- Amazon.co.jp ・本 (207ページ)
- / ISBN・EAN: 9784908040009
作品紹介・あらすじ
なぜ幼稚園では子どもたちに大声で歌わせるのか?
音楽は、いつから間違ってはいけないものになったのか?
なぜ人は歌うことを恥ずかしがりはじめたのか?
「情操によい」とはなんなのか?
そもそも、音楽とはほんとうにいいものなのか?
あなたが思う「音楽」は、ほんらいの「音楽」の姿なのでしょうか?
もともと「音楽」が持ち合わせない「かたくるしさ」に
無意識に、そして、進んで身を投じてはいないでしょうか?
明治期における、西洋音楽の性急な受容がもたらした
日本人のいびつな音楽観を、
音楽教育/子育てといった観点から照らしだす、
新しいかたちの音楽論です。
◆目次
序章 楽しい音楽
第一章 こども用の音楽
第二章 壊れやすい音楽
第三章 はずかしい音楽
第四章 むずかしい音楽
第五章 へたくそな音楽
第六章 わらべうたと唱歌
第七章 標本の音楽
第八章 音楽は、いいものか
終章 音楽の見取り図
感想・レビュー・書評
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ショパン(1810から1849)の頃になると、メロディーがとても自然になる。これはイタリアオペラのメロディーの歌い方を参考にしたから。
ノイズミュージックの分野、この世界では、秋田昌美を筆頭に、日本は世界中で特別扱い。
クラシックに限らず、一般に音楽と言うものは、所詮、音をこういう風に受け止めて、そのように理解しますよと言う決まり事によって成り立っている。
幼稚園保育園の先生の職業病は、喉を痛めるのと、難聴が代表的と言われる。
20世紀後半にアメリカで開発されたメソッドにマルチプルキーシステム。これは年齢が小さい頃からいろんな調で弾いた方が良いと言う考え。
国際標準ピッチは、1939年にロンドンで決められた。
今の音楽のグローバル化は、ピッチと国際標準時の2つが規定されたためにできた。
今や何が現場でノーマルなのか分からなくなってきた。それに代わって「定型発達」という言い方が使われるようになった。「発達論的に定型」というのは要するに「健康かどうか」と言う良い悪いの判断ではなくて、標準的に発達したかどうかを見ると言うこと。
音楽を意味的に構成するいくつかの要素を見ると、「むれたがり特性」というべきものがその多くを占めている。
喜怒哀楽の感情に特化した音楽が、さほど古くない欧米に出現した。
クラシックと言うのは、免震構造的な意味では、非常に性能が落ちる音楽。オーケストラで1人とちったりすると、その演奏は失敗ということになる。
1990年代においては、何かみんなで歌おうかといった時に、何々節や、木樵歌などを自然に歌い出すと言う人たちは消滅してしまい、その代わりに唱歌が皆のキーワードになった。
唱歌と言うものは、明治以降の日本政府が全国的にやっきになって叩き込んだもの。音楽が恥ずかしいものになってしまったことも、この教育と深い関係がある。
日本人は、許された空間でしか音楽ができない民族になってきた。カラオケを始め、アマチュアコーラスなど、独自の文化を発達させてきた原因。
専門の音楽が登場すると、上手な演奏が標準化されるようになり、同時にこれが音楽の商品化と言う現象と合流して「商品としての音楽」が形成される。「生活に根付いた音楽」と言う物の対極。
右上がりの思想は根強いもので、音楽は、単純なものから複雑なものえと発達していくものだ、と言う思い込みを持っている。
17、 8世紀頃のヨーロッパを想像すると、なんとなくクラシック音楽が席巻していたようなイメージがあるが、例えばモーツァルトのピアノ・ソナタなどというものは、ほんの一部のエリートだけしか聞いたことがなかった。
今、自分の中にある技術の範囲で面白い音楽を演奏すると言う考え方に切り替えれば、「どっちがへたくそ」などと言う価値判断は生まれない。
技術が上手くなったら、自分でも満足できる音楽を演奏できると考えるかもしれないが、満たされる事は無い。なぜなら、それは努力の問題ではなく、私たちの社会には満足など最初からないという思想が支配しているから。
大人というものは、子供時代を通過してしまうと、かつてあった自身の子供としての認識のオペレーション・システムを書き換えてしまう。
近代国家が軍隊を作るにあたっては、まずはリズム教育が必要だった。
シューベルト、ベートーベンでは、その音楽を見てみると、どう見てもハーモニー優先。
クラシック音楽を見てみても、もっと多くのバージョンがあっても、弾き方があっても良いのだが、大体1つのパターンに決まってきた歴史がある。
唱歌は明治から昭和初期にかけて、国家が国民に対して理想の道徳観を植え付けたいが為に開発した。
昔は子供がいなくて、歴史の途中で発見された。子供と言う人生の1種、独特の実機を持っている人たちが存在して、そこに大人が愛しさや、懐かしみといった独特の視線を投げかけると言う津波は近代になってからのこと(フィリップ・アリエス)
教育という概念は「子供」と言う概念なくしては生まれない。つまり、教育が発明され、整備されていくというのは、意外にも近代まではなかった。
教科書の選曲などを見ると、学校の音楽教育は、人々から音楽の自主性を奪いとる働きをしている。
ナチスの将校たちは、ベートーベンやモーツァルトを愛好しながらも、残虐な行為に関与していた。
東日本大震災の被災地の仮設住宅に張り出された、「心のケア、お断り」。
音楽論と言うのは、全てがあるナラティブだったということがわかる。つまり、ある特定の時代、場所において、構成された文化の枠組みの内部で施行された産物だった。
異文化と言うものを都市が正しく理解することなどできるだろうかと言う問題。誰がどの立場から多少理解しようとも、偏見から逃れないものである
日本の中で、生活保護、路上生活者の問題等について、様々な研究があっても、それが当事者に届いているかと言うと、それはかなり怪しい。研究者、本人が正義のつもりでやっている研究であれ、結局西洋的なイデオロギーに毒されているのではないかと指摘する。(スピヴァグ)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
筆で字を書けなくしてしまったのは 誰だ
絵を描けなくしてしまったのは 誰だ
そして
歌を歌えなくしてしまったのは 誰だ
ずっと 気がかりだった素朴な疑問です
いろんな方が
「明治」以降という視点を
据えて論じておられる
言語学者、哲学者、教育学者…
明治以前、
「学問」という言葉は
その概念がなかった
存在しない言葉だった
むろん
「音楽」も然り
その「西洋音楽」という
急ごしらえの「音楽」概念の
輸入の話から解きほぐされていく
それぞれの章が
たまらなく刺激的で
なんども
「なるほど!」を
連発してしまった -
なんだかね、ワクワクするのです、この本。徒然舎さんで見かけてパラパラと開いてみてう〜ん、音楽の教科書なんだけどまったく楽譜が載っていないのです!不思議だなぁ、と思いながらもつい購入してしまいました。まだ今は積ん読だけど、いつかまとまった時間をあてて読んでみたいな、と思います。
購入してから1ヶ月ほどかかりましたが、読み切りました。素晴らしい。僕には音楽の難しいこともわからないし、音楽の特別な技量もナニもないのですが、この本を読んでいて、派生的に調べた言葉が自分にしっくり来る感じもあって、読んでよかったな、という実感を持っています。
これは前にも買いたけれど、楽譜、音符と言うものがまったく書かれていない音楽の教科書です。音楽って素晴らしいものだと僕は受け止めているけれど、僕の受け止めている素晴らしさっていうのは結構表層的なことだったり形式的なことだったりして、形にできない良さのようなものを僕は今まできちんと実感できていなかったように思います。難しい言葉に置き換えることばかりが良いこととは思いませんし、その点では哲学・思想学的な基礎知識・基本用語がわかっていないとナンノコッチャ?ということになってしまいそうな本ではあります。だけど、分からない言葉を自分なりに調べながらでも読む意味があったんじゃないかな、と今は思っています。
音楽って、特に形にならないもの、形のないもの何じゃないかな、と思うのです。だからこそ、こういう教科書を、「音楽が好きだ」と思っている人こそが読むべきだろうと思うのでした。親のための、と書かれているけれど、「音楽を好きだと思っている人のための」と置き換えてもいいんじゃないかな?とすら思っています。
音楽を好まれる方には必読の書ではないかと思います。 -
音楽についての偏見や誤解をバッサリと明確に論じた好著だ.君が代の解説(P141~147)が面白かった.明治時代に政府が導入した西洋音楽を主とした音楽教育の矛盾や問題点がよく理解できた.
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▼福島大学附属図書館の貸出状況
http://www.lib.fukushima-u.ac.jp/opac/opac_details.cgi?lang=0&amode=11&bibid=TB90301071
(推薦者:共生システム理工学類 永幡 幸司先生)