- Amazon.co.jp ・本 (160ページ)
- / ISBN・EAN: 9784906700790
作品紹介・あらすじ
ふたりの「龍」による、伝説の対談が30年ぶりに復活。単行本初収録の対談、鼎談もたっぷり加え、未来なき、21世紀の日本を語る。
感想・レビュー・書評
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2013.4記。
村上龍と坂本龍一が毎回各分野の一流ゲストと鼎談する「EV Café」、大学時代は「哲学も音楽も遺伝子工学も語れちゃう僕ら」ぶりに惹かれ熱心に読んだものだが、いつのまにかその続編が単行本化されていた。一読、「30年を経て村上龍と坂本龍一、かくも深き断絶」というのが率直な印象。
村上龍と坂本龍一は「現状への危機感」という根っこの部分を強く共有している。しかしたどり着いている場所は村上は「サバイバル」、坂本は「共生」と、大きく隔たってしまっていることが印象深い。
この関係が一番明確に表れるのが「競争・成長」という言葉への両者の反応の仕方の違いだ。
村上は、坂本と浅田彰が「(グローバルな)競争からはもう降りるべき」と意気投合しているときに会話に乗り切れていない。一方、環境学者の赤尾健一氏は、坂本の「共生」という概念に対して理解を示しつつも、「自然との共生関係は人間の人口調節なしにはありえず、それはしばしば(現代人にとっては)むごすぎる形で現れる。そして現代人はそれに耐えられない」「人口問題がひどいのは途上国。解決するには経済成長しかない」と、断言する。この議論は村上には響いているが坂本はこれに絡んでいかない。
2012年7月の最新対談で村上が「坂本と会うのは嬉しいけど憂鬱なんだ」と発言している。これを編者の伊藤亮一氏は深い部分で共感しあう二人、と解釈しようとしている。が、僕には村上氏が単に「坂本はいいやつなんだけど、もはや話合わないんだよね」と言っているように聞こえた(それは坂本氏も同じではないか)。その上で、イデオロギー的な応酬に陥ることなく穏やかに対話を(主として村上が坂本の怒りや焦燥に寄り添う形で)進めているところに、二人の関係の老成を見た。ともあれ、主張の共通点と相違点が明瞭なので、気持ちよく読める一冊であった。 -
思索
哲学 -
80年代の前半に村上龍さんと坂本龍一さん、そしてゲストを交えた鼎談、「EV.Cafe」という企画がありました。そしてそれが書籍化され、分厚い文庫本になったそれを、僕は中学か高校の時分に見つけて、何度か読みなおすほどに知的興奮を味わったものでした。ほんとうに大好きな本で、興奮した10冊というカテゴリーを作るならば、その中の筆頭におさめたいくらいなんですよね。
それで、そんな本だから、きっと同じように楽しむ人が多いに違いないから、続編があるはずと睨んでいました。村上龍さんが編集長を務めるJMMでもちらっと「EV.Cafe2」について触れられたことがあったと思います。そしてそれは2000年頃の話で、それから3.11を経て、『村上龍と坂本龍一 21世紀のEV.Cafe』として、まとまった形で世に出ました。 -
自分が頭が悪く、行動していないことに、反省ではなく、危機感を持てる本。
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学生時代~30代ぐらいまで、この二人からは大きな影響を受けてきたけど、いま久しぶりにこういうのを読むと、懐かしい感じはすれども、新しさや刺激は感じなくなっている。
むしろ、時代や現実と乖離していると感じる部分すらある。
自分たちは分かっている。見えているというような視点で、この国はダメだね。もう遅い。こままでは行き詰まる。というようなことを今も、十数年前も二人で話しているけど、この国はまだ普通にやってきている。
もちろん多くの問題や根深い問題はあるが、それはどこの国も同じだろうし、いつの時代も同じだと思う。いまこの時代がことさらに未来が悲観的な訳でもないし、史上最悪な訳でもないだろう。だっていつの時代で識者たちはそう言っているんだから。 -
冒頭の対談は、読んだ瞬間になんだこのグダグダの話はよう…、と思ったのだけど、しかし村上龍が3.11直後は不安で酒を飲んで昔のポップスを聞いていたと語ったこと、そして坂本龍一がどんなポップスかを聞いていたことが、なんだか救われてしまった。
そして坂本と会うこと自体は楽しいけど憂鬱なんだ、と村上龍。これが、なんだかよくわかる。
その対談以外はみな20世紀に行われた話。今あえて出すということに意図があるのだろう。
浅田彰が、青年期と老年期がアナーキーなんだ、と思えば来世紀も明るいよ、と言っていた…。 -
村上龍氏と坂本龍一氏を中心として、ゲストを交えた対談集。
自分達が今生きている時代ってのは、どういう時代なのか?どう生きるべきなのか?というような一種の哲学的な対話をしています。特に3・11を境にして大きく変わったようです。
村上氏や坂本氏は、かなり悲観的な見方があり、坂本氏は諦めている部分と(是非はともかく)諦めずに発信していく部分とが見え隠れします。発信していく部分はNO NUKES とか kizunaworld 等の活動に見て取れますね。
共感したのは、今は「鈍感な社会」だということ。これは「人の痛みに鈍感」という意味だと思う。ニュース見てても、学校行ってても、仕事してても「えっ?」っていうことが多いよなあと思ってたけど、どうやら僕は「敏感な人」らしい。これは僕が特別敏感という訳ではなさそうで、まともな人は現代においてはそうなってしまうのだろう。
坂本氏が学生だった全共闘の時代にも触れられているが、当時はおそらく「人の痛みに鈍感」になることに反発する人々がいて、声を上げて、行動してそれを阻止しようとしていた。現代は、ポツリと愚痴はこぼしても、大きな声で批判したり、ましてや行動してそれを正そうという人がほとんどいないんじゃないだろうか?