スティグマの社会学―烙印を押されたアイデンティティ (1980年) (せりか叢書)

3.67
  • (0)
  • (2)
  • (1)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 8
感想 : 3
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • これがスティグマ図鑑ということさえ分かれば、数ページ読むだけで十分な本である。

    さて、教養という無意味な服飾で身を飾ることを人生の目的として読書する人達はさて置き、そうでない私達がこの本から読み取り、やらなくてはならないことは「内的アイデンティティと外的アイデンティティ(スティグマ)の乖離は、私たち人類が抱える構造的な不幸であるらしい」ということを理解することであり、次に「ではその構造をどう理解し、変えていくべきか」を考え、それが解ったら解決すべく行動に移すことである。

    私はここに、この不幸の意味を理解し解決に導くヒントを持っている。それを示す。

    言語学者の友人によると、彼らの間で世界一難解とされる言語は京都弁であるという。
    ここで、京都弁の本質を簡単に説明する。
    例えば「〜してくれませんか」
    これが京都弁では時に「〜してくれはらしまへんでっしゃろか」と表現される。分解すると、
    「〜して(命令)くれ(希望)はら(尊敬語)しま(疑問)へん(否定)です(終了)やろ(推測)か(願望)」となり、次々に語尾が追加されることで意思が曖昧にされる(私は言語学者でないのでカッコ内はニュアンス)。
    この説明がよく分からない場合は文章の末尾にあらゆる顔文字をくっつけたメール文のイメージで捉えると良い。例:おはよう(^_^)(^^;(;_;)(--)・・。結局どういう気持ちなのかを悟らせない(実は気持ちでも意味でもないものを伝えている)。この性質が世界一難解とされる理由とおことである。

    京都弁がそのような特徴を持った理由として1200年余りの間、首都として権力争いの場となっていたことが一つ言われている。つまり、毎度為政者の都合で変化するイデオロギーの激流に晒された結果、個々が社会的なルールや言語に拠らないスタンドアロン型イデオロギーを発達させ、それが共通言語によらない言語コミュニケーションとなっていったということである。要は、意味は意味の外にあるから言語そのものに機能は持たせない、つまり肉体も精神も必要としなければアイデンティティもスティグマも生じない、ただ今ここにある意思の全てがその意思の全てを示し、存在の全てを示す、ということである。自己同一性は保つ必要があるものではなく結果として自己同一性は保たれているだけのもの、という考えである。

    したがって、京都では相手に社会的な所属などの外的アイデンティティを尋ねたり話題に上げたりするのはタブーであり、また休日は何をしているのか(を知ることでタグづけをする行為)等のそれに準じる話題も基本的にタブーである。ここで注意したいのは京都には地方出身者が言うような「ぶぶづけを召し上がれと言われたら帰れという意味」などの共有されたルールは一切なく、結果として個々の京都人のタブーとなるものが共通しているという現象が起こっているということである。

    サン=テグジュペリの小説「星の王子様」の冒頭で、この絵を誰もが帽子だと答えるので、僕はいつも大蛇が象を飲んでいる内側の様子を説明しなくてはならならず、うんざりしている。仕方ないので、ゴルフや政治やネクタイの話をすると大人はこんなに良識のある人に会えたととても喜ぶ。という下りがある。

    京都人にまつわる「田舎者差別」や「遷都奠都問題」「閉鎖性」などの話題が示しているものは、為政者による押し付けの歴史が見せたもの、すなわち尊厳のないタグ分類や好奇的欲求を満たそうとする者達が発露させる社会的な所属やイデオロギーによってスティグマの奈落へ付き落とされる人達が生じてしまう構造(上記の例で言うとゴルフや政治の話ができれば良識ある人間とされ、そうでなければ良識ある人間とは見なさないというバカげたルールの発生)への京都人特有の理解であり、一方でそれを知ることもなく考えもしない者達の持つ、多くは善意や友好性を装ってなされる平和ボケしたあくどさへの京都人特有の理解である。即ち「無知の罪」への怜悧な感性である。

    京都人達はその感性を長い年月虐げられることで手に入れた。だが、私たちは彼らの歴史によって成すべきことをもう知っている。
    私たちが、自分の行いが時に見えない誰かを不幸にし幸福にするとの想像力と感性を保ち続けることのできる者であるなら、私たちがいつか知人やその家族の職業や学歴、出身、交際している友人、年齢、休日の過ごし方などを知りたがったことのある過去や現在を恥じるだろう。

    私たちこそがスティグマという不幸の呪いの発信者であることに気付くなら私たちにもこの構造に打ち勝ち不幸を止める目が出てくる。
    一方で、不幸は構造だから仕方ない、人間は難しい、と私たちの罪に蓋をして責任放棄するなら私たちは人々を不幸にし続けながら生涯を終えるだろう。

    ところで、私は2/3くらいのところで読むのをやめたので知らないが著者が最後まで自らの考察や思いを差し挟まなかったとしたらそれはそれで賢明な判断だ。

    彼がどんな思いを持とうと、このような地球人の構造的不幸というジャンルに於いては、結局全て個人がどう生きたいのかという問題に集約されるのだから。

  • スティグマを持った人が社会でどう行動しているか
    どう行動することを期待されているか
    例が多く挙げられているので理解しやすい
    洞察力の深さに
    これが社会学なのだと少し感動
    自分がしているパッシングに対しての認識も変わった

全3件中 1 - 3件を表示

著者プロフィール

(Erving Goffman)
1922-83。現代アメリカの代表的な社会学者。カナダに生まれ、トロント大学卒業後アメリカに移住。シカゴ大学大学院(社会学専攻)に進み、W.L.ウォーナーに師事。49年同大学で修士号を取得し、同年より51年までエディンバラ大学の社会人類学科に籍を置き、シェトランド諸島のフィールドワークに従事。
53年にその成果をまとめた論文でシカゴ大学より博士号を受ける。54年より57年まで合衆国国立精神衛生研究所の研究員として研究のかたわら、精神病患者の参与観察を行なう。カリフォルニア大学バークレー校教授、ハーバード大学国際問題研究センター特別研究員、ペンシルバニア大学人類学・社会学系教授を歴任。この間、61年マッキーヴァー賞を受賞、82年アメリカ社会学会長に選任される。本書(67)のほか、『行為と演技──日常生活における自己呈示』(59)、『出会い──相互行為の社会学』(61)、『アサイラム──施設被収容者の日常世界』(61)、『スティグマの社会学──烙印を押されたアイデンティティ』(63)、『集まりの構造──新しい日常行動論を求めて』(63)等の著作がある。

「2012年 『儀礼としての相互行為 〈新装版〉』 で使われていた紹介文から引用しています。」

アーヴィング・ゴッフマンの作品

最近本棚に登録した人

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×