地域アート――美学/制度/日本

  • 堀之内出版
3.45
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感想 : 9
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  • Amazon.co.jp ・本 (456ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784906708550

感想・レビュー・書評

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  • 地方の芸術祭とか、アーティストインレジデンスとか、アートで地域おこしとか、地域とともに、っていいことかもしれないけど作品自体が面白くない、ってのは気にしなくていいのか?わたしがよさを分かってないだけなの?現代美術って難しいのね、なんて思っていたが、この本で藤田直哉氏が問題定義しているのはまさにわたしが疑問に思っていたことそのものだった。
    難しいことはよく分からなかったが現代アートイコール地域アートという定義になっちゃうと、地域が活性化したからよかったよねとは言えるけど、アートとしてどうなのかという批評が誰にもできなくなっちゃうよね、それじゃアートとしてダメじゃないの、という話と理解した。

  • 「地域アート」にもやもやもやもやしていたので、
    すっきりした。

    いろいろな意見があり、本が宣言しているように、
    アート界の統一見解が書かれているわけではない。

    それでも、自分の疑問が、アートの専門家たちによって
    言葉になっていたのがよかった。

  • いま話題の地域アートに関して、多岐にわたる視点からの論集となっており、とても面白い。
    また、サイトヲヒデユキ氏による行き届いた装幀が美しく、本書の問いでもある「美学とは」にこの本のたたずまい自体がひとつの応答となっていると思う。
    「読みにくい」とする感想を目にするが、気になるほどではないのでは。むしろ、この美しさを味わって読む楽しさを備えている。

  • 藤田氏の現代芸術,地域アートに対する警鐘,あるいは問題定義は,こうやって言葉にされてみるととてもよく腑に落ちる.いいとか悪いとかは別にして,やはりこういうことを明確に可視化することも必要だと思う.
    ただ,この本のブルーの印刷インク.紙,フォントあらゆるものが奇をてらったせいで,非常に読みにくいものとなった.この本がもっと違う形で出たら,さらに多くの人が読んだに違いないと,残念である.普通の本なら.⭐️4.

  • 仮に「新たな形態」とか「新たな価値(意味付け)」を他者の前に提示できたとしても、その出自や正当性の背景が、「言葉」にあるのだとしたら、おそらくそれは表面的には「違い」を生んでいるようで、実際には「同じ(または焼き増し)」の体験、知覚しか発生させていないんだろうな。つまり実際にはそれを「スペクタクル」として享受しつつも、表面に見えている現れや体験自体は「はじめて」のものだから、それを「新鮮さ」と言っているに過ぎない


    以下引用

    重要なのは、社会に対してラディカルに異議申し建てを行い、法と軋轢を生みながら、世の中の認識や感性を変えていくこと

    政治性や思想性はただちに芸術性を意味するわけではない

    注意を喚起したいのは、現代美術の世界が、問題的そのものが芸術性の証明であるかのような傾向を持っていること
    →知覚の切り替わりとは関係がない

    騒動や問題提起そのものが芸術的価値として錯覚されていく傾向には危険性がある

    効用や目的が纏われていた、税金が使われているため、役に立つものを作らないといけないという圧力がある中で、芸術的価値を何とか担保しようとする

    アートは、コミュニケーションの生成に関わるものへと変化しようとしているが、そのときに問題が起こる。そんなに簡単に有用になっていいのか。質は何で判断されるのか。芸術の独自性は、保ちうるのか。

    全体が把握できないという作品の在り方は、その外見がひらかれたようでいて、ある一点において、実際はとても閉じている。暗黙に、誰かによる批評や分析を封じている。

    従来位の輪郭とは、異なる輪郭の作品に対して、外部や他者の言葉、批評が機能しなくなっている

    これらの芸術の制度を疑い、それを開放することを裏づける、理論的な背景がいかに立派であろうとも、お金を出す自治体、国の理屈が冒頭で記したものである以上、それは地域活性化に芸術が回収されることを正当化するものとしてしか機能しない
    (過去の運動を自身の正当化の根拠のようにしながら、結局は国家の一環であるかのように地域活性化に奉仕してしまって、閉じている)


    単なる権威による自己正当化などが気に食わない。頽落している。問い直し、反権威の精神を見失っている。新しい世界の可能性を開示することで、根本的に別種の政治の可能性を提示することが、芸術にしかできないことではないか。政治思想や社会の動向に随伴し、既存の権威を用いて、自己正当化することは、美術固有の存在価値を棄損している。

    国策や社会運動に芸術がやすやすと回収されるようでは意味がない

    プロジェクトがどのようなものであれ、社会に関係しているということは、それだけでなぜかアートの中ではひょうかされてしまう。社会に関わったことが、免罪符として機能してしまう

    ★美ではなく、理論や思想、イデオロギーなどの芸術に固有ではない原理が先導するとき、そのジャンルは、存在する固有の意味を喪失する。端的に、魅力を失う。

    68年的なものの残骸を参照するだけではん、芸術的価値が保証されるとは思わない、社会や政治に関わりさせすればよいと思い込んでいる作家

    地域アートにはマネタイズの効果があり、大勢の地域の人々が参加でき、いろいろなコミュニケーションが生まれる。そういったことを、「アート」として正当化してくれる後ろ盾として、関係性の美学がりゅよう、悪用されている

    地域に根zしたオープンな作品の反乱、若いアーティストやボランティア、一般者にいたるまで、さまざまなやりがい搾取が、関係性が正当化されることで、有効に機能している

    かつて商業主義のカウンターとしてあった関係性への希求が、いまやマネタイズの方法として主流化し、大衆化している。関係性の美学の理論を使うと、むしろそれを肯定してしまう

    かつては批判性を持っていた理念が次の世代では意義がなくなり、ゾンビ化する。

    資本主義は、あらゆるところに差異を見出し、価値を産出する資本の運動。グローバリゼーションの反動として地域主義が起こっているのではなく、むしろ、それらは同じ出来事。

    啓蒙や地域振興などの目的こそアートの存在意義だ、という逆転が起きてしまう

    重要なのは、アートツーリズムであるか否かではなく、その内容の水準の問題であり、地域アートも同様
    →その「質」への免罪符として、効用や意義、権威が有効に機能してしまうということだろうな

    ★毎日厳しい労働を強いられている人が、ふとある詩を読み、自分も新たに何かを創造するということがありえる。こうした既存の社会関係を宙づりにする力を、ランシエールは、芸術作品の本当の潜勢力だとみなしている。

    参加を謳いながら、観光客にされてしまっている。鑑賞者の表面的な参加。鑑賞者の反応をあらかじめ想定してつくられている作品を評価しているきらいがあり、鑑賞者を信頼していない。

    ★良い、悪いの判断の困難さ。芸術としての強度をはかるのに、単に造形だけではないということ。評価軸の変更が必要

    一つの(造形的強度とか)原理ではなく、四つを混ぜていくときのルールに興味があり、川俣正にはそれがある。

    彫刻としてだけでは自立しない程度の構造。そこで他の要素が必要。

    啓蒙的な立場にあるキュレータ、美術館も安全な場所からものごとを語っているだけ

    本当に重要なのは、そうした立場が、関係が、壊れる場所に立つこと。

    スペクタクルは、人間がみんな観客みたいになって、世界に接する。もっとちゃんと社会や政治に参加しろといっている

    コミュニケーションや場をいかに作るかというよりも、その造形を、ひとつの形式と捉えれば、同じことが起こる。形式をわかりやすく使うとファシズムになる。「できる範囲」から外に出ない。これが地域アートの問題。できる範囲を超えると敵対性が生まれてくる
    →既存の関りのパターンでやっているということ

    コミュニケーションの造形が、それだけでアートと呼べるかは、地域アートの外の話。

    芸術振興による効果は簡単には数値化できない、という論理は通用せず、地元の観光地化、ブランディング、イノベーション装置として全国に膨張していった(地域アートが)

    地方は衰退していくスパイラルから逃れられない、そういう地方の現実と対峙した作家は、明るい未来のエネルギーという着ぐるみを着てしまう。
    (イノベーションを必要とする地域の欲望が、アートを地域に配置させる。そこにゆるキャラがいても地域的には問題ない。)

    地域アートは成功事例を知って、地元が動く。

    美術館の外に出るだけで、前衛性や制度批判が担保されるわけではない(地域アートで、日本中が美術館化してる)

    美術館が反転して、管理統制された空間が無限に拡張して、エアポケットのようなアナーキーな場所はつくりにくい

    地域アートの成功事例は創作物。観客動員数。
    →★本来の「アート性」とは異なるところで、その効果がはかられてしまっている


    ★町内会の盆踊りなどでカレーがふるまわれることはあるが、しかしあの作家のカレーは、あくまでインタラクティブなアートとして提示、受容される。
    →これ読むと、自分は別に自分のしていることが、アートだとどこかに認知されたり、プレゼンや理論武装してまでそれを認めさせようという気にはならないな。自分が興味あるのは、ただただ、その「場」であり。作家には「これはアートです」ということは言えないと思う。利他と同じ構造なんではないかな。何かが起きるということと、それがアートであるのだと強迫的にプレゼンすることは、まったく志向を異にするものなのではないかな。それをアートにするのは、利他と同様、受け取る人なのだと思う。

    あらゆる疑問は、それは芸術なのかという陳腐な問いに回収されてしまう。
    →★★「、、、、だから芸術です」ということは作家が言えることではないんではないかな。そこにいくら理論的な補強があったとしても。それを保証するのは、実際に「何かが起きた」というところ、ないしは、それを享受した側の「変化」にしか、依拠しないのではないかな。もしかしたら、批評家にもできないのかもしれない。

    作品をエンターテイメントから区別するにあたって、それがギャラリーの中に存在していることに頼りきっている

    ギャラリーでは、そこにあるものが「アートである」というフレームを前提として作品や出来事を受容する。インタラクションといいつつ、

    アートは、日常世界のやさしさによってはいけない


    アートは、作品を通し、関係性や観客に新たな社会的なものをつくる。

    芸術は知覚を用いなければならない。意識自体の作動において。芸術の機能とは、コミュニケーとされないもの、すなわち知覚を社会のコミュニケーションの連関に引き入れるという点にある

    既存のコミュニケションの連関をなぞり返すだけなれば、それは芸術ではない

    今日の課題は、現代美術がいかなる仕方で鑑賞者に呼びかけているのかを分析し、そこから産出される観衆の関係性の質を査定すること。関係性とはなにか、文脈とは、コミュニケーションとじゃ、その問いに真摯に向かっていく

    ーーーー
    以下引用

    政治性や思想性がただちに芸術性を意味するわけではない。

    現代美術の世界は、問題提起そのものが芸術性の証明であるかのような傾向を持ってきている

    現代アートは、地域活性化のために必要とされるものである。地域の活性化は国策でもあり、税金を使って行われる。それがゆえに生活の必要に駆られて若手作家はこのプロジェクトに参加する

    ここで重視されているのは、地元と溶け合うことや、産業の活性化、都市のアイデンティティを失わせないこと、観光客を呼び込むこと、その芸術の中身や美についてはほとんど触れられていない


    税金が使われるため、役に立つものを作らないといけないという圧力がある中で、芸術的価値を何とか担保しようとする綱引き

    ★★関係性の美学は、マイクロユートピアの傾向、内輪で盛り上がっているだけで排除的な傾向がある。関係性の美学はマイクロユートピア、すなわち安定した調和的な共同体のモデルを志向しているということ。

    全体が把握できないという作品のあり方は、その外見開かれているようでいて、実はある一点において実際は閉じられている。それは、暗黙の内に、誰かによる批評や分析を封じている。そもそもその作品の質を問うことができない、他者の言葉が閉め出されている状態にある


    批評家は、広告代理店的な存在。

    それらの過去の運動を自身の正当化の根拠にしながら、結局は、国策の一環であるかのような地域活性化に奉仕してしまっている


    地域活性化の圏域に芸術が回収されている

    単なる権威に拠る自己正当化などが気に食わない。既存の権威を用いて自己正当化することは、美術固有の存在価値を毀損している

    美ではなく、理論や思想、イデオロギーなどの芸術に固有ではなき原理が先導している。

    68年的なものをただ参照するだけで芸術的価値が保証されると思い込んだり、社会や政治に関わりさえすればよいと思い込んでいる作家たち

    ★若いアーティスト、ボランティア、一般の参加者にいたるまでのさまざまなやりがい搾取が行われている状況下で、関係性がそれを正当化するための有効な概念に思われた
    →これ、地域づくりも全く同じだな。


    かつては先鋭的で批判性を持っていたものが、大衆化、商業化してしまうと全く違う意味を持ち始める


    商業主義のカウンターとしてあった関係性への希求がいまやマネタイズの手法として主流化し、大衆化している

    ★今日のような資本主義がマーケットを駆動している限り、あらゆるところに差異を見出し、価値を産出する資本の運動はけっして止むことはない、ローカルなものはむしろそうした価値創出のための資源。ゆえにグローバルの反動に地域主義があるのではなく、むしろ同じ出来事。

    批判やカウンターを取り込んで発展に使うのが資本主義。

    そこになぜアートの名目が必要なのか

    啓蒙や地域振興こそがアートの目的になってしまう

    重要なのは、アートツーリズムであるか否かという形式的な問題ではなく、その内容の水準。


    直接的に政治を標榜する芸術は、むしろ政治的なアクションとしては失敗している。むしろ保守的で脱政治化されているように見える絵画の方が、実はすぐれて政治的だったりする

    既存の社会関係を宙吊りにする力を、ランシエールは芸術作品の潜勢力だとみなしている

    作品が関係性をもつことを重視するあまり、それがどのyl7な関係性なのかえお十分に検討していない

    ブリオーの論じる作家は、脚本に基づいて演出されているため、作品の形式が開かれたいない

    彼らの作品は、多様な鑑賞者の間の差異を消去して鑑賞者を一般化してしまう。みな、観光客にされてしまう。鑑賞者能動的な参加を表面上は主張しつつも、鑑賞者の反応を予め想定している作品。


    地域アートは、むしろ可能性しかない。問題点は、その条件や価値付けの尺度に混乱があること

    ★★その作品がなぜ良いのかを、公共の概念と共に示すこと

    アートは条件づけられるべき。公共性の概念とともにあるアートは正しく縮減されるべき。なんでも受け入れる制度運用はダメ

    一つの原理では自立せず、四つを混ぜていくときのルールに興味がある。川俣さんにはそのルールがある

    できる範囲から外に出て行かないのが地域アート。

    民族や国家、民俗や地方のルーツを探してそれに同一化していく試みではない集まり

    地域アートは、地元の観光地化、ブランディングの装置として拡大した

    地域アート=明るい未来のエネルギー

    地域アートは成功事例をを知ってはじめて地元が動く。その成功は経済の論理だけではなく。

    ★地域アートの成功事例こそユートピア。想像上の創作物。実際にはどこにもない。あるイメージを作り出す。作品はそのイメージを補足するための風景。

    地域アートの批評は、フィールドワークすればいいのでは

  • 思弁的実在論(人類が誕生する前から、また人類が滅亡した後も、「世界」は実在する)がすごい速さでアートの世界でも広がっている85

    アートと政治。美学と政治はイコール。「虚構の二つの形式」176

    「出来る範囲のコミュニケーション」は悪(もっと言えばファシズム)だ。「出来る範囲」から外に出ていかないのが日本の地域アートの問題。「出来る範囲」を越えると「敵対性」が生じる。それで殺人が起きないのは(範囲を越えたのがアートだから)「良き政治」が宿るから。179

    アートは今、特権的な才能によって制作され、一部の者たちに所有され正当化されてきたかつてと異なり、そうしたかつてのアート概念を根底から解放する方向に移行している250藤井光

    アートを誘致すれば地域が活性化する、これはアジアに膨張していった近代思想と似ている。戦前は「天皇」という装置で人を動員した。現在は「アート」で動員している263藤井

    著者が対談の中で「地域アートに批評性が足りないんじゃなくて、批評家が力量不足(前時代的なロマン主義や、権力への批判性がアートの必須条件であると思っていること)なんじゃない?」と言われてしまう290藤井

    公共事業の大規模なアートイベントなどが増えて、その中でアーティストは自分たちを取り巻く政治性を自覚している。そこではアーティストは、代替可能な認知労働者という弱い立場である。表現の独立性を保証する制度も無いのだ、検閲や自主規制の論理がとおる。今出来るのは!その置かれた立場を確認し合うこと295藤井

  • たいてい、プロジェクトに参加していたり、プロジェクトを運営していたりする人が地域アートについて記述するので、批判的立場の書籍は少なく、こちらはその少ない書籍のうちの一つ。

  • 美術

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784906708550

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著者プロフィール

1983年、札幌生まれ。批評家。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。日本映画大学准教授。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』『新世紀ゾンビ論』『娯楽としての炎上』他。

「2021年 『シン・エヴァンゲリオン論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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