉国死など暴力的な死は〜 われわれのものとして記憶/忘却されなければならない」

    著者と訳者はアジア研究者のようで、アジアの事例が多く、丸山眞男や平家物語を引用しているので、身近さを感じる


    帝政ロシアや戦時日本で見られた公定ナショナリズムについては論考が広くて深い

    公定ナショナリズム
    *国民と王朝帝国の意図的合同〜ナショナリズムがモジュールとなり、帝国が国民として装う
    *公定ナショナリズムは、主として王朝、貴族〜本来、民衆の想像の共同体から排除される権力集団
    *帝政ロシアなど多言語領土において、帰化と王朝権力の維持を組み合わせる方策
    *日本は公定ナショナリズムの発揚のため天皇を利用
    *公定ナショナリズムは、共同体が国民的に想像されるに従って、排除される脅威に直面した支配集団が予防措置として採用する
    *公定ナショナリズムは、国民と王朝の矛盾を隠蔽
    *公定ナショナリズムは、革命家が国家の掌握に成功し、彼らの夢を実現するために国家権力を行使しうる地位についたとき妥当なモデル
    *資本主義は、印刷出版の普及によって、ヨーロッパの民衆的ナショナリズムの創造を助け、公定ナショナリズムをヨーロッパ外の植民地にもたらした

  • 新聞や小説といった複製技術がナショナリズムを育てたという観点が面白かった。世界史好きなら読みやすいし面白いと思う。

  • こんな有名なのに今まで読んでませんでしたっていう本
    評判どおりの完成度だがレトリックがエグいし世界史の前提知識なしで読むのは相当つらそう

  • 国民ってなんなの?
    その正体にちょっと驚き。

    正体は本の題名にある。
    じゃあ、
    この世界中の人々の頭に普遍的に(みんな自分の国がどこでどういうものなのか知ってる)しかし個別的に(日本とイギリスは国という意味では同じだけど、異なるもの)ある、
    この「国民」という概念は果たしてどうやって生まれたのか?

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