ある晴れた日の出来事: 12月8日と8月15日と (かもがわブックレット 15)
- かもがわ出版 (1989年2月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (62ページ)
- / ISBN・EAN: 9784906247509
感想・レビュー・書評
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太平洋戦争が開かれた12月8日の東京は、すんだ青い空だったという。加藤周一は医学部の学生だった。
政党は大政翼賛会に組みこまれて解党してしまい、労組は大日本産業報国会に吸収されて完全な御用組合、政府方針の下請け機関となってしまっていたのがそのころの日本。新聞は、用紙統制委員会のもと用紙制限が始まり、これも政府の戦争政策を支持する方向へ流れた。
▼…気にいらないことを書いた時に弾圧されるのと、気にいることを書けば用紙が保障されるというのでは、明らかにちがいます。だから、新聞、弾圧される恐れがあるから書かなかったというのではなくて、積極的に政府が気にいってくれることを書くよう誘導されたのです。もちろん、用紙制限だけじゃありませんが、これは大きな条件ではありました。(pp.11-12)
8月15日、正午の放送を聞いた加藤周一の最初の反応は「生きている」というものだった。
▼生きているということの次に感じたのは、生き残ったということでした。とても強く感じました。というのは、多くの同級生たちが、どんどん死んでいましたから。幼なじみの友も死にました。この人たちは死んで、私は生き残ったということになるわけです。この生き残ったというのは、まったくの偶然ですよ。なんらの理由もないんだから。私が生き残って、ほかの人が死んでしまったとういことに理由なんてない。まったくの偶然であり、根拠なんてどこにもないんですよ。事故というか、理屈のないことですね。(p.29)
そして加藤は、死んだ友人たちを裏切りたくない、友人たちを殺した奴を助けることは絶対にしたくない、そういう感情が非常に強くなったという。
▼…自分が生き残ったのは偶然なんだから、私と同じように生きるはずの友人を殺した奴を忘れるわけにはいかない。殺したのは戦争ですから、戦争とそれを計画し命令した権力を許すわけにはいきません。(pp.29-30)
8月の終わりから9月にかけての解放感は強かった、非合理主義からの、自由な言論の可能性がないところからの解放感にはとても強いものがあったと加藤は続けて述べている。
この20年あまり前の講演録は今も通じる内容で、「憲法改正国民投票法」が施行準備されている(近所の図書館の前には、この法律についてのパンフレットが積んであった)いま、加藤周一のこころをよく読んでおきたいと思った。詳細をみるコメント0件をすべて表示