軽い帝国: ボスニア、コソボ、アフガニスタンにおける国家建設

  • 風行社
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  • Amazon.co.jp ・本 (189ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784938662660

作品紹介・あらすじ

帝国であるか否かではなく、「帝国の責務をどう果たすか」を問う。

感想・レビュー・書評

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  • マイケル・イグナティエフの『軽い帝国』(風行社)を読んだ。ここのところ、「帝国」は本を選ぶときのキイ・ワードになりつつある。イグナティエフの立場はリベラル・デモクラティック・インターナショナリストのそれである。といっても、なんだかよく分からないかもしれないが、政治的にはリベラルで民主的な立場だが、一国主義をとらず国際的な視野に立ったもの言いをするというところであろうか。

    副題は「ボスニア・コソボ・アフガニスタンにおける国家建設」であるように、ここでいう「帝国」がアメリカを指しているのはいうまでもない。現代は“Empire Lite”で、たばこやコーク、ビールによく使われる「軽い」という意味のLiteが帝国にかぶさっているのは、皮肉な意味合いが込められている。

    何が軽いのかといえば、本来の帝国はその属領地に対して、長期にわたって、その安全を守り、政治的に安定化するまでのケアをし続けるものだが、それには膨大なコストがかかる。かつてのローマ帝国は、故国を遠く離れたアフリカにある属領地に至るまで、ほぼローマと同じ生活が送れるような道路、水道等のインフラを保証していたことは、マグレブを旅していて、実際に眼にし、驚いたのを覚えている。

    アメリカは、自国を帝国だと考えていない。しかし、他を圧してあまりある巨大な軍事力の誇示一つとってみても、まちがいなく帝国としての働きを行っている。イグナティエフは言う。「もうそろそろ気づいてはどうか」と。このジャーナリスト上がりの学者は、アメリカがボスニアやコソボ、アフガニスタンに介入したことは、人道的介入として認める立場をとる。もし、そうしなければ、民族浄化の果てに少数民族はジェノサイドされ、勢力が拮抗している場合は、はてしなく内紛が続いていたはずだというのがその理由である。

    しかし、ボスニア、コソボ、アフガニスタンそれにイラクを付け加えてもいいが、アメリカが軍事介入した後のその国が決して順調に国家として復興しているかと言えば、そうではない。むしろ、ほとんどみじめな状態に置かれている。宗教や民族のちがいをこえて、アメリカ流の民主主義が、そう簡単に根付くはずもなく、混乱から脱し切れていないのが実態である。

    アメリカが、「軽い」帝国たらざるを得ないのは、民主主義政体を持つアメリカでは、大統領選挙が行われるたびに国家予算の支出について、国民の審判を仰がなければならず、膨大な予算を食う「帝国」的な在り方は与党にとって不利だからである。つまり、選挙が近づくにつれ、軍事その他の支出は縮小されざるを得ない。植民地的な国家は、そのために、ごく短期間に独立国家の体裁を整えることを要求される。ローマが帝国であり得たのは、征服した諸民族が独立した属領国家になるまで、執政官や軍隊を常駐させ、反乱を抑え込むことを徹底して行ったからである。それができないアメリカは、「軽い」帝国といわれても仕方がない。

    評判の悪い帝国主義と「帝国」はちがう、というのが近頃の受けとめ方らしい。冷戦後の世界の様子を見るとき、パクス・アメリカーナ(アメリカによる平和)が現実的な選択肢として浮かび上がるのも故なしとしない。著者の考え方には必ずしも与しないが、アメリカ軍即時撤退が、必ずしもベストな選択ではないというのが分かるという意味でも、今日的な意義を持つ一冊である。

  • アメリカは欧州のがいこうてき、経済的協力なしに世界規模の帝国を機能させることはできない。欧州諸国の参加は不可欠。
    アメリカは心変わりしやすいことで有名である。
    帝国は大きな政府を意味する。アメリカ帝国の逆説は、これが大きな政府を件のする共和党政権によって推し進めらっれていること。
    帝国主義はかつては白人の責務であった。このことは帝国主義の評判を悪くした。

  •  帝国は、その力に見合った義務を有しており、その帝国的義務を行使する事が問題なのではなく、コストと成果を意識し、義務の履行を怠っている事が問題だとするリベラル帝国主義者、あるいはリベラル介入主義者を代表する論客イグナティエフによるエッセイ。

     米国のリベラル介入主義者の多くは、9.11以後のアフガン介入を支持したものの(ウォルツァーなど)、イラク戦争を前にしてイラクへの介入は道義的にも正当化出来ないと批判をした訳ですが、イグナティエフはそれでも支持をしたグループに属するわけです。

     各論としては、個別のストーリーがボスニア、コソヴォ、アフガンと取り上げられており、それ自体は興味深くもあり、またイグナティエフの理解を後追いする上で有用だと思う。やはり面白いのは、彼の帝国としてのアメリカ認識であり、アメリカの信じる倫理や規範を力によって執行する前提には、介入のリスクとコストが一致する必要があるとの主張である。ここでチェチェンは、介入するコストが大き過ぎて、帝国の庇護から「見捨てられる事例」とされる。こうしたアメリカの介入は、ダブル・スタンダードであるというのは当然であり、むしろその事が帝国としてのアメリカの特性を捉えているともイグナティエフは触れる。

     イグナティエフの帝国としてのアメリカのダブル・スタンダードの是認、もしくはそうした特徴の率先的受容という姿勢は、イギリスの比較政治学者J.ヒューズがチェチェン紛争研究の中でコソヴォとチェチェンに対する欧米の政策をダブル・スタンダードであると痛烈に欧米を批判したという事実に対して、「帝国の介入とはそもそもそういうものなのだ」という冷徹な回答を提示しているような気もする。

     しかし、他方で、イグナティエフが本書執筆後、混迷を極めるイラクに対して、自らも支持していたイラク戦争開戦やその後のブッシュ政権の政策について「アメリカ国民はこの戦争の本当の目的を知らされていなかった」と述べている事に触れると、彼の主張の一貫性のなさや矛盾について感じざるをえない。「軽い帝国」としてのアメリカが担っていると感じている国際社会の秩序形成における義務は、イラクやアフガンでアメリカが国連などの国際機関に「助けを求めた」ように、アメリカが「アメリカらしくあるために」、リベラル介入主義者によって半ば想像されたイメージであって、それは同盟国や各種国際機関がアメリカを支えざるえないという環境があってこそ、創出されうるのだという事、イグナティエフは気がついているのではないだろうか。

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