むかし・あけぼの―小説枕草子 (1983年)

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  • サブタイトル の「小説枕草子」を見ればわかる通り、これはかの清少納言が枕草子(作中では「春はあけぼの草子」)を書き始めたところから始まり、中宮定子のサロンで女房として働きながら、それを書き綴り、そして書き終えるまでを描いた小説である。
    平安王朝で権勢をふるった関白藤原氏、その権力の移り変わりに翻弄され若い命を散らした中宮定子の辿る道は知られている通りなので、展開について目新しさはない。しかしこれだけの分厚い本だというのに、私は全く読み飽きもつっかかりもせず、一気読みしてしまった。その理由はただただ、田辺聖子という女流作家の圧倒的な筆のちからだと言わざるを得ない。
    何にしても女流だとか、女子だとかいう冠詞をつけるのは個人的にはあまり好まないが、これは敢えて女流作家とつけたい。女と女社会のキラキラした美しさ、かしましさ、愚かしくて、浅ましくて、でも可愛らしくて、愛すべき人達。「そうそう!」と思わず笑いながら読み進めた。男性、女性とわけるのはナンセンスだとおもいながらも、こういう小説は、やはり男性には書けないだろう。 勝気な清少納言がつまらぬ意地を張ったり、女達が下衆を見下して嗤ったり、誰かの陰口を言ったり言われたりするところなど、醜くてイヤだなと思っても、どんな女もどこか肌に馴染む感覚がある。
    このお話の中の清少納言は、世のイメージ通りの、勝気で、豊かな知識を武器に男性と対等に(時には男性をとっちめる位)やりあい、人に褒められて鼻高々になってはそれを吹聴する「可愛げのない」女であるが、彼女みたいなバカ正直な人間、私は大好きである。誰それの悪口を言ったとか、誰それのここがダメとか、私はこんなに当意即妙に答えられたのよとか、心の中で思っていたとしても、普通は人の目を気にして、言わずにそっとしておくものでしょう。それができる清少納言という人は、サバサバとした男前気質で、私の目には好ましく映った。
    さらに「女と鬼は人に見えぬぞよき」という考えが普通である中、金銭的にも精神的にも男には頼らず、職業婦人として正々堂々と生きた清少納言という人は、千年前の人とは思えないほどに先進的であったと思う。
    私は清少納言が男性をやっつけるのを見て痛快だと思ったが、しかし男性にとっては面白くなかったのだろう。あとがきにあるが「女というものはつつましく謙譲で、男より一歩下がった生活態度でいなければならぬ」と思っている男性の王朝文学学者の評では清少納言はこきおろされているようだ。
    つまり千年後の現代も、当時とその辺の考え方があまり変わっていないのである。
    「むかし、あけぼの」で描かれる、清少納言の最初の夫である橘則光の考え方について、私は「なんという男尊女卑」と思って読み進めていたが、男性読者は彼の方に感情移入する方も多いのかもしれない。そう考えるとこの小説は読む側の性別によって二つの見方ができるのだなとおもえてそれもまた面白い。

  • 『源氏物語』はいろんな人が訳したり漫画にしたりしているけれど、
    女流平安文学の双璧と称される割に、枕草子に言及した文献は少ない(ように思う)。
    清少納言の目を通して語られるせいか、皇后定子が綺羅星のように美しく、
    それゆえに、一族の末路が哀しい。

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