- Amazon.co.jp ・本 (326ページ)
- / ISBN・EAN: 9784907188207
感想・レビュー・書評
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東浩紀は『弱いつながり』以来2冊目だったので、弱い~の続編的な目線で読んだ。2017年の人文書としてはかなり読まれた1冊で、目を通してみると著者の熱量がうかがえる。わかりやすく丁寧な文体で書かれながらも、今の時代を憂い行動を起こそうというような焦りを感じる。これがゲンロンカフェなどを精力的に展開しようとする東の原動力であるかと思うと、納得がいく。言論人として、批評家としての世界とのかかわり方。こうした人と人の撹拌の意図は本書でいう「誤配」だろう。
本書のテーマは「観光客」。国民ではなく、旅人でもなく、観光客。国民国家と帝国という今までの社会論では二項対立的に語られていた概念が、政治と経済、コミュニタリアニズムとグローバリズム、社会と個人というそれぞれの文脈に分化されながらも、溶け合ってしまっているのが現代である。そのような時代においては、ヘーゲルが言うような個人→家庭→社会→国家という単線的な発展の図式は意味をなさなくなっている。だからこそ国家に閉じられた存在としての「国民」ではなく、どこにも根をもたない「旅人」でもなく、国家の住民でありながらも、自由に異国を訪れる「観光客」としてのふるまいに可能性を見つけている。観光客は、同じものを見ても住民が見つめるようにその景色を見つめることはない。観光客のまなざしは「偶然」に照らされたまなざしである。文化や言語の伝統的な文脈を通じてその景色を見るのではなく、偶然に「誤配された存在として」その景色に出会い、目撃するのである。そのような既存の世界を再解釈するまなざしに、次の時代の可能性があるのではないかと著者は訴える。
とても面白く読んだ。
18.1.19 -
内容もさることながら、扉の写真がユニークで面白かったです。
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2018.01―読了
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第一部は間違いなく面白かった。文章がうまいので分かったような気になる。新鮮な気持ちで読めた。哲学では避けようがないのかもしれないが引用に次ぐ引用に少し辟易する部分も。最後のドストエフスキーの部分はほとんどついていけなかった。
●観光客の哲学
・観光
・二次創作
・政治とその外部
・二層構造
・郵便的マルチチュードへ
●家族の哲学(序論)
・家族
・不気味なもの
・ドストエフスキーの最後の主体 -
ビジネスに染まった生活から距離をおいて物事を捉えるためのガイドとなる。後段の完成稿が読みたくなった。
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イーロンマスクはフョードロフ主義
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読後の率直な感想として、哲学の限界と弱点に対して徹底的に向き合って、哲学書として哲学的なアプローチで真っ向から乗り越えようとしている姿勢を強く感じた。20年以上も人文・哲学のジャンルで戦ってきたから東さんだからこその、使命を感じた。
本書の中でも触れられている通り、しばしば人文・哲学の言葉は抽象的な魔法のような言葉で、具体性を持つことなく完結してしまう。マルチチュードの概念も、反体制的な抵抗運動を指す言葉であり、デモのように強い政治性を持つ活動を行わなくとも連帯される(!)というような理想的な概念である。しかしその実は、否定神学的で具体性はなく、声を上げればネットの力でなんとかなるレベルの議論しかされていない。
そうした人文・哲学の所作をアップデートするために、①郵便的マルチチュードという概念を導入し(少し哲学の所作を超えられてない気がする)②哲学的な概念に数学的な裏付けを試みている。
特に、②は二層構造の数学的な裏付けとして位置づけているところは面白い。抽象的な哲学に対して、具体的な数学を取り入れて、なんとか哲学的な思考に具体的なロジックを担保しようとするアプローチは胸を打つ(逆に数学に社会的な哲学的な意味をもたせるという視点も共感)
しかし、同時に哲学の所作を乗り越えることが極めて困難であることの葛藤もひしひしと感じた。
本書の中でも、
・ソーカル事件に触れながら、数学を自己流による解釈で概念だけ抽出し誤った疑似科学になっていりうリスクがあると指摘していたり(実際、ソーカル的ではないと立証するに至っていないように見える)
・実際に②の数学的なアプローチも具体的に論証しきれていないとしていたり
・観光客が誤配のようなコミュニケーション(現地人と話すなど)をすれば、それが即すなわち反体制的なマルチチュードになるかといえばそうでないとしていたり、
・それに対して、本書の位置づけはあくまで草案であり、具体的な議論は次の仕事に譲るような記述になっている。
本当に難しいんだと思う。それでも、ここまで詳細に哲学・政治学のテキスト・議論を引用しながらまとめあげ、それを真っ向からアップデートする試みは東さんしかできないと感じました。 -
「最初に人間=人格への愛があり、それがときに例外的に種の壁を越えるわけではない。最初から憐れみ=誤配が種の壁を越えてしまっているからこそ、ぼくたちは家族をつくることができるのである。」
「人間とは何か?」を考えていたわけではなく、「人間とは何であるべきか?」を考えてきたのが哲学で、大衆化に応じて語られた哲学でさえ、大衆を包含した概念を語れていなかった。その意味で哲学は未だ近代以前である。シールズに代表される市民運動も未だ概念にはなっていない。著者が常日頃言っている、近代以降を説明し時代を変える概念(例えばそれは自由や公平)を探った試論が本書。
シュミット、コジェーヴ、アーレントなどの思想を説明し、その課題を揚げて試論につなげていくスタイルで、よくもまぁこれ程整理できるもんだと感心する議論の進め方で、著者の要約力がスゴいので自分が頭がいいという錯覚に陥る。
ジョン・ロールズが正義論を発表したのが1971年で、リベラリズムの歴史は結構浅い。世界を覆うかと思われていた公正の哲学は、ポピュリズムの噴出によってただの理想だったことが露呈した。
リチャード・ローティーの書くとおり、正義は普遍性を放棄し本音と建前という矛盾を受け入れるんだろうけど、それはとても人間的な社会ではある。
匿名でネトウヨ発言をし、目の前のマイノリティには寄り添う。そんな風にやりたいようにやればいいのだ。