OTV(オー・ティー・ヴィ)(1985年)

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  • ダイヤモンド社 (1985年7月23日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (195ページ)

OTV(オー・ティー・ヴィ)(1985年)の感想・レビュー・書評

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  • (*01)
    「ノリ」がいいことがいい、とされた時代があったことを思い出させる本である。
    テレビの前では現実の貧富が均され、視聴者あるいは消費者という単位に還元される。本書よりも一世代前に叫ばれた総白痴化は、受信的な知の在り様とともにテレビの前での平等を予言していた。しかし、その後、本書が出版された「豊かさ」の時代にいたり、平等は内部で分化しつつ各々の機関を発生していたことが明らかとなった。
    本書では、演出、脚本、編集、提供、配役などのパターンが類型化され(*02)、番組ごとに定型化されている状況がアイロニカルに指摘されている。このことは、視聴者の思考がパターン化しており、その思考をなぞるような番組が作られ現われたことを意味する。そして、その思考と番組のパターンがあまりに定型化されすぎているがゆえに、笑劇となって笑われている時代をも示している。思考と番組が定型化することによって両者が共振しながら律動することができ、番組制作者と出演者と視聴者によるリズミカルな「ノリ」が発動する。
    つまり、本書は、1980年前後のテレビ番組の類型と定型に「ノリ」つつ「ツッコミ」を入れたテレビ批評として読める。
    「ノリ」は乗っている事や物を意識下に晒す暴露行為でもあり、時代の輪郭を描く作用がある。バブル経済は、貨幣、商品、労働が、実体経済がなす資源と生産の容量を超えて、上乗せられ大盛りにされた投機的な状態であるが、テレビ番組の類型化と定型化がこのバブルの過剰部分に奉仕していたと考えられる。
    例えば、著者のホイチョイ・プロダクションと同世代として類似のグループに括られる安倍晋三氏について、彼らの繰り出す「アベノミクス」と呼ばれる経済政策や、当時のテレビ番組の様に相手国のイメージを定型化して類型化する外交政策、テレビの前の平等と同様の仕組みを利用し国民を分断する国内政策などに、当時のテレビ番組の影響が見られる。
    本書が発表された1985年当時、かつて町内で数台であった時代からテレビは各家庭に一台が標準となっており、前後してこの頃から各部屋に一台、各個人に一台と複数台化し、そして約30年後の現在では個人が数面ものモニターと向き合う社会となった。
    このようにテレビやモニターが増殖し蔓延した社会を背景に、媒体も多様化し、放送局も多様化し、番組も多様化し、パターンも多様化した。
    しかし、多様化した中にもパターンは細々と脈々と綴られ続けている(*03)。お茶の間が現代の家族にまだかろうじて平穏をもたらす程度に、テレビにパターンはしつこく絡みつき纏わりついている。
    しかし当時の王道なパターンたち、黄金のパターンたちは今、どこらへんを天下としてのさばっているのか。
    本書の終盤にディズニーが取り上げられているが、愛すべきパターンたちは、ディズニーランドの様に施設化したグループもあれば、政策化したグループもあり、わたしたちのいまの日常の所作や会話にもお決まりのパターンはボケのようみ満ち溢れ、しばしばツッコまれつつ、生きながらえている。
    パターンはその形式を連れてどんどん外化する。

    (*02)
    加えてお決まりのパターンのお決まりロケ地もあったかと思う。実際に訪れたこともないのにやけに見慣れた場所として現われたロケ地は、今、どのようにあるのだろう。

    (*03)
    パターン化は、パタン・ランゲージとして、テレビが発信していたやや一方的ではあるコミュニケーション手段の形式だったのではないだろうか。番組は、視聴者に見やすいように加工され、平穏を与えるためパタンを設定したと読むことができ、視聴率という数字により番組がデザインされていったと読み進めることもできる。

  • 28 TV番組の代表的ジャンルのパターンを抉る。面白かった。

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