あのとき、大川小学校で何が起きたのか

  • 青志社
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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784905042570

作品紹介・あらすじ

なぜ、「山さ逃げるべ」という児童の懇願も受け入れず避難が遅れたのか?なぜ、石巻市教育委員会は児童の聞き取り調査メモを廃棄したのか?なぜ、真相解明を求める遺族の声は聞き入れられないのか?膨大な資料開示請求から得た新事実と、行政・遺族双方への綿密な取材によって再検証する、渾身のノンフィクション。

感想・レビュー・書評

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  • 3.11を題材にした真山仁さんの小説「そして、星の輝く夜がくる」の巻末に参考文献として載っていたので興味を持った。

    当時自分は大学3年で、大学近くの施設でサークル活動中だった。千葉県でも、最初は小さかった揺れが大きな横揺れになり、4階建ての4階でも物凄い揺れだった。真横にあったアップライトピアノがガタガタ踊り出し倒れそうな程だった。近くの小学校体育館で凍えそうになりながら一夜を明かし帰宅した後は、就活もしばらく全企業中断となって、放射能が怖くて家に篭っていた。
    メディアを見聞きする時間は山ほどあっただろうに、大川小学校のことは名前を知っているくらいで当時そこで何が起こったか知らなかった。

    表紙の写真も衝撃的だけど、巻頭グラビアを見るだけでとても辛かった。本文を読んでいくと、未来ある沢山の子供たちがすぐそこにある裏山に逃げたがっていたのに、教師の判断で地震後51分も校庭に留まっていたことが全校児童の7割が津波に流され亡くなってしまった原因と分かり言葉を失った。川の堤防の方へ逃げはじめて僅か1分で津波に襲われてしまったという。前方から黒い巨大な波が押し寄せてくるのを目撃した子供たちはどれだけ怖かっただろう。腰を抜かしてしまって動けず逃げられなかった男の子がいたことも出てくる。
    ラジオや市の広報車で津波が来ることを知っていたのに何故避難しなかったのか。「未曾有の震災だったから仕方ない」という考え方は、この本を読む限り到底出来ない。その後の教育委員会や市の対応もあまりにひどく、これでは遺族・亡くなった子供たちは悔しくとてもやりきれないだろうと思う。

    この本は2012年に出版されたものなので、その後どうなったかネットで調べてみた。出版されて間もなく、国の仲裁が入り第三者委員会が設置され、専門家も交えた調査が行われたが、大金をつぎ込んだのに目新しい情報は出なかった。その後、いつまでも進展がなく姿勢を変えない市側に業を煮やした遺族側が訴訟を起こす(2014年)。訴訟は最高裁まで持ち込まれ、遺族側の勝訴となり市と県は約14億3600万円の支払いを命じられた(2019年)。これを受けてようやく市長がこの件を教師による「人災」と認め、改めて謝罪した。
    ここまで来るのに8年以上。遺族たちは子供が亡くなった時の事実が知りたかっただけ。裁判に勝っても子供たちが帰るわけでもなく、「お金目当て」などとネットで誹謗中傷されているのも本当にやるせないことだと思う。A先生はその後も口を閉ざし続けているのだろうか。

    津波に巻き込まれて生存した4人の児童のうち唯一体験を語り続けてきた当時5年生の只野哲也くん、妹・母・祖父も亡くしているのに、本当に強い子だなと思う。もう20歳で将来は警察官になりたいとのこと。彼の将来に幸あれ!

  • 私の子供達が地元の小学校に通っていた時、毎年学校へ提出する書類の内に「学校や担任への要望」のようなものを書かせる項目があった。私が唯一学校へお願いし続けたものは「心身ともに安全であること」だった。しかし公立の学校には「危機管理」という概念が著しく欠如していた(ここに事例は書かないが、いじめ問題ではなく、事件や事故の類)。学校は、他の都道府県で起きた事件や事故を、我が事として捉える「想像力」にも欠けていた。

    そして3・11の震災時、(うちの子達はもう何年も前に卒業した)その小学校のとった対応を聞いて、やはり「使えない」と再認識した。
    東北からは離れている我が県でも、揺れは今までに経験したことのない大きなものだった。多くのお母さん達が自転車で学校へ迎えに走ったそうだ。
    しかし、うちの子達が在籍していた頃から一応年に一度「引き取り訓練」というものを行っていたのだが、それは全くの形だけだったということが露呈した。
    震源地がどうやら東北らしいという程度しかわからず、東北がどれほど大変なことになっているかもまだよくわからなかったし、余震も心配だった時間帯に、なんと児童達は普通に学校外に放り出された(下校させられた)のだ。
    訓練では誰が誰を引き取ったか書類チェックをしていたのに、当日はよその親がよその子も連れて帰るのにも、ノーチェックだったそうだ。
    しかも何もそんな時に予定通りに持って帰らさなくてもいいのに、年度末に近かったため、低学年の子達が右肩左肩とクロスさせて絵具道具やら何やら荷物をいっぱいぶら下げて。上履きのまま校庭に出てそのまま帰宅させれば良いところ、下駄箱のところで散乱した外履きに履き替えさせられたり、全く意味がわからないが裸足で校庭に出させられたクラスもあったそうだ。
    3・11のしばらく後になってこの杜撰な対応を知って、「もしもこの地域に津波が来たら○○小の子達は助からない」と思った。
    (実際には津波が来る場所ではないので津波は例えであって、それは火事でも地震でも、つまりは「学校管理下」という本来は親が安心して子供を預けている場所での対応のまずさという意味)

    その時にはまだ大川小学校の悲劇を私は知らなかった。

    そして現在、この本をとてもゆっくり丁寧に読ませてもらった。詳しい地図が載っていたことは、理解の助けになった。しかし本の作りとして注文をつけるなら、時系列に沿って書かれるか、年表のようにまとめたものを載せていただけたら、より良かったと思う。
    市教委や教師の対応や言い分があまりにも不誠実で不正確であるためなのだが、付箋を貼ったり何度もページをあちこち戻ったりして、自分の頭の中で検証しながら読まなければならなかったからだ。

    あの人もこの人も嘘をついている。もしかしたら、不在だった校長から校庭の教頭に「校庭にとどまれ」という命令が携帯なりなんなりの通信で通じてしまった一時があったのではないか。
    それはもう当事者であるみなさん達や、このことを一緒に調べて見守り続けてきた著者達には充分わかっていることなのだろう。

    丁度昨日もニュースでほんの少しこのことが取り上げられていたのだが、そこで出てきた第三者委員会云々についても、もしこの本を読んでいなければ第三者委員会が設置されたことが良いこととしか私は捉えなかっただろう。
    この地震大国日本では、今後別の地域でも大きな地震が発生することはわかっているのだから、「よその都道府県で、未曾有の自然災害により、たまたま起きてしまった不運なこと」と片付けてしまってはいけない。これはどこの地域にも充分起こりうる「人災」なのだ。

    この本が出版されたことの意味は大きいと思う。

  • (2013.02.23読了)(2013.02.21借入)
    【東日本大震災関連・その112】
    東日本だ震災の生なましい記録を読むのは、そろそろ終わりにしようかなと思っていたのですが、図書館で本の題名を見て、借りる予定だった他の本を置いて、借りてきました。
    著者の地道な取材により、ほぼ明らかになったように思います。
    16章の「「空白の51分」を再検証する」に書かれています。
    地震の第一波が治まった後、生徒を校庭に避難させ、そのまま山へ避難しようとした生徒たちを呼び戻し、校庭へ待機させたまま、教頭・指導主事たちは、どうすべきかを協議し続けていた。その間に生徒を受け取りに訪れた親御さんたちには、生徒を引き渡していた。遠くから通っている生徒たちの送迎バスも来ていたが、出発させずに待機させていた。
    すぐ近くの山は、倒木の危険があるということで、避難経路としては、却下された。
    津波の危険性を説く人たちの注意には、聞く耳を持たず、校庭にそのままいて様子を見るということにした。ところが、3時35分ごろ、津波が来たという、知らせを聞いて、山側でなく、富士川の方へ向かって逃げたが、そちら側からも津波が来て、生徒74名、先生10名が犠牲となった。助かったのは、先生1名と生徒4名。
    助かった先生1名は、津波の直前、学校の2階に上がり、今後の避難場所として適切かを見に行って校庭に戻ってきたときには、津波が間近に迫っており、まだ校庭に残っていた生徒1名を伴って山側に逃げた。この2名は津波に呑み込まれていない。
    残りの助かった生徒3名は、逃げる途中に津波に呑み込まれたが、かろうじて助かった。

    教育委員会側の発表では、山側に逃げようという話は、聞いていない。避難を開始したのは、3時25分ごろ。助かった先生も津波に呑み込まれ、怪我をしていた。と、いうことになっている。
    ニュースで聞いた時には、山側に登るには、子供の足では無理だったので、ということだったように思うのですが、そうではなく、倒木があるから、ということだったようです。(実際には、倒木はなかった、ということです。)
    2011年3月11日、2時46分に、僕は、岩手県大船渡市にいたのですが、次から次と大きな余震が襲ってくるので、家に入ることもできず、3時半過ぎまで、庭に止めてあった車の中で過ごしました。そういう意味では、大川小学校で、3時半過ぎまで、校庭から動けなかったというのもわからないではないのです。津波さえ到達しなければ。
    幸い、僕の家までは、津波が到達しなかったので、助かりました。自宅から150メートル離れたあたりまで、来ていたのは、後で知りました。

    【目次】
    プロローグ 「子どもたちは、見えない魔物に殺された」
    1 釜谷地区と大川小学校―かつて、そこにあった風景
    2 悲劇はどのように伝えられてきたのか
    3 開示された聞き取り調査
    4 「避難途中に大津波」は嘘だった?
    5 ひた隠しにされた被災状況に関する公文書の「嘘」
    6 「校長のひと言」から生じた「人災」疑惑
    7 破棄された聞き取り「証言メモ」
    8 石巻市教育委員会の混乱と逡巡
    9 元指導主事の「証言メモを捨てた理由」
    10 実態を把握していなかった文部科学省
    11 やっと1年5か月後に実現した文部科学大臣視察
    12 現場検証でもうやむやにされた「51分間」
    13 大川小学校大惨事の目撃者たち
    14 子どもの死の意味を問い続ける遺族たち「命の言葉」
    15 生存児童の証言―てっちゃんとおっとうの覚悟
    16 「空白の51分」を再検証する
    17 大川小学校のこれから―いま、ここにある風景
    エピローグ 「子どもたちに、ひと目会いたかった」

    ●山(62頁)
    「大川小学校の体育館脇には、誰でも登れる山があり、シイタケ栽培などで、子どもたちが日常的に登っていた。あの日、私たちの多くは、津波が来ても、あの山があるから大丈夫だろうと考えていました。スクールバスも来ていた。」
    ●山へ逃げよう(105頁)
    津波が来る前、「山へ逃げよう」と、必死に訴えていた児童の証言が、市教委作成の公文書の聞き取り記録の中には残されていなかったのだ。
    ●報告の義務(116頁)
    船越小は、市教委のある市庁舎からは、最も遠い被災校の一つで、通常の道路で35キロあまり離れた海辺にある。通信も交通も分断された中で、各学校の責任者は、山を越え、時に水の中を進み、市教委まで状況を報告に行ったのだ。そこまでしてでも、駆けつけて報告する義務があったからだ。
    ちなみに、大川小の当時の柏葉照幸校長が初めて学校を見に行ったのは、3月17日だった。
    (市教委に柏葉校長からの報告が送られたのは15日。ファックスでの報告。)
    ●3号配備体制(119頁)
    3号配備体制とは、すべての職員が職場で24時間の勤務するのが原則。各学校では、災害発生時、校長、教頭、またはそれに代わる教職員が、施設の被災状況を速やかに電話やファックス、メールで教委に報告することを義務付けられている。
    ●震災直後(156頁)
    私たちが震災直後この地に入ったとき、ここは、まさに地獄絵図でした。それでも遺族全員が、一生懸命、手で砂に埋もれた子どもたちや先生方を掘り起こしました。何の資材もありませんでしたから、遺体を地べたに置くわけにもいかず、流れ着いた畳や板のようなものに上げて、濡れた毛布をかけて、何とか安置したという状況です。
    ●現場検証(164頁)
    市教委は、2012年8月21日、同校の津波被災事故から1年5か月が過ぎて初めて、現場検証を行った。子どもたちが学校を出てから被災するまでの経路と、おおよその距離を割り出すことのみを目的とした調査だ。
    この日の測量の結果、子どもたちが逃げたあの時の経路は、校庭から離れた遠い地点でも、185メートルあまりだったことがわかった。
    ●教育長は不在(173頁)
    2010年12月5日、当時の綿引雄一教育長が脳梗塞で入院したにもかかわらず、亀山市長は新たな教育長を任命することのないまま、翌年の3月11日、震災が起きた。当時の教育長の長期不在は、今日の大川小の被災対応の混乱を招く一因にもなっている。
    ●第三者検証委員会(181頁)
    主な論点は「学校の置かれた環境」「震災前の学校・教育委員会の取り組み状況」「震災時の対処行動」「その他、今回の事案と学校防災に関する提言」を挙げる。
    ●余計なことは(224頁)
    大川小も、柏葉校長が就任して以来、ガラリと変わってしまった
    「何をやるにも縛りをかけられて、自由がなかった。学年PTAでも、これまで行われていた餅つき大会やキャンプ、肝試しなどが、火を使って危ないからと中止された。PTAバレーの学校対抗戦や反省会、育成会主催のスキー教室にも、先生方が参加しなくなった。余計なことは一切するなという態度。」
    (このような校長先生の方針からは、津波が間近に迫るまで、避難行動を起こさないという結果が導きだせそうだ。)
    ●スクールバスの到着を(244頁)
    河口に近い集落では、地域の人たちが「津波が来るから山に上がろう」と強く促したにもかかわらず、孫を乗せたバスの到着を待っていた多くのお年寄りが、犠牲になった。
    ●山へ(284頁)
    教務主任のA教諭は校庭に出ると、〝山だ!山だ!山に逃げろ〟と叫んだ。それを聞いて、山にダーッと登って行った子どもがいた。しかし、教諭の誰かから「戻れ!」と怒られ、連れ戻されている。

    ☆関連図書(既読)
    「ふたたび、ここから-東日本大震災・石巻の人たちの50日間-」池上正樹著、ポプラ社、2011.06.06
    「石巻赤十字病院、気仙沼市立病院、東北大学病院が救った命」久志本成樹監修・石丸かずみ著、アスペクト、2011.09.06
    「石巻赤十字病院の100日間」由井りょう子著、小学館、2011.10.05
    「奇跡の災害ボランティア「石巻モデル」」中原一歩著、朝日新書、2011.10.30
    「海に沈んだ故郷(ふるさと)―北上川河口を襲った巨大津波 避難者の心・科学者の目」堀込光子著・堀込智之著、連合出版、2011.11.05
    「さかな記者が見た大震災石巻讃歌」高成田享著、講談社、2012.01.06
    「笑う、避難所」頓所直人著・名越啓介写真、集英社新書、2012.01.22
    「ボランティアナースが綴る東日本大震災」キャンナス編、三省堂、2012.02.15
    「東日本大震災石巻災害医療の全記録」石井正著、ブルーバックス、2012.02.20
    (2013年2月24日・記)
    (「BOOK」データベースより)
    なぜ、「山さ逃げるべ」という児童の懇願も受け入れず避難が遅れたのか?なぜ、石巻市教育委員会は児童の聞き取り調査メモを廃棄したのか?なぜ、真相解明を求める遺族の声は聞き入れられないのか?膨大な資料開示請求から得た新事実と、行政・遺族双方への綿密な取材によって再検証する、渾身のノンフィクション。

  • あまりの壮絶でリアルな描写に苦しくて途中から文章を直視できなかった。
    誰も悪くないので涙が出た。

    災害時は時間の感覚が普通と違うだろうし50分なんてあっという間に過ぎるんだろうなと思った。
    だからこそ短い時間で瞬時に的確な判断ができるよう普段から防災意識をしっかり持っておくことが大事なんだと思い知らされた。
    我が子には、自分の命はとにかく自分しか守る人がいないんだということを教えていきたい。

  • 「止まった刻」よりも、かなり古い情報の書籍でした。(2012年時)当時の様子がかなり克明に描かれてます。市教委や学校の対応にかなり厳しい。

  • まさにこのタイトルのように”大川小学校で何が起きたのか”を知りたくて、この本をとった。結果、空白の51分間は何もわからずじまい…改めて市や教育委員会の無責任さに呆れかえっただけであった。あ、国もか。ただ、この本を読んで良かったのは目撃者の証言や遺族の言葉の部分であった。読みながら何度か涙した。失ったものは帰らないが、次の時代(世代)の教訓としてほしい、という気持ちが嫌というほど伝わった。いい本でした。

  • 東日本大震災、強い揺れの後襲った津波によって多くの人命が失われたが、その中でも特筆すべきなのは、石巻市立大川小学校での犠牲者の多さだ。地震発生後に家族が迎えに来て帰った児童を除き、生徒78人と教職員11人の合計89人中、生存者はわずかに5人。
    学校管理下でこれだけ多くの犠牲者がでたのはなぜか?
    地震発生から津波が学校を襲うまでの51分間、教師たちは何をしていたのか?
    学校のすぐ裏手には、簡単に登ることのできる山があるのに、なぜそこを登らなかったのか?
    事実を知りたい遺族と、意図的に隠ぺいしているのでは?と思わざるを得ないような対応をとり続ける教育委員会の対立を描きつつ、大地震が発生したときの対応のあり方を考える作品になっている。

    以前に読んだ『生き残る判断、生き残れない行動』でも感じたことだけれど、事故・災害が起こったときに、誰かの指示を待つのではなく、進んで行動を起こすことが大切なのだろうと改めて感じた。
    おそらく、大川小学校の教職員も、災害マニュアルがなく、学校長も不在の中、どう行動したら良いのか決めかねていたのだろう。ここまで津波が来たことがないという油断もあったのだろう。
    こういった特異な状況で死か生存かを分けるのが、“生命力”なのだろうと思う。
    生き残るための知恵を絞り出し、すぐに行動を起こす。

    この本が書かれたのは2012年10月。
    その後、第三者による大川小学校事故検証委員会が設置された。これによって事実が明らかになり、今後の防災に活かされることを願っている。

  • 防災教育とは、マニュアルを作ることでも、マニュアルににそった通り子どもたちが動けるようにすることではなく、自分の命に責任をもって、自分が動けるように子どもたちの心をはぐくんでいくことだと思った。

    釜石で「津波てんでんこ」「命てんでんこ」という言葉があり、あれほど町が壊滅的な被害にあっても、多くの子ども達の命が救われたのは、こうした普段から地震、津波、自然災害がきたらどうすればいいかということが、子ども達の頭にも体にも刻まれていたからだと思う。

  • 3・11の大津波で、大川小学校は84名もの児童、教職員がなくなった。しかし、一方で、「てんでんこ」―各自の判断で生き延びた多くの学校のことを考えると、なぜ大川小ではこのような悲劇が起きたのか、だれしも知りたくなる。NHKでは、2013年の3月8日にその報道をしたのだが、ぼくはうっかり見逃してしまった。そのかわり、新聞の書評欄で見つけたのが本書である。大川小学校の悲劇でもっともひっかかるのは、児童たちが、地震が起きた後、校庭で50分も待機し、逃げたのは津波がくる1分前であったことである。なぜ、こんなことになったのか。本書の二人のジャーナリストは事実を、幸か不幸かその日はそこにいなかった校長、教育委員会、市長、遺族、土地の人々への取材で浮かびあがらそうとする。しかし、そこで遭遇したのは、無責任な校長、教育委員会、市長たちの姿である。(よくここまでいなおられるものだと思う場面も少なくない。)一番の鍵は、教師の中で唯一生き残ったA教諭だが、ショックのためか、ドクターストップがかかって、父兄へ一度書面で説明をしたあと表へ出てこない。しかも、その手紙と市教委の報告とは矛盾する内容になっているというのにである。大川小の悲劇はp283以下に、仮説として再現されているから、気の短い人はここをまず読めばいい。というのは、本書は聞き書きを中心に構成されているので、A教諭にしても、最初読んでいて、そんなにとりみだしているのは女性なのか(女性の方すみません)とか思ってしまったが、最後まで読むと「学年主任」までしている人である。つまり、全体を読まないと人物像がわからないようになっているのである。また、これだけの人が助からなかったのはなぜかという疑問に対しては、まだすっきりしないままだ。たとえば、子どもたちは、近所の山は、きのこの栽培もしていたのでよく登っているし、父兄もあの山があるから、学校は大丈夫だと思っているのにそこに登らせなかったのはなぜか。残った教師に聞いてみるという法はなかったのか。規則でしばる校長の資質を問題にしているが、それなら、日常、自由な思考、行動を制約されることがあったのか。もうすこし、つっこんで取材してもらいたかった気がする。

  • 危機的状況が起きた時、大人は正しい判断ができるのか。周りの大人を信じていいのか。

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著者プロフィール

1962年、神奈川県生まれ。ジャーナリスト。ひきこもり問題、東日本大震災、築地市場移転などのテーマを追う。NPO法人KHJ全国ひきこもり家族会連合会理事。

「2019年 『ルポ「8050問題」』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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